海洋船舶工学概論、第五回講義。
白髪の老教授が、いつものように穏やかな声でスライドを切り替えた。
「本日は、12.11以降の海運産業におけるケーススタディを取り上げます。題材は、皆さんもよくご存じの瀬戸内シーライオン社です」
スクリーンに、青い海獅子のロゴマークと、壮大な高速フェリーの写真が映し出された。工学部の学生たちの間に、感嘆のざわめきが広がる。
「瀬戸内シーライオン社は、独自開発の魔法船底塗料によって海獣被害を克服し、瀬戸内海の物流のシェアを一社で六割を占めるに至りました。売上は創業以来、毎年倍増。従業員数は三千人を超え、時価総額は瀬戸内地域で最大。まさに、12.11後の海運産業における最大の成功事例と言えるでしょう」
学生たちが頷く。就職先としても人気が高い瀬戸内シーライオンは、工学部の学生にとっては憧れの企業だ。
「特に注目すべきは、魔法船底塗料の技術的革新性です。ダンジョン由来の海洋生物から抽出した魔素含有ポリマーを主成分とし──」
教授がスライドを進め、塗料の分子構造図を示そうとした時だった。
「先生。一つ、よろしいでしょうか」
最前列から、一つの手が上がった。
教授が目を向けると、聴講生の若い男──経済学部から来ている湊陽太が、静かに立ち上がっていた。
「本日のケーススタディに、別の視点からの分析を加えてもよろしいですか。資料は用意してあります」
教授は少し驚いた顔をしたが、聴講生の積極的な姿勢に好感を持ったのか、頷いて壇上のプロジェクターを譲った。
「どうぞ。学際的な視点は歓迎しますよ」
◇ ◇ ◇
陽太はUSBメモリをプロジェクターに差し込み、自らの分析資料を映し出した。
スクリーンに最初に映し出されたのは、瀬戸内シーライオンの有価証券報告書から抽出した修繕費の推移グラフだった。右肩上がりの曲線が、画面の上端に向かって急激に加速している。
「先生が示されたように、瀬戸内シーライオン社の売上は確かに驚異的な成長を遂げています。ですが、それと同時に──修繕費がこのような曲線を描いていることに、皆さんはお気づきでしょうか」
教室がざわついた。学生たちはモニターに映る財務データに、明らかに戸惑っていた。工学部の講義で、財務諸表が出てくるとは誰も思っていなかったのだ。
「修繕費が増加すること自体は、船舶数の増加に伴う当然の帰結です。ですが、このグラフは直線ではありません」
陽太はグラフの横に、四半期ごとの増加率を並べた表を映し出した。
「増加率は8%、12%、15%、22%、そして直近では34%。修繕費は一定のペースで増えているのではなく、増加の速度そのものが加速しています。これは指数関数的な増加です」
教室の空気が、変わり始めた。
「もし修繕費の増加が、船舶数の増加に伴う人件費や資材コストの増加によるものであれば、増加率は一定になるはずです。しかしこの曲線は加速している。これが意味するのは──コスト要因ではなく、船体そのものに時間経過とともに悪化する技術的な問題が発生しているということです」
陽太はスライドを切り替えた。次に映し出されたのは、修繕費の曲線を延長した予測グラフだった。赤い破線が、ある時点で売上の線と交差する。
「修繕費の増加率が現在のペースで続いた場合、早ければ一年以内に、修繕費が売上を上回ります。つまり──」
陽太は教室全体を見渡し、静かに言い放った。
「この企業は、もう終わっています」
教室が、凍りついた。
百人以上の学生が、息をすることすら忘れたように沈黙した。憧れの企業が終わっていると、聴講生の文系学生に宣告されたのだ。
「な、何を根拠に……!」
最初に声を上げたのは、後方の席にいた大学院生だった。
「瀬戸内シーライオンは売上も利益も過去最高だ! 株価だって堅調に推移している! 修繕費の増加だけで企業が終わるなんて、乱暴すぎる!」
「おっしゃる通り、修繕費だけでは断定できません」
陽太は冷静に頷き、スライドを進めた。
「そこで、もう一つの異常値を見てください」
