IR情報で読み解くダンジョン経済学   作:カトーユキヒロ

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第15話:魔素の最適解

 深夜の研究室は、二人の息遣いと機器の駆動音だけで満たされていた。

 

 実験台の上には、数十本の試験管が整然と並んでいる。中身は全て異なる配合の試作塗料だ。紬が東雲のデータをベースに分子設計を修正し、スライム集核装置(スライムコレクター)で量産された泥スライムの核から抽出した魔素含有ポリマーを配合した試作品。

 

 実験台の端には、もう一つの重要なものがあった。海水を満たした小型の水槽だ。その中では、ドック近郊の海岸で陽太が採取した魔喰いフジツボが、ガラスの壁面に張り付いて蠢いている。

 

「配合パターン、第41号。ポリマー主鎖を短縮して、活性基の密度を上げたバージョン。……行きます」

 

 紬がピペットで試作塗料をガラス板に塗布し、水槽の中へ沈めた。

 

 陽太は水槽の横に立ち、最適者(オプティマイザー)スキルを起動した。

 

最適者(オプティマイザー):試作塗料41号 / 塗膜安定性:62% / フジツボ耐性:予測値18% / 劣化加速度:高】

 

「ダメだ。フジツボ耐性が低すぎる。18%じゃ一ヶ月で食い尽くされる」

「やっぱり……。主鎖を短くすると強度が落ちるんですよね。東雲さんの設計がわざと長鎖にしていた理由が分かります」

 

 紬は試験管のラベルにバツ印を書き込み、次の配合に取りかかった。

 

 第42号。フジツボ耐性22%。却下。

 

 第43号。塗膜安定性が40%に低下。論外。

 

 第44号。耐性は上がったが、海獣忌避波動が消失。本末転倒。

 

 失敗が積み重なっていく。試験管のバツ印が増えるたびに、紬の顎に力が入り、陽太の目の下の隈が深くなった。

 

「第48号。……今度こそ。分子鎖の中間に架橋構造を入れて、フジツボが齧れないようにした設計です」

 

 紬の声には、まだ折れていない芯があった。ガラス板に塗布し、水槽に沈める。

 

最適者(オプティマイザー):試作塗料48号 / 塗膜安定性:81% / フジツボ耐性:予測値35% / 海獣忌避波動:維持】

 

「……惜しい。安定性と波動は合格圏だが、耐性がまだ35%だ。フジツボの繁殖速度に追いつかない」

「35%……。うーん。架橋構造は正しい方向のはずなんですけど……」

 

 紬は髪をかきむしりながら、モニターの分子構造図を睨みつけた。

 

「歌が聞こえるんです。この分子は、もっと硬くなりたがっている。でも硬くすると脆くなる。柔らかさと硬さを両立させるには──」

 

 紬が呟く言葉を、陽太は黙って聞いていた。彼女の共感覚が答えに近づいていることは分かる。だが、あと一歩が足りない。

 

◇ ◇ ◇

 

 午前三時を回った頃。紬がカップに注いだ冷めたコーヒーを一口含み、ふと手を止めた。

 

「……社長。一つ、試してみたいことがあります」

 

「何だ」

 

「泥スライムの核そのものを、もう一度よく見てほしいんです。抽出液じゃなくて、核の原形のまま」

 

 紬は冷蔵庫から、保存液に浸された泥スライムの核を一つ取り出した。保存液を拭い、素手で核を掌に乗せる。

 

「あの日、新しいラボに初めて社長が来た時、私はこの核の細胞壁に含まれるポリマーの活性基が、藻類のポリマーよりも“強く何かと結合したがっている”と言ったのを覚えていますか?……あれから一ヶ月、ずっとその歌を聴き続けてきて、一つだけ分かったことがあります」

 

 紬の瞳が、共感覚の光を帯びた。

 

「この子たちが結合したがっている相手は、魔素そのものなんです。つまり──フジツボが食べたがるのと同じものを、塗料の分子が先に掴んでしまえばいい」

 

「……魔素を先に結合させて、フジツボの餌場を潰すってことか」

 

