広島大学仮設キャンパス、工学部棟の講義室。
経済学部の学生が一人だけ紛れ込んだ海洋船舶工学概論の教室で、陽太は最前列に座り、ノートにペンを走らせていた。
白髪の老教授が、スライドを切り替えながら淡々と語る。
「──船底塗料の歴史は、人類と海との戦いの歴史そのものです。木造船の時代から、船底に付着する藻やフジツボは船速を落とし、燃費を悪化させる大敵でした。銅板を貼り、有機スズ系の防汚塗料を塗り、自己研磨型塗料を開発し──人類は千年以上にわたって、この目に見えない敵と戦い続けてきたわけです」
教授がスライドを進める。画面には、12.11以降の海洋環境の変化を示すグラフが映し出された。
「ダンジョン出現後、海洋環境は徐々に変質しました。大型の海獣が出現しただけでなく、魔素を含む海水そのものが船体を腐食させるようになったのです。従来の防汚塗料はほぼ無力化され、海運業は存続の危機に陥りました」
教授がスライドを進める。
「この危機に対し、海運業界は二つの方向で対応しました。一つは、耐魔素塗料を船体に塗布し、大型船舶を重武装化しました。これが、海獣を迎撃しながら航行する“武装航行”です。新・北前船をはじめとする大型貨物船が採用している方式となります。ただし、迫撃砲などの装備と弾薬のコストが膨大で、運賃も高くなるという欠点があります」
陽太はペンを走らせた。
「もう一つが、瀬戸内シーライオン社が開発した魔法船底塗料です。この塗料は耐魔素性に加え、海獣が忌避する特殊な波動を放ちます。武装が不要なぶん、船体を軽量・高速化でき、運賃も安い。特に、瀬戸内海のような航路が密集した海域での中小型フェリー輸送において、圧倒的な優位を確立しました」
教授がスクリーンに、瀬戸内海の航路図を映し出した。
「結果として、瀬戸内シーライオン社は瀬戸内海の特区間フェリー航路の約六割を独占するに至りました。ただし、これはあくまで“塗料による無武装・高速航行”という一分野での覇権であり、外洋を行く大型貨物船の市場では、武装航行型の海運会社が依然として主流であることに留意してください」
陽太のペンが止まった。
「瀬戸内シーライオンの魔法船底塗料は、ダンジョン由来の海洋生物から抽出した魔素含有ポリマーを主成分とし、魔素を含んだ海水中でも船体を保護するだけでなく、海獣が忌避する特殊な波動を放出します。この革命的な技術により、瀬戸内海の航路は安全性と速度の両面で飛躍的に改善されました」
(魔素含有ポリマー──紬の研究テーマと、同じ領域だ)
陽太の脳内で、別々の場所にあったピースが近づき始めた。紬が研究している海洋生物の魔素含有化合物。瀬戸内シーライオンの魔法船底塗料。そして、修繕費の異常な増加。
陽太は教授に向かって手を挙げた。
「質問よろしいですか。瀬戸内シーライオン社の魔法船底塗料の耐用年数は、どの程度と考えられていますか」
教授は眼鏡の奥の目を細めた。聴講生の文系学生が、核心に近い質問をしてきたことに少し驚いたようだった。
「良い質問ですね。実は、まだ正確には分かっていません。この塗料が実用化されてからまだ三年ですから、長期耐久性のデータが十分に蓄積されていないのが現状です。開発元の瀬戸内シーライオン社は“半永久的”と謳っていますが……学術的には、その主張を裏付けるエビデンスは存在しません」
(……半永久的、か)
陽太はその言葉をノートに書き留め、二重線で囲んだ。
◇ ◇ ◇
その夜。第二工場の事務所に戻った陽太は、講義で得た知識を武器に、瀬戸内シーライオンの財務データに改めて向き合った。
ノートパソコンの画面には、過去三年分の修繕費を四半期ごとにプロットした折れ線グラフが映し出されている。陽太はこのグラフを、今日までに三十回以上は見つめてきた。だが今夜、講義の内容が頭に入った状態で見ると、全く違うものが見えた。