画面に映し出されたのは、瀬戸内シーライオンの人事情報だった。
「一年半前、同社の魔法船底塗料の開発責任者──つまり、この会社の技術の根幹を握っていた人物が突然辞任しています。IR上の理由は“一身上の都合”のみ。彼が去った後、新たな開発責任者は任命されていません」
教室のざわめきが大きくなった。
「さらに、販管費の内訳を精査すると、“その他雑費”の項目がこの一年で三倍に膨張しています。雑費とは、どの勘定科目にも分類されない支出を放り込むための項目です。それが三倍に膨らんでいるということは──」
陽太は一拍置いた。
「表に出せない支出が増えている。修繕費の異常増加は、船体に技術的な問題が起きていることを示す。開発責任者の辞任は、その問題の原因を知る人間がいなくなったことを示す。そして雑費の膨張は、問題を株主や市場から隠すために、帳簿の外で金が動いていることを示しています」
教室は完全に静まり返っていた。もう、反論の声は上がらなかった。
「三つの異常値は、一本の線で繋がります。この企業は、自社の中核技術に致命的な欠陥を抱えたまま、それを隠して走り続けている。修繕費の指数関数的な増加は、その欠陥が加速度的に悪化していることの証拠です」
陽太はプロジェクターの電源を切り、教壇を降りた。
「以上です。失礼しました」
◇ ◇ ◇
講義の終了後。他の学生たちが呆然としたまま教室を出ていく中、教授が陽太を呼び止めた。
「湊君。少し話せるかね」
教授は教壇の横の椅子に腰を下ろし、講義中とは全く異なる、鋭い目で陽太を見据えた。
「正直に言おう。君の分析には驚いた。修繕費の加速度的増加から技術的欠陥を推定するアプローチは、私の専門である船舶工学の知見と、財務分析の知見を横断しなければ到達できない結論だ。……工学部の大学院生でも、ああいう分析はまずできない」
教授は眼鏡を外し、ため息をついた。
「実は私も、瀬戸内シーライオンの魔法船底塗料には疑問を持っていたんだ。半永久的と謳っているが、魔素含有ポリマーの長期安定性に関する学術的な検証は、驚くほど少ない。だが、それを公の場で発言する根拠が足りなかった」
「先生にも、薄々見えていたんですね」
「見えていた、というより──見えないようにされていた、と言うべきかもしれん。瀬戸内シーライオンはこの大学の最大のスポンサーの一つだ。塗料に疑問を呈する研究は、暗黙のうちに抑圧されている」
教授の言葉に、陽太は眉を上げた。大学のスポンサーが、自社に不利な研究を封じている。アカデミアの自由と、資本の力の歪んだ関係だ。
「君は一体、どこでああいう財務諸表の読み方を身につけたのかね。経済学部の講義では教わらないレベルだ」
陽太は少し考え、正直に答えた。
「市場からです。相場が、全部教えてくれました」
教授は目を見開き、やがてゆっくりと頷いた。
「そうか。……市場か。確かに、教科書では教えられない知恵というものがある」
教授は鞄の中から一枚の名刺を取り出し、陽太に差し出した。
「私の連絡先だ。もし塗料の技術的な側面で分からないことがあれば、いつでも相談に来なさい。……あの企業の問題を、きちんと解明できる人間が現れるのを、私もずっと待っていたのかもしれない」
陽太は名刺を受け取り、深く頭を下げた。
◇ ◇ ◇
講義棟を出ると、夕暮れのキャンパスで凪が待っていた。
「どうだった?」
「教室が凍った」
「……やりすぎたんじゃないの」
凪が呆れたような、感心したような表情で息を吐く。
「それと、教授から名刺をもらった。技術面で協力してくれるそうだ」
「味方が増えたわね。……で、次は何をするの?」
陽太はポケットの中の名刺に指で触れながら、薄暮の空を見上げた。
「症状は読めた。病因のアタリはついたが、確証が欲しい」
陽太は目を細めた。
「凪、今夜空いてるか? 夜の散歩と洒落込まないか?」
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