IR情報で読み解くダンジョン経済学   作:カトーユキヒロ

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第13話:消えた技術者

 瀬戸内海に浮かぶ小さな島へ向かう連絡船の上で、陽太は潮風に目を細めていた。

 

 東雲真司の足取りを辿るのは、容易ではなかった。辞任後のSNSもゼロ、学会発表もゼロ。まるで社会から蒸発したかのように、一切の痕跡を絶っていた。

 

 突破口は、教授だった。

 

 講義後に名刺を渡してくれた海洋船舶工学の教授が、東雲とかつて同じ学会で活動していたことが分かったのだ。陽太が事情を打ち明けると、教授は少し考え込んだ後、一つの住所を書いたメモを渡してくれた。「彼が最後に連絡をくれた時の消印の住所だ」と。

 

 瀬戸内海の島嶼部にある、人口百人にも満たない小さな漁村。

 

 連絡船が古びた桟橋に着くと、陽太は一人で降り立った。今回は凪を連れていない。技術者と腹を割って話すには、法務顧問の存在がかえって壁になると判断したからだ。

 

 島の集落は、12.11の災害で半壊したまま放置された家屋と、かろうじて補修された漁師小屋が入り混じった寂しい風景だった。港には、塗装の剥げた古い漁船が数隻、潮に揺られている。

 

 陽太は集落の外れにある、海を見下ろす小高い丘の上の一軒家を見つけた。窓には無造作にカーテンが引かれ、庭先には手入れされていない植木が伸び放題になっている。だが、玄関脇に置かれたゴミ袋は新しく、誰かが生活している気配があった。

 

 陽太は深く息を吸い込み、玄関のチャイムを押した。

 

 反応がない。

 

 もう一度。

 

 しばらくの沈黙の後、ドアの向こうから低い声が聞こえた。

 

「……誰だ。アポなしの訪問は断っている」

 

「突然すみません。株式会社ウォーター・ベインの湊と申します。東雲さんに、お話を伺いたくて参りました」

 

 長い沈黙。やがて、ゆっくりとドアが開いた。

 

◇ ◇ ◇

 ドアの隙間から現れたのは、五十代半ばの痩せた男だった。

 

 かつてのIR資料に掲載されていた写真では、精悍な顔つきでスーツを着こなしていた人物が、今はヨレヨレのTシャツに短パン姿で、無精髭が顎を覆っている。だが、窪んだ目の奥には、技術者特有の鋭い知性の残り火がまだ灯っていた。

 

「ウォーター・ベイン? 聞いたことがないな。……シーライオンからの使いか」

 

「違います。瀬戸内シーライオンとは無関係の、独立したベンチャー企業です」

 

 東雲は疑わしげに陽太を見つめたが、若すぎる来客の身なりと、瀬戸内シーライオンの人間にはない真っ直ぐな目を見て、渋々ドアを大きく開けた。

 

「……上がれ。ただし、録音はするな」

 

 通された居間は、本と論文の束で足の踏み場もなかった。壁一面の本棚には有機化学や高分子工学の専門書がぎっしりと詰まっている。テーブルの上には、半分飲みかけの焼酎のボトルと、灰皿が置かれていた。

 

 東雲は焼酎のグラスを手に取り、陽太にも無言でグラスを差し出した。陽太は首を横に振った。

 

「結構です。……単刀直入に伺います。東雲さん。あなたが開発した魔法船底塗料は、魔喰いフジツボに食われて崩壊しつつあります。あなたは、それを知っていて辞めたんですね」

 

 東雲の手が、グラスの上で止まった。

 

 数秒の沈黙の後、東雲は低く、掠れた声で笑った。

 

「……お前、何者だ。どうやってそこまで辿り着いた」

 

「財務諸表の修繕費の指数関数的増加と、ドックに入渠した船の船底を見て、推測しました」

 

「財務諸表から……? たった一人の学生が、数字だけで……」

 

 東雲は信じられないという顔で陽太を見つめた。やがて、力なく椅子の背にもたれかかり、天井を仰いだ。

 

「そうか。数字は嘘をつかないか。……ああ、その通りだ。俺は知っていた。知っていたから、逃げたんだ」

 

◇ ◇ ◇

 

「あの塗料は、最初から永久に持つようには設計していなかった」

 

 焼酎のグラスを握りしめたまま、東雲が語り始めた。

 

「12.11の直後、陸は完全に地獄だったが、海も厄介な状況だった。大型海獣には対処できないから迂回するしかない。石油が入ってこないから、最低限の運行しかできない。結局、魔石で動くエンジンが出回り始めるまで、まともな運行はできなかった」

 

「そうだったんですね」

 

「一番厄介だったのは、金属の船体が徐々に腐り始めたことだ。この世の終わりかと思ったが、俺はその危機を救うために、手元にある素材で最速で作れる塗料を設計した。あくまで応急処置だ。三年から五年で劣化が始まることは、分子設計の段階で分かっていた」

 

「応急処置……」

 

「そうだ。俺の計画では、初代の塗料で時間を稼いでいる間に、耐久性を飛躍的に向上させた第二世代の塗料を開発するはずだった。予算の申請も、研究計画も、全て準備していた」