(……このグラフは、直線じゃない)
修繕費は“毎年一定の割合で増えている”のではなかった。増加の速度そのものが、加速しているのだ。
陽太は表計算ソフトを開き、四半期ごとの修繕費の増加率を計算した。
一年目の第1四半期から第2四半期。増加率8%。
第2四半期から第3四半期。増加率12%。
第3四半期から第4四半期。増加率15%。
二年目の第1四半期。増加率22%。
直近の四半期。増加率34%。
指数関数的な曲線。
陽太の背筋を、冷たいものが走った。
(これは経営の問題じゃない。技術的な時限爆弾だ)
もし修繕費の増加が経営の非効率──例えば調達コストの上昇や、作業員の人件費高騰──によるものなら、増加率は一定になる。だが実際は加速している。これは、船体を保護している何かが、時間の経過とともに急速に劣化していることを示している。
魔法船底塗料。
教授の言葉が脳裏を過る。「半永久的と謳っているが、学術的なエビデンスは存在しない」。
(もし、あの塗料が半永久的ではなかったら。三年で劣化が始まり、しかもその劣化が加速度的に進行するものだとしたら──)
瀬戸内シーライオンの全船舶が、同じ時期に同じ塗料を塗られている。劣化が始まれば、全船が同時に修繕を必要とする。そして劣化が加速すれば、修繕が追いつかなくなる時が来る。
(この会社は沈む。修繕費の曲線が示しているのは、沈没までのカウントダウンだ)
陽太はグラフの曲線を延長し、修繕費が売上を上回る時期を試算した。
早ければ、一年以内。
◇ ◇ ◇
「凪。一つ聞いていいか」
深夜のタンポポコーヒーを二人で飲みながら、陽太が口を開いた。
「医者が患者を診察する時、最初に何をする?」
「……問診と検査でしょう? 症状を聞いて、数値を見て、病名を特定する」
「そうだ。俺は今、それと同じことをしている」
陽太はノートパソコンの画面を凪に向けた。修繕費の指数関数的な増加曲線と、それを売上に重ねたグラフが映し出されている。
「瀬戸内シーライオンの財務諸表を患者のカルテとする。修繕費の異常増加は発熱。開発責任者の辞任は、主治医の逃亡。雑費の膨張は、痛み止めを飲んで誤魔化している状態。……そして、この指数関数的な曲線が示しているのは、病状が加速度的に悪化しているという事実だ」
凪はグラフを見つめ、眉間に深い皺を刻んだ。
「……あなた、本気で企業を医者のように診断するつもりなの?」
「企業は生き物だ。病気にもなるし、症状も出る。放っておけば死ぬ。……だが、病因を突き止めて正しい治療を施せば、救える可能性もある」
「救う、ですって?」
凪は目を細めた。
「あなたが企業を救う善意の医者だとは思えないけど」
「当然だ。善意じゃない。これはビジネスだ」
陽太はコーヒーを一口含み、静かに続けた。
「瀕死の企業には、二つの価値がある。一つは、安く買えること。もう一つは──治し方を知っている人間だけが、莫大な利益を得られること」
凪は陽太の横顔を見つめた。泥スライムの核に価値を見出した時と、同じ目をしている。だがスケールが違う。今度の“ゴミ”は、従業員三千人を抱える巨大海運企業だ。
「……で、診断書はいつ完成するの?」
「あと少しだ。修繕費の曲線は症状を語っているが、病因はまだ特定できていない。塗料の何が劣化しているのか。なぜ開発責任者は逃げたのか。その二つが分かれば、診断書は書ける」
陽太はノートパソコンを閉じ、天井を仰いだ。
(あと一手。あと一手で、全てが繋がる)
答えは、この瀬戸内海のどこかに沈んでいる。
whitecube 様 猫猫猫猫 様
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