島から戻った翌日。陽太は、広島大学の紬のラボへ向かった。
改装されて見違えるように美しくなったラボの中、紬はいつものように走査型電子顕微鏡の前に張り付いていた。傍らには凪が差し入れた抹茶味のマカロンの箱が半分だけ開いており、食べかけの一個がティッシュの上に置かれている。
「つむつむ。今日は、少し仕事を中断してもらいたい」
陽太が声をかけると、紬が怪訝な顔で振り返った。「社長が仕事を中断しろ」と言うのは初めてだった。
「何ですか? 今、ちょうど面白いデータが出始めて──」
「それより先に、見てほしいものがある」
陽太はポケットからUSBメモリを取り出し、紬の実験台の上に置いた。
「これを解析してくれ。中身は、ある船底塗料の完全な分子設計図、劣化メカニズムの予測モデル、そして次世代設計のコンセプトデータだ」
紬はUSBメモリを手に取り、しばらく不思議そうに眺めた。やがてラボのパソコンに差し込み、フォルダを開く。
最初のファイルを開いた瞬間、紬の指がキーボードの上で止まった。
◇ ◇ ◇
「…………」
紬は画面に映し出された分子設計図を、息をすることも忘れたように凝視していた。
一分。二分。五分。
やがて紬は、ゆっくりと椅子の背にもたれかかり、天井を仰いだ。
「……これを作った人。天才ですね」
その声に、嫉妬はなかった。純粋な、研究者としての畏敬だった。
「魔素制御の発想が、常識外れです。普通、魔素含有ポリマーの耐久性を上げようとしたら、分子鎖の結合を強化する方向に行く。でもこの人は逆をやっている。あえて結合を緩くして、魔素そのものを分子鎖の振動エネルギーとして利用している。……敵を燃料にしてしまう発想なんて、教科書のどこにも書いていない」
紬の目が、画面の上を走り回っている。数百ページにもなる設計データを、恐ろしい速度で読み解いていた。
「だからこそ──欠陥も、常識外れなんです」
紬はスクロールを止め、劣化メカニズムの予測モデルを開いた。
「分子鎖の振動が魔素を取り込む仕組みは、同時に、魔素を代謝する微生物にとっても格好の餌場になる。作った人はそれを最初から分かっていた。ここに、劣化の予測曲線まで書いてある。……三年から五年で限界を迎えることを、設計の段階で理解していたんですね」
「ああ。彼はこれを応急処置として設計した。本来は第二世代を開発する予定だったが、経営陣に握り潰された」
陽太が東雲の経緯を簡潔に語ると、紬は静かに目を伏せた。
「……会社に殺されたんですね。技術者として」
「ああ」
「……許せない」
紬の声は小さかったが、そこには研究者同士の深い共感と、理不尽に対する怒りが滲んでいた。自分もまた、研究費を切られ、大学に見捨てられかけた人間だ。技術が正しく評価されない痛みを、紬は骨の髄まで知っている。
◇ ◇ ◇
「つむつむ。率直に聞く。この塗料の欠陥を修正して、魔喰いフジツボに対する耐性を持つ第二世代の塗料を設計できるか」
陽太が真っ直ぐに問うと、紬は画面から目を離し、天井を見上げた。
しばらくの沈黙。
紬の脳内では、東雲の設計データと、自分がこの数ヶ月で蓄積した魔素含有ポリマーの三次元分子構造データが、猛烈な速度で照合されていた。分子鎖の歌が聞こえる。活性基の振動が、新しいメロディを奏で始めている。
「……普通なら、十年ください。この設計の修正は、分子工学の根幹を書き換えるに等しい作業です」
十年。
陽太は表情を変えなかった。
「瀬戸内シーライオンが持つのは、長くて一年だ」
紬は頷いた。その事実は、修繕費の曲線を見れば研究者でなくても分かる。
そして──紬は、ゆっくりと顔を上げた。
「でも」
その瞳に、あの共感覚の光が宿っていた。分子構造の歌を聴き、素材の声を読み解く、天才だけが持つ異能の煌めき。
「社長がいるなら、話は別です」
陽太が目を細めた。
「私の耳は、素材が何を求めているかを聴ける。でも、最適な答えに辿り着くには、何千回もの試行錯誤が必要になる。……社長の目は、その試行錯誤を一瞬で終わらせてくれる」
紬が言っているのは、
「私が歌を聴いて仮説を立てる。社長が答えを見て検証する。このコンビなら──三ヶ月で、形にしてみせます」
三ヶ月。瀬戸内シーライオンのタイムリミットの内側だ。
「やってくれるか」
「当然です。私のために最高のラボを作ってくれた社長への、最初の恩返しですから」
紬はニッと笑い、白衣の袖をまくり上げた。
◇ ◇ ◇
その夜。凪にこれまでの調査結果と研究計画の全貌を共有した後、陽太は事務所で一人、天井を見つめていた。
東雲の設計思想。紬の共感覚。そして陽太のアビリティ。三つの歯車が噛み合えば、世界で唯一の治療薬が完成する。
(東雲さん。あなたが守れなかった技術を、俺たちが引き継ぐ。……待っていてくれ)
ポケットの中で、USBメモリが静かに陽太の体温を吸い続けていた。
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