IR情報で読み解くダンジョン経済学   作:カトーユキヒロ

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第8話:別の海に潜る

 紬の研究室が軌道に乗り始めた頃、陽太は夜の時間をもう一つの案件に充て始めていた。

 

 深夜の第二工場・事務所。デスクの上には、ノートパソコンのモニターに加え、プリントアウトされた資料の束が幾重にも積み上がっている。瀬戸内シーライオンの有価証券報告書、決算短信、中期経営計画、IR説明会の書き起こし、過去五年分の株主総会議事録。

 

 陽太はその全てに目を通し終え、赤ペンで引いた線と書き込みだらけの資料を、デスクの上に扇形に広げた。

 

(表面上は完璧な企業だ。売上は右肩上がり。営業利益は過去最高。株価も市場の期待を反映して堅調に推移している)

 

 だが、数字は嘘をつかない。そして、嘘をつけないからこそ、隠しきれない綻びが滲み出す。

 

 陽太は赤ペンで丸をつけた三つの異常値を、改めて見つめた。

 

 一つ目。修繕費の異常増加。売上が前年比200%に伸びているにもかかわらず、船舶の修繕費が前年比280%に跳ね上がっている。船が増えたから修繕費も増えた、という説明は一見合理的に見えるが、売上の伸び以上に修繕費が膨らんでいる。つまり、一隻あたりの修繕コストが悪化しているのだ。

 

 二つ目。一年半前の開発責任者の突然の辞任。瀬戸内シーライオンを海運の覇者に押し上げた革命的な魔法船底塗料──その開発を率いた技術のトップが、プロジェクトの絶頂期に辞めている。IRでは“一身上の都合”とだけ記載されていた。

 

 三つ目。雑費の不自然な膨張。有価証券報告書の販管費の内訳を精査すると、“その他雑費”の項目がこの一年で三倍近く増えている。雑費とは、どの勘定科目にも分類されない少額の支出を放り込むゴミ箱のような項目だ。それが三倍に膨らむということは、表に出せない支出が増えていることを意味する。

 

(修繕費の急増は、船に異常が起きていることを示す。開発責任者の辞任は、その異常の原因を知る人間がいなくなったことを示す。そして雑費の膨張は──問題を隠すために、帳簿の外で金が動いていることを示す)

 

 三つの点が、一本の線で繋がろうとしている。

 

 ◇ ◇ ◇

 

「調べてきたわよ」

 

 翌朝。フェリーの船内ラウンジで、凪がタブレットを陽太の前に差し出した。画面には、瀬戸内シーライオンの法人登記簿、過去の訴訟記録、特許出願リストが並んでいる。

 

「法人登記は問題なし。資本金80億、従業員数約3000人。瀬戸内海の特区間フェリー航路のシェア約60%を握る最大手。創業は12.11の翌年、資金繰りが悪化したり、社長が災害で亡くなった会社を吸収合併して大きくなったところに、海上輸送需要の爆発的な増加に乗って急成長した会社ね」

 

 凪の指がタブレットをスクロールする。

 

「過去の訴訟記録は二件。いずれも労務関係の小さな紛争で、和解で決着している。特に問題なし。……だけど、気になるのはここ」

 

 凪は特許出願リストの一点を指差した。

 

「この会社の命とも言える魔法船底塗料。特許出願者の名前が、会社ではなく、個人名義になっている。出願者は──東雲真司。辞任した開発責任者その人よ」

 

「……個人名義? 企業の中核技術といえる特許が、個人に帰属しているのか?」

 

 陽太の目が鋭くなった。通常、企業の研究開発で生まれた特許は職務発明として企業に帰属する。少なくとも企業が実施権を持つ。それが個人名義ということは、東雲がこの技術を会社に完全には渡していない可能性がある。

 

「ええ。そして東雲氏は辞任後、一切の公の場に姿を見せていない。SNSも論文発表もゼロ。まるで蒸発したかのようにね」

 

 凪はタブレットを閉じ、コーヒーを一口含んだ。

 

「陽太。この会社、何かがおかしいわ。表面上は完璧なのに、中身が噛み合っていない」

 

「ああ。俺も同じ結論だ」

 

 陽太は窓の外に目を向けた。フェリーの窓越しに、瀬戸内海を航行する巨大な貨物船が見える。船体に描かれたロゴマークは、青い海獅子──瀬戸内シーライオンのものだった。

 

(表から見えるIR資料だけでは、これ以上は分からない。財務諸表が語れるのは症状だけだ。病因を突き止めるには、別のアプローチが要る)

 

 ◇ ◇ ◇

 

「凪。一つ頼みがある」

 

 陽太はフェリーの窓から視線を戻し、凪に向き直った。

 

「広島大学の工学部に、海洋船舶工学の研究室があるだろう。そこの講義を聴講したい。手続きを進めてくれないか」

 

 凪がコーヒーカップを止めた。

 

「……経済学部の学生が、船舶工学の講義を聴講する? 何を考えてるの」

 

「どうやら答えは財務諸表の中にはないらしい。数字の海とは別の海の中にある」

 

 陽太は窓の外の瀬戸内海を見つめた。

 

「修繕費が異常に増えているということは、船に何かが起きている。だが、何が起きているかは、数字だけでは分からない。船底塗料がなぜ革命的だったのか、それがなぜ今、問題を起こしているのか。技術そのものを理解しなければ、この企業の本当の病巣は見えてこない」

 

「……企業分析のために、わざわざ理系の講義を取るの。あなた、やっぱり普通じゃないわね」

 

「褒め言葉として受け取っておくよ」

 

 凪は小さく息を吐き、タブレットを開いた。

 

「もちろん、褒めてるのよ。分かったわ。聴講の手続きは私がやる。ただし、一つ条件がある」

 

「何だ?」

 

「つむつむのラボの進捗報告を、週一で共有しましょう。あなたが瀬戸内シーライオンに気を取られている間に、5000万の投資が迷子になったら困るから」

 

「了解した。頼りにしてる」

 

 凪がタブレットに聴講申請のメモを打ち込む間、陽太はもう一度窓の外に目を向けた。

 

 瀬戸内海を疾走する青い海獅子のロゴを掲げた高速フェリー。三年前に開発された魔法船底塗料によって海獣被害を克服し、瀬戸内の物流を制圧した巨大企業。その強さの根幹である技術を生み出した男が、なぜ突然消えたのか。

 

(東雲真司。あなたが何を見て、何から逃げたのか──俺が突き止める)

 

 フェリーが広島港に向かって加速する。船底の水を切る音が、低く規則正しく響いていた。




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