試作塗料55号改め、第二世代塗料が完成した日から、紬のラボでは、連日の性能試験が行われていた。
試験項目は四つ。船速性能、燃費性能、海獣忌避、そしてフジツボ耐性。瀬戸内シーライオンの初代塗料が達成した三つの革命的性能を維持しながら、致命的な欠陥だけを潰す──それが第二世代塗料の要求仕様だった。
「最終結果、まとめました」
紬がタブレットを陽太と凪の前に差し出した。画面には試験データの一覧が表示されている。
「船速性能。初代比1.02倍。水流抵抗が微減したため、むしろ初代より速くなりました」
「燃費性能。初代と同等。誤差の範囲です」
「海獣忌避波動。初代と同等の強度を確認しました」
「そしてフジツボ耐性。六十日間の連続浸水試験で、侵食ゼロ。フジツボは塗膜に接近すらしません」
紬は最後の項目を読み上げた後、控えめに──だが確かな誇りを込めて、付け加えた。
「加えて、初代にはなかった自己修復機能を確認しています。微小な傷が入っても、魔素との再結合反応によって塗膜が自動的に修復されます。事実上の半永久塗料です」
凪が目を見開いた。
「瀬戸内シーライオンが“半永久的”と謳って実現できなかったものを、本当に達成してしまったのね」
「東雲さんの設計思想がなければ、私一人では絶対にたどり着けませんでした。……あの人の夢の続きを、完成させただけです」
紬の声は穏やかだったが、その瞳には、研究者としての揺るぎない自信が宿っていた。
◇ ◇ ◇
「さて」
場所を第二工場の事務所に移した三人。陽太はデスクの上に、これまで蓄積してきた資料を一枚ずつ並べ始めた。
「ここまでの手札を整理する」
一枚目。瀬戸内シーライオンの有価証券報告書。修繕費の指数関数的増加を示す折れ線グラフに、赤ペンで丸が打たれている。
二枚目。ドックで撮影した船底の写真。魔喰いフジツボに食い荒らされた塗膜の侵食痕が、生々しく写っている。
三枚目。東雲真司から託されたデータの要約。初代塗料が応急処置として設計されたこと、劣化の予測モデル、第二世代開発の進言が握り潰された経緯。
四枚目。銀行の与信悪化を示す調査資料。メインバンク一行の融資枠撤退と、残り二行の金利上乗せ。
五枚目。海事局の船舶検査記録。40隻中7隻の緊急修繕。
六枚目。紬の第二世代塗料の試験結果報告書。
そして最後の一枚。凪が作成した、瀬戸内シーライオンの企業価値評価書。
「七枚。これが俺たちの手札の全てだ」
陽太はデスクの上に並んだ資料を見渡した。一枚目を手に取った時には、まだ何も持っていなかった。IR情報の異常値を嗅ぎ取っただけの、ただの大学生だった。そこから講義を聴き、船底を探り、島を訪ね、研究室で徹夜し、一枚ずつカードを揃えてきた。
凪がコーヒーカップを置き、資料を手に取った。
「これだけ揃えば、戦える。……いえ、戦えるどころじゃないわ。この七枚を正しい順番で切れば、瀬戸内シーライオンの経営陣は一網打尽ね」
「ああ。だが、切り方を間違えれば全て無駄になる。慎重にいこう」
◇ ◇ ◇
「凪。俺が考えている手順を聞いてくれ」
陽太はホワイトボードに向かい、マーカーを手に取った。
「最初に切るカードは、修繕費のデータだ。経営陣に直接会い、指数関数的な増加曲線を突きつける。彼らは既に問題を把握しているだろうが、外部にばれていないと思っている。数字で可視化されれば逃げられなくなる」
「次に、船底の侵食データとフジツボの正体を見せる。問題の原因が塗料の劣化であること、そしてその劣化が不可逆的に加速していることを証明する」
「三番目に、東雲のデータ。経営陣が開発責任者の警告を握り潰した事実を突きつける。これは彼らにとって最大の急所だ。株主に知られれば、善管注意義務違反で損害賠償請求を受ける」