 

 東雲の声に、わずかな怒りが滲み始めた。

 

「だが、経営陣は聞く耳を持たなかった。初代の塗料が大当たりして、売上は右肩上がり。株価も爆上がりだ。経営陣は笑いが止まらなかったろうよ。……俺が“この塗料は持って五年です。今すぐ第二世代の開発に着手しなければ手遅れになります”と進言したら、何と言われたと思う?」

 

 東雲は焼酎を一口呷り、苦々しく吐き捨てた。

 

「“余計なことを言うな。株価が下がるだろう”だ」

 

 陽太は黙って聞いていた。

 

「俺は何度も掛け合った。技術報告書を書き、リスクレポートを提出し、取締役会で直接訴えた。だが全て握り潰された。それどころか、“塗料に欠陥があるなどと外部に漏らしたら、損害賠償請求する”と脅された」

 

「特許が個人名義だったのは」

 

「ああ、唯一の防衛策だ。会社に完全に譲渡していたら、俺は追い出された上に、技術まで取り上げられていた。個人名義を維持していたからこそ、辞めた後もあの連中は俺の特許を使い続けるために、実施権の契約を結ばざるを得なかった」

 

 東雲は空になったグラスをテーブルに置き、窓の外の海を見つめた。

 

「だが、それが限界だった。経営陣は第二世代の開発には一円も出さず、初代塗料を使い続けた。俺は技術者として、自分が作ったものが壊れていく未来を知りながら、何もできなかった。……だから逃げた。見ていられなかった」

 

 居間に、波の音だけが響いていた。

 

◇ ◇ ◇

 

「東雲さん。あなたは、壊れていく自分の技術を救おうとして、組織に潰された。それは技術者として正しい判断だったと思います。……ただ、逃げたことで、問題はさらに悪化した」

 

 東雲が目を伏せた。

 

「今、瀬戸内シーライオンの保有船舶の約二割が、緊急修繕に入っています。フジツボの繁殖は加速しており、半年以内に全船がドック入りする可能性がある。修繕費が売上を上回る日も、そう遠くない」

 

「……知っている。分かっていた。いずれそうなることは、辞めた日から分かっていた」

 

「では、第二世代の塗料。設計は残っていますか」

 

 東雲が、初めて陽太の目を真っ直ぐに見た。

 

「……残っている。俺の頭の中と、このパソコンの中に。だが、設計だけだ。実際に合成するための設備も資金も、俺にはない。そもそも、今さら俺が何を作ったところで、あの会社の経営陣が採用するわけがない」

 

「経営陣の判断は、俺が変えます」

 

 陽太の声に、迷いはなかった。

 

「あなたの設計データを、俺に提供してください。俺の会社には、海洋魔素材の応用研究で国内トップクラスの才能を持つ研究者がいます。あなたの設計思想と、彼女の研究成果を組み合わせれば、第二世代の塗料は完成できる」

 

「……そんな都合のいい話があるわけが」

 

「あります。実際に、その研究者はすでに魔素含有ポリマーの分子構造の解析を完了しつつある。フジツボが食えない分子設計のヒントを、もう掴んでいるんです」

 

 東雲の表情が変わった。技術者としての好奇心が、長い間封じ込めていた蓋をこじ開けるように、窪んだ目の奥で光り始めた。

 

「……分子構造の解析を完了しているだと? あのポリマーの三次元構造を解いたのか。俺がシーライオンにいた時ですら、あと一歩のところで手が届かなかったのに……」

 

「彼女は天才です。……東雲さん。あなたが始めた革命を、俺たちが完成させます。だから、あなたのデータを俺に託してください」

 

 東雲はしばらく黙って陽太を見つめていた。焼酎のグラスに手を伸ばしかけ、やめた。代わりに、奥の部屋からノートパソコンを持ってきた。

 

「……ここに、全てのデータがある。初代塗料の完全な分子設計図、劣化メカニズムの予測モデル、第二世代の設計コンセプト。瀬戸内シーライオンにも渡していない、俺だけのオリジナルだ」

 

 東雲はパソコンを開き、USBメモリにデータをコピーし始めた。その手は、わずかに震えていた。

 

「……頼んだぞ。俺が守れなかったものを、お前たちが守ってくれ」

 

 陽太はUSBメモリを受け取り、深く頭を下げた。

 

◇ ◇ ◇

 

 帰りの連絡船の上で、陽太はUSBメモリをポケットの中で握りしめていた。

 

 東雲が背負っていたもの。革命的な技術を生み出しながら、その技術が壊れていく未来を見せつけられ、組織に訴えても黙殺され、最後は逃げるしかなかった男の苦悩。

 

 振り返ると、島の桟橋に東雲の姿がまだ見えた。陽太が船に乗り込んだ後、東雲は焼酎のボトルに手を伸ばしかけ──そして、その蓋を閉めた。

 

 陽太はそれを見届けてから、前を向いた。

 

 ポケットの中のUSBメモリが、陽太の体温で温まっていた。




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