深夜の尾道港。
特区の沿岸部には、瀬戸内シーライオンが所有する大型船舶の修繕ドックが並んでいる。夜間のドック周辺は警備が手薄になることを、陽太は通学フェリーから毎日観察して把握していた。
「もう……夜の散歩なんて言うから、ちょっと期待したのに。正気? これ、不法侵入よ」
暗闇の中、凪が小声で囁いた。黒いパーカーのフードを目深に被り、陽太の後ろをついてきている。
「見るだけだ。何も壊さないし、何も持ち出さない。優先探索権があるダンジョンの入り口から海沿いに歩いてきただけの、ただの散歩だよ」
「散歩で修繕ドックに辿り着く人間がどこにいるのよ……」
凪は文句を言いつつも、足を止めなかった。陽太が動く時、この男には相応の理由があることを、彼女はもう知っている。
修繕ドックの一つに、大型フェリーが入渠していた。船体の下半分が露出し、巨大なクレーンと足場が組まれている。作業員は全員帰宅しており、ドックの照明だけが船底をぼんやりと照らしていた。
陽太は足場の隙間から船底に近づき、目を凝らした。
(ここからなら、塗料の状態を直接見られる)
魔法船底塗料が塗られた船体の表面は、薄い青灰色をしている。新造時には均一で滑らかだったはずのその塗膜が、至るところで不規則に剥落し、下地の鉄板が露出していた。剥がれた塗料の縁は、まるで何かに齧られたかのようにギザギザに侵食されている。
「……ひどいな」
陽太は呟きながら、
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(生物由来の侵食痕……?)
陽太は塗膜の剥落した境界部分に視線を集中させ、スキルの焦点を絞り込んだ。
【
陽太の目が見開かれた。
(微小甲殻類が、塗料を食っている……?)
スキルが表示した情報を、陽太は頭の中で急速に組み立てた。
魔法船底塗料の主成分は、魔素含有ポリマー。海獣を遠ざける特殊な波動を放出する革命的な素材だ。その塗料が、目に見えないほど小さな甲殻類──フジツボの一種に食われている。
海獣という巨大な敵を退けた最強の盾が、最も小さな生物の餌になっていた。
「陽太、何か見えたの?」
凪が背後から覗き込む。陽太は塗膜の侵食部分を指差した。
「ここを見ろ。塗料が剥がれているだろう。これは経年劣化じゃない。食べられているんだ」
「食べられている? 塗料を?」
「ああ。魔素含有ポリマーを選択的に摂食する、未知の微小甲殻類が大量に付着している。俺のスキルで見ると、一平方センチメートルあたり約1,200匹。船底全体では──億の単位だ」
凪が息を呑んだ。
「魔素を含んだ有機物を餌にする生物。12.11以降の海洋環境で新たに出現した種だろう。ダンジョンから海に漏れ出した魔素に適応して進化した──言ってみれば、魔喰いフジツボだ」
◇ ◇ ◇
ドックから離れ、人気のない防波堤に座り込んだ二人は、夜の海を見つめていた。
「これで全部繋がったわね」
凪が静かに言った。陽太は頷いた。
「魔法船底塗料は三年前に開発された。当初は完璧に機能していた。海獣は近づかず、船体の腐食も防がれた。だが──」
陽太は海面に目を落とした。暗い水面の下で、無数の見えない生物が蠢いている。
「時間が経つにつれ、魔素を餌とする微小な甲殻類が、この塗料に適応し始めた。最初は少数だったが、繁殖は加速度的に進む。塗料を食い荒らすフジツボが増えるほど塗膜は薄くなり、薄くなるほどさらに侵食されやすくなる。修繕費の指数関数的な増加は、この生物的な侵食の加速カーブと完全に一致するだろう」
「修繕費が発熱。フジツボが病原体。塗料の劣化が症状の悪化。……そして、開発責任者の辞任は」
凪が言葉を継いだ。
「病気に気づいた主治医が、治せないと分かって逃げたということね」
陽太は黙って頷いた。
(東雲真司。あなたはこの事実に気づいていた。自分が作った革命的な塗料が、時間とともに海の生態系に食い潰されていく運命にあることを。そして、それを会社に告げたが聞き入れられなかった──あるいは、告げることすらできずに去ったのか)
辞任の本当の理由が見えた。東雲は、自分の技術の致命的な欠陥に気づきながら、それを修正する手段を持たなかった。あるいは修正を訴えたが、売上絶好調の経営陣に黙殺された。いずれにしても、技術者としての良心と、企業の論理の間で押し潰されたのだ。
「雑費の異常な膨張も説明がつく。経営陣は塗料の劣化を薄々感じ取っているが、市場に発表すれば株価が暴落する。だから修繕費の一部を雑費に振り替えて、問題の規模を小さく見せかけている」
陽太は立ち上がり、潮風に顔を晒した。
「診断は完了した。病名は──魔喰いフジツボによる船底塗膜の加速度的侵食。病因は、12.11以降の海洋生態系の変化に対する技術的な見落としと推察される。現在のステージは──」
陽太は振り返り、凪の目を真っ直ぐに見据えた。
「末期だ。だが、まだ手術の余地はある」
◇ ◇ ◇
「手術って……まさか、あなたが治療法を持っているの?」
凪が怪訝な声を上げた。陽太は首を横に振った。
「俺は持っていない。だが──治療薬を作れる人間なら、知っている」
陽太の脳裏に、白衣を着た小柄な研究者の姿が浮かんだ。
ダンジョン由来の海洋生物から抽出した魔素含有ポリマーの応用研究。魔素を含む有機化合物の耐候性と防汚性能。そして、「この子たちは何かと結合したがっている」と、分子構造の歌を聴ける天才。
(つむつむ。お前の研究が、世界を変える日が来た)
夜の瀬戸内海が、陽太の足元で静かに波打っていた。
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