IR情報で読み解くダンジョン経済学   作:カトーユキヒロ

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第7話:つむつむの研究室

 共同研究契約の締結から二週間後。

 

 魔物素材工学研究棟のドアが開いた瞬間、紬は息を呑んだ。

 

 雨漏りのバケツが消えていた。天井の穴は修繕され、新品のLED照明が研究室を隅々まで均一に照らしている。ガムテープで仮止めされていた配線は全て撤去され、代わりにプロの電気工事業者が施工した安全な配電盤が壁面に設置されていた。

 

 そして実験台の上。

 

 二世代前の型落ち分析機器があった場所には、最新鋭の高分解能質量分析計、走査型電子顕微鏡、そして恒温恒湿の試料保管庫が、真っ白な実験台の上に鎮座していた。試薬棚には国際規格のラベルが貼られた高純度試薬が整然と並び、カップ麺の残骸は跡形もない。

 

「…………」

 

 紬は入り口に立ったまま、しばらく動けなかった。

 

「ここ……本当に、私のラボ……?」

 

 掠れた声が漏れた。二週間前まで廃墟だった場所が、メジャー研究室にも引けを取らない設備を備えた、本物のラボに生まれ変わっている。

 

「設備のリストは五十嵐さんが出してくれたものをベースに、東朋マテリアルの研究部門で使われている機種を参考にして選定しました。不足があれば言ってください」

 

 背後から陽太が声をかけると、紬は弾かれたように振り返った。

 

「不足なんて……こんなの、想像もしていませんでした。走査型電子顕微鏡なんて、災害前の大学にもなかったのに……」

 

 紬の声が震えている。だが、その瞳はすでに潤んではいなかった。涙の代わりに、研究者としての凄まじい光が灯り始めている。

 

「……使って、いいんですね」

 

「当然だ。あなたのラボだ」

 

 その一言を聞いた瞬間、紬のスイッチが入った。

 

 白衣を翻し、紬は実験台に向かって歩き出した。歩くというより、駆けるに近い。鞄から取り出したUSBメモリを分析機器に差し込み、三年分の未処理データを次々と流し込んでいく。

 

「まず、このサンプルを走査型電子顕微鏡で……いや、先に質量分析をかけた方が分子量の分布が……ああ、でも試料のpH安定化が先だ、恒温槽の温度設定を……」

 

 独り言がマシンガンのように溢れ出す。両手が同時に違う作業をしている。右手が分析機器のパラメーターを入力しながら、左手は試薬瓶のキャップを開けている。目はモニターを見ているのに、手元のピペットの操作は寸分の狂いもない。

 

 陽太は実験台から少し離れた場所に立ち、その姿を黙って見ていた。

 

(……一鉄さんと同じだ。機会と道具を与えられた瞬間、別人になる)

 

 二週間前、カップ麺の残り汁をすすりながら型落ちの機器を睨んでいた女性は、もういなかった。目の前にいるのは、最先端の装備を手に入れ覚醒した、本物の研究者だ。

 

 一時間が経過した。紬は一度も振り返らなかった。

 

 二時間が経過した。ペットボトルの水にも手をつけていない。

 

 三時間目に入った頃、紬が突然手を止めた。

 

「……湊さん。ちょっと来てください」

 

 紬の声のトーンが変わっていた。陽太が実験台に近づくと、紬は走査型電子顕微鏡のモニターを指差した。

 

 画面には、ダンジョン由来の海洋生物──深海に棲息する魔素を含んだ藻類の細胞構造が、数千倍に拡大されて映し出されている。

 

「これを見てください。この藻類の細胞壁に含まれる魔素含有ポリマー、従来の分析機器では分子構造が粗くしか見えなかったんですが、この顕微鏡なら……」

 

 紬の指が、画面上の微細な構造をなぞる。

 

「……ほら。ここです。分子鎖の末端に、未結合の活性基が規則正しく並んでいる。これは──この子たちが、何かと結合したがっているんです」

 

「結合したがっている?」

 

 陽太が眉を上げた。紬は顕微鏡から顔を上げ、目を輝かせながら言った。

 

「この生物は、歌っているんですよ」

 

「……歌っている?」

 

「分子構造を見ていると、聞こえるんです。この活性基の配列が、特定の周波数で振動しているのが。耳で聞こえるわけじゃないんですけど、データを読むと……脳の中で音になるんです。この子は今、“誰かと繋がりたい”って歌ってます」

 

 陽太の腕に、鳥肌が立った。

 

 共感覚に近い感覚で素材の声を聴く。それは科学の領域を超えた、天才特有の異能だった。陽太の検査官スキルが数値として対象の状態を読み取るのと同じように、紬は分子構造のデータから音として素材の本質を読み取っている。

 

(……この人は、本物だ)

 

 陽太は少し考えた後、リュックから保冷ケースを取り出した。中には、保存液に浸された泥スライムの核が一つ入っている。

 

「少し良いか? 藻類の研究は今後も続けてもらっていい。それと並行して、もう一つ見てほしいものがある」

 

 陽太が核をケースごとデスクに置くと、紬は怪訝な顔をした。

 

「スライムの核……ですか? なんでこんなものを」

 

「正確には泥スライムの核だ。うちの会社の主力商品の原料だ。詳しくは話せないが、この核にも魔素含有ポリマーが含まれている。お前の目で、この藻類のポリマーと、スライムの核のポリマーを比べてみてほしいんだ」

 

 紬は半信半疑で核を手に取り、走査型電子顕微鏡にセットした。そして、モニターに映し出された分子構造を見た瞬間──息を呑んだ。

 

「……嘘。これ、藻類とよく似た活性基を持ってる。ううん、似てるどころか……こっちの方が、もっと強く歌ってる。この子の方が、ずっと結合したがっている……!」

 

