IR情報で読み解くダンジョン経済学   作:カトーユキヒロ

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第16話:狩りの準備

 試作塗料55号改め、第二世代塗料が完成した日から、紬のラボでは、連日の性能試験が行われていた。

 

 試験項目は四つ。船速性能、燃費性能、海獣忌避、そしてフジツボ耐性。瀬戸内シーライオンの初代塗料が達成した三つの革命的性能を維持しながら、致命的な欠陥だけを潰す──それが第二世代塗料の要求仕様だった。

 

「最終結果、まとめました」

 

 紬がタブレットを陽太と凪の前に差し出した。画面には試験データの一覧が表示されている。

 

「船速性能。初代比1.02倍。水流抵抗が微減したため、むしろ初代より速くなりました」

 

「燃費性能。初代と同等。誤差の範囲です」

 

「海獣忌避波動。初代と同等の強度を確認しました」

 

「そしてフジツボ耐性。六十日間の連続浸水試験で、侵食ゼロ。フジツボは塗膜に接近すらしません」

 

 紬は最後の項目を読み上げた後、控えめに──だが確かな誇りを込めて、付け加えた。

 

「加えて、初代にはなかった自己修復機能を確認しています。微小な傷が入っても、魔素との再結合反応によって塗膜が自動的に修復されます。事実上の半永久塗料です」

 

 凪が目を見開いた。

 

「瀬戸内シーライオンが“半永久的”と謳って実現できなかったものを、本当に達成してしまったのね」

 

「東雲さんの設計思想がなければ、私一人では絶対にたどり着けませんでした。……あの人の夢の続きを、完成させただけです」

 

 紬の声は穏やかだったが、その瞳には、研究者としての揺るぎない自信が宿っていた。

 

 ◇ ◇ ◇

 

「さて」

 

 場所を第二工場の事務所に移した三人。陽太はデスクの上に、これまで蓄積してきた資料を一枚ずつ並べ始めた。

 

「ここまでの手札を整理する」

 

 一枚目。瀬戸内シーライオンの有価証券報告書。修繕費の指数関数的増加を示す折れ線グラフに、赤ペンで丸が打たれている。

 

 二枚目。ドックで撮影した船底の写真。魔喰いフジツボに食い荒らされた塗膜の侵食痕が、生々しく写っている。

 

 三枚目。東雲真司から託されたデータの要約。初代塗料が応急処置として設計されたこと、劣化の予測モデル、第二世代開発の進言が握り潰された経緯。

 

 四枚目。銀行の与信悪化を示す調査資料。メインバンク一行の融資枠撤退と、残り二行の金利上乗せ。

 

 五枚目。海事局の船舶検査記録。40隻中7隻の緊急修繕。

 

 六枚目。紬の第二世代塗料の試験結果報告書。

 

 そして最後の一枚。凪が作成した、瀬戸内シーライオンの企業価値評価書。

 

「七枚。これが俺たちの手札の全てだ」

 

 陽太はデスクの上に並んだ資料を見渡した。一枚目を手に取った時には、まだ何も持っていなかった。IR情報の異常値を嗅ぎ取っただけの、ただの大学生だった。そこから講義を聴き、船底を探り、島を訪ね、研究室で徹夜し、一枚ずつカードを揃えてきた。

 

 凪がコーヒーカップを置き、資料を手に取った。

 

「これだけ揃えば、戦える。……いえ、戦えるどころじゃないわ。この七枚を正しい順番で切れば、瀬戸内シーライオンの経営陣は一網打尽ね」

 

「ああ。だが、切り方を間違えれば全て無駄になる。慎重にいこう」

 

 ◇ ◇ ◇

 

「凪。俺が考えている手順を聞いてくれ」

 

 陽太はホワイトボードに向かい、マーカーを手に取った。

 

「最初に切るカードは、修繕費のデータだ。経営陣に直接会い、指数関数的な増加曲線を突きつける。彼らは既に問題を把握しているだろうが、外部にばれていないと思っている。数字で可視化されれば逃げられなくなる」

 

「次に、船底の侵食データとフジツボの正体を見せる。問題の原因が塗料の劣化であること、そしてその劣化が不可逆的に加速していることを証明する」

 

「三番目に、東雲のデータ。経営陣が開発責任者の警告を握り潰した事実を突きつける。これは彼らにとって最大の急所だ。株主に知られれば、善管注意義務違反で損害賠償請求を受ける」

