魔喰いフジツボの発見から数日後。陽太は瀬戸内シーライオンの裏側を、さらに深く掘り始めた。
表面上の数字はすでに読み切った。だが、企業の本当の危機は、公開情報だけでは見えない水面下で進行している。
「凪。瀬戸内シーライオンの取引銀行と融資残高、調べられるか」
「銀行ごとの正確な融資残高は非公開だけど、有価証券報告書の借入金明細から主要行は特定できるわ。あと、登記簿で担保設定の状況も読める」
凪はタブレットを操作しながら、法的に入手可能な情報を片端から引き出していった。登記簿謄本、信用調査会社の格付けレポート、業界紙の記事。合法的な情報だけでも、訓練された目で見れば企業の内臓が透けて見える。
数時間後。第二工場の事務所のデスクには、凪が整理した調査結果が並んでいた。
「まとめるわね」
凪は眼鏡をかけ直し、タブレットの画面を陽太に向けた。
「瀬戸内シーライオンのメインバンクは三行。このうち一行が、半年前に融資枠の更新を見送っている。表向きは融資方針の見直しだけど、実態はおそらく与信判断の悪化よ」
「一行が引いた、か」
「それだけじゃない。残り二行の融資条件を見ると、直近の更新で金利が0.3%上乗せされている。銀行がリスクプレミアムを要求し始めた証拠ね」
陽太は腕を組んだ。銀行は企業の内部情報に最もアクセスできる存在だ。その銀行が距離を取り始めているということは、内側から見た瀬戸内シーライオンの信用が、すでに揺らいでいることを意味する。
「もう一つ。これが一番大きい」
凪は画面を切り替えた。そこには、海事局に提出された船舶検査記録の一覧が映し出されている。
「この三ヶ月で、瀬戸内シーライオンの保有船舶40隻のうち、7隻が定期検査のスケジュールを前倒しで受けている。しかも全てが非公開の緊急修繕を伴っている」
「7隻……。全体の約18%が、予定外の緊急修繕に入っているのか」
陽太の声が、わずかに低くなった。
「しかもここ。修繕の内容を見て。全隻、船底塗装の全面再施工。同じ症状が、同じタイミングで、一斉に出始めている」
魔喰いフジツボの侵食が、実際に運航に支障をきたすレベルにまで進行している船が、すでに18%。そしてフジツボの繁殖は加速度的だ。半年後には、全船舶が同時にドック入りする事態もあり得る。
「……公表されていない。株主にも、市場にも」
凪が静かに言った。その声には、法律家としての怒りがわずかに滲んでいる。
「これだけの規模の緊急修繕を行いながら、適時開示していない。金融商品取引法上のグレーゾーン、いえ……意図的に隠蔽しているなら、完全な有価証券報告書の虚偽記載よ」
◇ ◇ ◇
陽太はノートパソコンを開き、瀬戸内シーライオンの株価チャートを映し出した。
緩やかな右肩上がり。出来高も安定しており、市場はこの銘柄に何の疑いも持っていない。前回のIR説明会では純水輸送市場への参入という新規事業の発表もあり、アナリストの評価は概ね好意的だった。
「市場は、まだ知らない」
陽太は呟いた。
財務諸表に滲み出た異常値。銀行の与信悪化。18%の緊急修繕。魔喰いフジツボ。これだけの情報を、市場はまだ織り込んでいない。株価と実態の間に、巨大な乖離が生まれている。
(……かつての俺なら、ここで空売りを仕掛けている)
脳裏に、あの日の画面が一瞬だけ甦った。全財産を証券口座に突っ込み、日経平均の空売りを仕掛けた十九歳の自分。教科書通りの分析は正しかった。だが、市場というモンスターは教科書の外側から牙を剥いた。
あの日の陽太と、今の陽太は違う。
「凪。一つ、先に言っておく」
「何?」
「この銘柄は空売りしない」
凪が意外そうに目を上げた。
「株価が暴落すれば、空売りで莫大な利益が出る。瀬戸内シーライオンの問題が公になった瞬間、この株はストップ安を連発するわ。それを狙わないの?」
「狙わない」
陽太はきっぱりと言い切った。
「空売りは破壊だ。企業を殺して利益を得る。だが、死んだ企業からは一度きりの利益しか取れない。……俺がやりたいのは、そんなものじゃない」
陽太はタブレットを閉じ、凪を真っ直ぐに見据えた。
「瀕死の企業を安く買い叩き、治療して蘇らせる。蘇った企業が生み出す利益を、永続的に吸い上げる。……俺たちがやるのは、救済だ。ただし、俺たちの条件で」
凪はしばらく陽太の顔を見つめていた。やがて、口元にかすかな笑みが浮かんだ。
「……成長したわね、陽太。ゲーム感覚でお金を動かしていた頃のあなたとは、別人みたい」
「デカい負けがあったからな。それがなければ、今の俺はない。……二度と同じ負け方はしない」
◇ ◇ ◇
「具体的には、どう動くの」
凪がコーヒーを注ぎながら尋ねた。
「まず、治療薬を先に作る」
「治療薬?」
「魔喰いフジツボに耐性を持つ新しい船底塗料だ。紬の研究がその鍵を握っている。この子たちは何かと結合したがっているという、あの分子構造の歌。フジツボが食えないポリマーを設計できれば、それが瀬戸内シーライオンの命を救う唯一の治療薬になる」
「……なるほど。治療薬を先に握っておいて、患者が限界を迎えた瞬間にこれが欲しければ、会社ごと寄越せと突きつけるわけね」
凪の瞳に、冷徹な光が宿った。
「でも、それだけじゃ足りないわ。会社を買うには莫大な資金がいる。ウォーター・ベインの手元資金だけでは到底届かない」
「分かっている。資金の調達方法も、すでに考えがある。……だが、それはまだ先の話だ」
陽太はノートパソコンの画面に視線を戻した。瀬戸内シーライオンの有価証券報告書の末尾に記載された、開発責任者・東雲真司の名前。
「今、最も急ぐべきことは二つ。一つは紬の研究を加速させること。もう一つは──」
陽太は指先で東雲の名前をなぞった。
「消えた男を、見つけることだ」
東雲真司。魔法船底塗料を生み出し、瀬戸内シーライオンを海運の王に押し上げ、そして忽然と消えた男。
その男が、何を知っていたのか。
◇ ◇ ◇
深夜。陽太が事務所の電気を消して帰ろうとした時、凪が不意に声をかけた。
「ねえ、陽太」
「ん?」
「瀬戸内シーライオンの従業員は三千人よ。あの会社が潰れれば、三千人とその家族が路頭に迷う。あなたはそれも計算に入れてるの?」
陽太は振り返らずに、ドアノブに手をかけたまま答えた。
「入れている。だから空売りしないんだ」
その一言だけ残して、陽太は夜の風の中に消えた。
凪は一人残された事務所で、しばらく陽太が出ていったドアを見つめていた。
(……本当に、変わったわ。あなたは)
タブレットの画面には、瀬戸内シーライオンの株価チャートが、まだ何も知らない顔で穏やかに光っていた。
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