凪が目を細めた。
「……そこまで追い込んで、最後に治療薬を差し出すわけね」
「そうだ。第二世代塗料という唯一の治療薬を持っているのは、俺たちだけだ。瀬戸内シーライオンが生き残るためには、俺たちと組むしか選択肢がない。……その条件として」
陽太はホワイトボードに、大きく一つの言葉を書いた。
「買収だ」
凪と紬が、同時に息を呑んだ。
「瀬戸内シーライオンを潰すんじゃない。株式を取得して、経営権を握る。腐った経営陣を追い出し、第二世代塗料を全船に施工し、会社を蘇らせる。蘇った会社が生み出す利益を、永続的に回収する」
「……従業員三千人と、瀬戸内海の全航路を丸ごと引き受けるってこと?」
凪の声が、かすかに震えていた。興奮なのか恐怖なのか、おそらくその両方だった。
「ああ。だが、買収には莫大な資金が要る。ウォーター・ベインの手元資金だけでは到底足りない」
「それは……どうするの?」
「方法はある。ただし、この話は買収の直前まで伏せる。今の段階で必要なのは、もう一つの準備だ」
◇ ◇ ◇
「会社を買うのは、実はそこまで難しくない」
陽太はホワイトボードに新たな文字を書き加えた。
「難しいのは、買った翌日から動かすことだ」
凪が一瞬、虚を突かれた顔をした。
「考えてみてくれ。買収が成立した瞬間、俺たちは三千人の従業員と四十隻の船舶の責任を負う。全船の塗料を塗り替えなければならない。航路を一日も止められない。銀行との関係を立て直さなければならない。株主への説明も必要だ。……これらを買収完了と同時に、即座に実行できるだけの計画と人員を、事前に用意しておかなければならない」
「……つまり、会社を買う前から、もう動かす準備をしておくということね」
「そうだ。塗料の量産体制、施工チームの編成、航路の一時的な代替計画、銀行への再建計画の提示。全部、買収が成立する前に準備を終わらせておく」
紬が恐る恐る手を挙げた。
「あの、社長。塗料の量産って……うちのラボの規模じゃ、四十隻分なんて到底──」
「分かっている。だから、性能試験を進めている間に
凪が「あっ」と目を丸くした。陽太が大学に復学する前に確立した、泥スライムの大量生産体制が、ここに来て全く別の文脈で武器になることに気づいたのだ。
「一鉄さんの工場が原料を供給し、つむつむのラボが塗料を合成する。この二つを繋げれば、量産のパイプラインが完成する」
陽太はホワイトボードを見渡した。そこには、買収の全工程が一枚の図として描かれていた。
◇ ◇ ◇
「……これは凄まじい計画ね。本気で、瀬戸内海の物流を握ろうとしている」
凪が呟いた。
「泥スライムの核が、まさか海運インフラの支配に繋がるなんて。……あの日、純喫茶でタッパーを開けた時には、想像もしなかったわ」
「俺もだよ」
陽太は小さく笑った。泥スライムの核をテーブルに置いた日から、ここまでの道のりが一瞬だけ脳裏を過ぎる。
だが、感傷に浸っている暇はない。
「凪。買収スキームの法務設計を頼む。つむつむは塗料の量産プロトコルの策定を。一鉄さんには工場の拡張を依頼する。全員、同時に動いてくれ」
「了解」
「はい、社長!」
凪がタブレットを開き、紬がラボへ駆け出していく。
一人残された事務所で、陽太はホワイトボードの“買収”の文字を見つめた。
(ここから先は、今までとは桁が違う。失敗すれば、三千人の生活が路頭に迷う。……だが、動かなければ、同じ三千人がもっと悲惨な形で沈む)
陽太はマーカーのキャップを閉じ、事務所の電気を消した。
窓の外で、瀬戸内海の夜が静かに凪いでいた。
カラフルなものくろ 様
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