「そうです。東雲さんは魔素を燃料にした。私は魔素を鎧にする。フジツボが齧りついても、すでに魔素が分子鎖と一体化しているから、引き剥がせない」

 

 陽太は一瞬だけ目を閉じ、その仮説をアビリティのイメージと照合した。

 

(分子鎖が魔素を取り込み、結合を完了した状態。フジツボの酵素は、その結合を分解できない。……原理としては成り立つ。だが、配合の精度が恐ろしくシビアになる)

 

「やってみろ。俺がリアルタイムで見る」

 

 紬の目が輝いた。白衣の袖をまくり直し、猛烈な勢いで新たな配合を始めた。

 

「第53号。魔素含有ポリマーの抽出濃度を7%上げて、架橋構造の間隔を詰めます」

 

最適者(オプティマイザー):試作塗料53号 / 塗膜安定性:74% / フジツボ耐性:予測値51%】

 

「方向は合ってる。だが安定性が落ちた。抽出濃度を上げすぎだ、3%に戻せ」

「了解。第54号、濃度3%に戻して、代わりに架橋のアンカーポイントを増やします」

 

最適者(オプティマイザー):試作塗料54号 / 塗膜安定性:88% / フジツボ耐性:予測値64%】

 

「いいぞ。一気に上がった。安定性も回復している。だが耐性がまだ足りない。あと少しだ」

 

「もう少し……。この子の歌が変わってきた。もっと深い音程で震えている。……社長、核の抽出液のpHを0.1だけ下げてみていいですか」

 

「やれ」

 

「第55号。pH調整0.1」

 

最適者(オプティマイザー):試作塗料55号 / 塗膜安定性:91% / フジツボ耐性:予測値89% / 海獣忌避波動:維持 / 自己修復機能:検出】

 

 陽太の目が見開かれた。

 

「……89%。それに──自己修復機能が出た」

 

「自己修復……!? 嘘、そんなパラメーターまで出るんですか!?」

 

 紬が弾かれたように水槽に駆け寄る。ガラス板に塗布された第55号を水槽に沈め、二人は息を止めて見守った。

 

 魔喰いフジツボが、ガラス板に近づいていく。触手を伸ばし、塗膜の表面に触れた。

 

 一秒。

 

 二秒。

 

 フジツボが、塗膜から離れた。

 

 触手を引っ込め、まるで毒に触れたかのように体を震わせてから、ガラス板と反対方向へゆっくりと移動し始めた。

 

 紬が水槽に顔を近づけ、フジツボの行動を凝視した。食べない。齧りつかない。それどころか、忌避している。

 

「……塗膜の表面を確認します」

 

 紬が水槽からガラス板を引き上げ、走査型電子顕微鏡にセットした。モニターに映し出された塗膜の表面は、浸水前と全く変わらない均一な構造を保っていた。

 

「傷なし。侵食痕ゼロ。塗膜厚の減少もゼロ。……社長」

 

 紬がゆっくりと振り返った。

 

 栗色の髪の間から覗く瞳には、涙が滲んでいた。だが、それは悲しみの涙ではなかった。

 

「……勝ちましたね」

 

「ああ」

 

◇ ◇ ◇

 

 窓の外が白み始めていた。

 

 紬は実験台に突っ伏して、そのまま眠ってしまっていた。白衣の袖はインクと試薬で汚れ、髪はぐしゃぐしゃだったが、その寝顔はどこか安らかだった。

 

 陽太はブランケットを紬の肩にかけ、実験台の上の第55号のガラス板を手に取った。

 

 夜明けの光が差し込むラボで、ガラス板の塗膜が淡く、しかし確かに光っていた。

 

 東雲が応急処置として生み出し、経営陣に握り潰された第二世代の夢。それを紬が完成させ、陽太が検証した。三人の才能が一つに重なり、世界で唯一の治療薬が、今ここに誕生した。

 

(さて。薬は完成した。あとは──手術の準備だ)

 

 陽太はスマートフォンを取り出し、凪にメッセージを打った。

 

『完成した。狩りの準備を始めてくれ』




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