 紬の目が、研究者の興奮で輝いた。

 

「社長、これ……どこで手に入れたんですか。こんなに純粋な魔素含有ポリマーの結晶、見たことない」

 

「言っただろう。うちの主力商品の原料だと。……この核を好きなだけ使ってくれ。いくらでも供給できる」

 

 紬は核を見つめたまま、しばらく言葉を失っていた。研究費だけでなく、最高の研究設備、そして無尽蔵のサンプルまで与えられる。研究者として、これ以上の環境はない。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 それから数日後。

 

 陽太がラボを訪れると、紬はモニターの前で船を漕いでいた。実験台の上には、三日分の実験データが出力された紙の山と、飲みかけのペットボトルが五本並んでいる。白衣は着たきり雀で、髪はさらに乱れていた。

 

「……五十嵐さん。家に帰ってますか?」

 

「んー……きのう帰った気がします……たぶん……」

 

 紬は半開きの目で曖昧に答えた。完全に研究に没入しており、生活リズムが崩壊している。

 

 陽太がため息をついた、その時。ラボのドアが開き、凪が紙袋を手に入ってきた。

 

「はい、差し入れ。今日はピスタチオ味よ」

 

 凪は紬のデスクにマカロンの箱を置き、ペットボトルの山を片付け始めた。紬が目を覚まし、マカロンの箱を見て顔をぱっと輝かせた。

 

「わ、凪さんだ! 今日もマカロン持ってきてくれたんですか!?」

 

「あなたが放っておくとカップ麺に逆戻りするからよ。これは監視業務の一環」

 

 凪は冷たい口調で言いながら、紬の散らかったデスクの上を手際よく整理していく。論文の束をファイルに綴じ、空のペットボトルをゴミ箱に集め、試薬の蓋を閉め直す。

 

「凪さん、ありがとうございます! ピスタチオ味、私大好きなんです!」

 

「先週あなたが寝言で呟いていたのを覚えていただけよ」

 

「え、私そんなこと言ってました……?」

 

 紬がマカロンを頬張りながら、幸せそうに目を細める。凪はその姿を横目で見て、かすかに口角を上げた。

 

 陽太はラボの入り口に背を預け、腕を組んでその光景を眺めていた。

 

(凪のやつ、完全に紬の世話係になってるな)

 

 凪は週に三回、判で押したようにマカロンを持ってラボに現れるようになっていた。表向きは研究の進捗確認だが、やっていることは生活崩壊した天才研究者の食事管理とデスク周りの清掃だ。

 

 だが陽太は、それが凪なりの投資管理であることを理解していた。5000万の資産が、カップ麺と睡眠不足で壊れたら元も子もない。紬の頭脳を最大効率で稼働させるための、冷徹で、しかし不器用に温かい飼育管理だった。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 ある日の夕方。凪がいつものようにマカロンを届けにラボを訪れると、紬がモニターの前で小躍りしていた。

 

「凪さん凪さん! 見てください! 泥スライムの分子鎖の結合パターン、ついに三次元モデルが完成しました! この子たちの歌の正体が分かったんです!」

 

 紬は凪の腕を引っ張り、モニターの前に連れていく。画面には、複雑な三次元分子構造がゆっくりと回転しながら表示されていた。

 

「……ここに何が見えるか分かりますか、凪さん」

 

「分子構造の三次元モデル、ということは分かるけど。私は法律屋であって科学者じゃないわ」

 

「ですよね! でもすごいんですよこれ! この活性基が特定の金属イオンと接触すると、常温で自己修復型の被膜を形成するんです! つまり──船底に塗れば、海水中の魔素による腐食を自動的に修復し続ける夢の塗料になるかもしれないんですよ!」

 

 紬は両手を握りしめ、瞳をキラキラと輝かせながら早口でまくし立てる。専門用語の洪水に凪は完全に置いていかれていたが、紬の興奮が本物であることだけは伝わった。

 

「……あなた、そういう顔をしている時が一番生き生きしてるわね」

 

 凪がぽつりと呟くと、紬は照れたように頭を掻いた。

 

「へへ。よく言われます。研究のことになると止まらなくなっちゃって……」

 

「止まらなくて結構よ。それがあなたの価値なんだから」

 

 凪はマカロンの箱をデスクに置き、紬の散らかった論文を手際よくファイリングしながら、何気なく言った。

 

「……ところで五十嵐さん。あなたの名前、紬でしょう。つむつむって呼んでいい?」

 

 紬が、ぱちぱちと目を瞬かせた。

 

「つ、つむつむ……? 誰にもそんなあだ名で呼ばれたこと、ないです」

 

「じゃあ私が最初ね。嫌?」

 

「いえ……嫌じゃ、ないです。むしろ、なんか……嬉しい、かも」

 

 紬の頬が、マカロンのフランボワーズ色にほんのり染まった。

 

「私も凪ちゃんって呼んでいいですか?」

 

「ええ。いいわよ」

 

「やったぁ!」

 

 陽太は廊下からその様子を覗き見て、そっとドアを閉めた。

 

(ありがたい。凪に任せておけば、大丈夫だな)

 

 天才を買い、天才を育て、天才を守る。その全工程を、陽太はこの一ヶ月で学んだ。そしてその中で最も難しい“育てる”の部分を、凪が見事にやってのけている。

 

 陽太はポケットの中のタブレットに手を伸ばした。画面には、まだ開いたままの瀬戸内シーライオンのIR資料が映っている。

 

 紬の研究が実を結ぶまで、もう少し時間がかかる。だがその間にも、瀬戸内海の巨大なクジラは、内側から静かに腐り続けている。




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