 

 凪が目を細めた。

 

「……そこまで追い込んで、最後に治療薬を差し出すわけね」

 

「そうだ。第二世代塗料という唯一の治療薬を持っているのは、俺たちだけだ。瀬戸内シーライオンが生き残るためには、俺たちと組むしか選択肢がない。……その条件として」

 

 陽太はホワイトボードに、大きく一つの言葉を書いた。

 

「買収だ」

 

 凪と紬が、同時に息を呑んだ。

 

「瀬戸内シーライオンを潰すんじゃない。株式を取得して、経営権を握る。腐った経営陣を追い出し、第二世代塗料を全船に施工し、会社を蘇らせる。蘇った会社が生み出す利益を、永続的に回収する」

 

「……従業員三千人と、瀬戸内海の全航路を丸ごと引き受けるってこと?」

 

 凪の声が、かすかに震えていた。興奮なのか恐怖なのか、おそらくその両方だった。

 

「ああ。だが、買収には莫大な資金が要る。ウォーター・ベインの手元資金だけでは到底足りない」

 

「それは……どうするの?」

 

「方法はある。ただし、この話は買収の直前まで伏せる。今の段階で必要なのは、もう一つの準備だ」

 

 ◇ ◇ ◇

 

「会社を買うのは、実はそこまで難しくない」

 

 陽太はホワイトボードに新たな文字を書き加えた。

 

「難しいのは、買った翌日から動かすことだ」

 

 凪が一瞬、虚を突かれた顔をした。

 

「考えてみてくれ。買収が成立した瞬間、俺たちは三千人の従業員と四十隻の船舶の責任を負う。全船の塗料を塗り替えなければならない。航路を一日も止められない。銀行との関係を立て直さなければならない。株主への説明も必要だ。……これらを買収完了と同時に、即座に実行できるだけの計画と人員を、事前に用意しておかなければならない」

 

「……つまり、会社を買う前から、もう動かす準備をしておくということね」

 

「そうだ。塗料の量産体制、施工チームの編成、航路の一時的な代替計画、銀行への再建計画の提示。全部、買収が成立する前に準備を終わらせておく」

 

 紬が恐る恐る手を挙げた。

 

「あの、社長。塗料の量産って……うちのラボの規模じゃ、四十隻分なんて到底──」

 

「分かっている。だから、性能試験を進めている間にスライム集核装置(スライムコレクター)の拡張と、第二工場の増設を一鉄さんたちにやってもらっていた。泥スライムの核から抽出した魔素含有ポリマーが第二世代塗料の主原料だ。大量生産のノウハウは、すでにうちにある」

 

 凪が「あっ」と目を丸くした。陽太が大学に復学する前に確立した、泥スライムの大量生産体制が、ここに来て全く別の文脈で武器になることに気づいたのだ。

 

「一鉄さんの工場が原料を供給し、つむつむのラボが塗料を合成する。この二つを繋げれば、量産のパイプラインが完成する」

 

 陽太はホワイトボードを見渡した。そこには、買収の全工程が一枚の図として描かれていた。

 

 ◇ ◇ ◇

 

「……これは凄まじい計画ね。本気で、瀬戸内海の物流を握ろうとしている」

 

 凪が呟いた。

 

「泥スライムの核が、まさか海運インフラの支配に繋がるなんて。……あの日、純喫茶でタッパーを開けた時には、想像もしなかったわ」

 

「俺もだよ」

 

 陽太は小さく笑った。泥スライムの核をテーブルに置いた日から、ここまでの道のりが一瞬だけ脳裏を過ぎる。

 

 だが、感傷に浸っている暇はない。

 

「凪。買収スキームの法務設計を頼む。つむつむは塗料の量産プロトコルの策定を。一鉄さんには工場の拡張を依頼する。全員、同時に動いてくれ」

 

「了解」

 

「はい、社長!」

 

 凪がタブレットを開き、紬がラボへ駆け出していく。

 

 一人残された事務所で、陽太はホワイトボードの“買収”の文字を見つめた。

 

(ここから先は、今までとは桁が違う。失敗すれば、三千人の生活が路頭に迷う。……だが、動かなければ、同じ三千人がもっと悲惨な形で沈む)

 

 陽太はマーカーのキャップを閉じ、事務所の電気を消した。

 

 窓の外で、瀬戸内海の夜が静かに凪いでいた。




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