その日の夕方。向島ダンジョンの入り口から、東朋マテリアルの調査隊が撤収していくのを、陽太は岩陰から静かに見送っていた。
彼らは日中の検証作業を終え、迎えの大型船で本土の拠点へと戻っていく。残されたのは護衛部隊の警備担当と、無人のテントと、鍵のかけられた厳重な保管庫、そして──産廃用コンテナに無造作に置かれたゴミ袋だ。
(さて、大企業の優秀な頭脳が、どこでつまづいているのか教えてもらおうか)
コンテナ周囲に誰もいないことを確認した陽太は、音もなくゴミ袋に近づき、中身を漁り始めた。
出てきたのは、大量のゴム手袋や記録用紙の切れ端、そして、いくつもの密閉式プラスチック容器。容器の中には、すでにヘドロと化した泥スライムの核の残骸が、濁った液体と共にドロドロに溶けていた。
陽太は迷わず、そのヘドロの容器に
【
(……なるほど)
陽太は暗がりの中で、一人納得の笑みを浮かべた。
東朋マテリアルの研究者たちは、決して無能ではない。むしろ極めて優秀だ。彼らは泥スライムの核を長持ちさせるため、体液と浸透圧が同じ生理食塩水に、pH(酸性度)を安定させるためのクエン酸緩衝液をブレンドした保存液という答えを導き出していた。
だが、それでも彼らは失敗している。
陽太は、日中じっくりと彼らの動きを観察していた。そして、この
体組織損傷の原因は、そもそも無傷の核を採取できていないからだ。護衛部隊の過剰な火力では、手加減をしたとしても最弱の泥スライムなど木っ端微塵だ。日中、東朋のテントに持ち込まれた核は、遠目から見ても明らかに傷ついたものが多かった。
現場の護衛は雑に扱い、本社のエリートは現場の泥臭い仕様を知らない。大企業特有の縦割りの弊害だ。
運良く無傷で取り出せたとしても、硬いプラスチック容器に入れて本土の研究所まで運べば、船の振動だけで核は容器の壁にぶつかり致命傷を負うだろう。
急速酸化の原因は単純だ。溶液内に残った酸素と反応していると見て間違いないだろう。
たったそれだけの要因が、正解の溶液に漬けたとしても、繊細な泥スライムの核を数十分でヘドロに変えてしまうのだ。
得てしてこういう単純な気付きは、一通りの作業を一人でこなせば発見されるものだが分業体制が確立した彼らのやり方では、とてもじゃないが原因に気付くことはないだろう。
もちろん、東朋マテリアルの物量は圧倒的だ。現在の体制でも、数多くのトライ&エラーを繰り返す中で発見されるかも知れない。
「……だが、俺なら。その場で答え合わせができる」
大企業を出し抜けることを確信した陽太は、素早くゴミ袋を元に戻し、尾道市街へと走った。
◇ ◇ ◇
深夜の向島ダンジョン。
再び採石場跡地へと戻ってきた陽太の足元には、市街地の24時間営業の薬局とホームセンターで買い集めた道具が並んでいた。
精製水、食塩、クエン酸、そして5000円で買った家庭用の真空パック機と、専用のビニール袋、ポータブル電源だ。
東朋の保存液の
陽太は暗がりの中で泥スライムを狩り、新鮮な核を取り出すと、即座に実験を開始した。
「テスト・ケース1。保存液なし、真空パックのみ」
採取して数秒の核を袋に入れ、真空パック機で空気を抜く。
ウィィィンというモーター音と共に袋が収縮し、核にぴったりと張り付いた。
陽太は視界のウィンドウを凝視する。
【
「……ダメだ。パックの圧力で核が潰れる。次」
陽太は失敗した核を捨て、すぐに次のスライムを狩る。
「テスト・ケース2。東朋のレシピの保存液に浸して、空気を残したまま密閉」
【
「持ちは良くなったが、これでも10時間しか持たない。次」
狩る。封入する。数値を視る。
企業の研究チームが(サンプル採取→簡易検査機→良品を本土に輸送→精密検査→データ分析)というプロセスに数日かけるところを、陽太は己の視界に浮かぶ
圧倒的な超高速のPDCA(計画・実行・評価・改善)サイクル。
濃度を変え、封入の手順を変え、深夜のダンジョンで一人、狂ったようにスライムを狩り続ける。
──その時だった。
背後の泥溜まりが、不自然にボコッと膨れ上がる音がした。
「──っ!」
実験に没頭するあまり、ポップの兆候を完全に聞き逃していた。振り返った陽太の顔面めがけて、泥スライムが体当たりを仕掛けてくる。いくら最弱のモンスターとはいえ、無防備に喰らえば無事では済まない。
陽太は間一髪で横に転がり、泥まみれになりながらお手製の槍を突き出した。
ドシャッ、とスライムが弾け飛ぶ。
「……ハァ、ハァ……焦っている場合じゃない。冷静になれ。こんなところで死ねないぞ」
陽太は荒い息を吐きながら、冷や汗を拭った。
周囲にはヘドロ化したスライムの核が散乱し、ヘドロの臭いで鼻がマヒしてきた頃、50回以上のテストを乗り越えて。ついに陽太は
「テスト・ケース53。保存液を満たした袋の中に核を沈め、液中の空気を完全に押し出しながら真空パックで密閉。……振動吸収と無酸素化の両立」
陽太は、自作した濃度0.9%の生理食塩水がタプタプに入ったビニール袋に、傷一つない新鮮なスライムの核を落とし込んだ。
そして、空気が一ミリも入らないよう、水面ぎりぎりの位置で真空パック機のシーラーを作動させる。
ジュッ、とビニールが溶けて密閉される音が暗闇に響いた。
袋の中には、たっぷりの保存液に浮かぶ、青白く澄んだ泥スライムの核。液がクッションになり、真空パックの圧力から核を守っている。
陽太は、息を呑んで
【
1分経過。数値はゼロのままだ。
普段ならとっくにヘドロ化が始まる5分が経過しても、10分が経過しても、手の中にある核は、討伐直後の美しい透明度を完璧に保っていた。
「……止まった」
陽太の声が、微かに震えた。
時が止まったかのように、劣化率の数値が完全に沈黙している。
それは、大企業が何億円という研究費と大所帯を投じても越えられなかった鮮度維持の壁を、底辺探索者が5000円の真空パック機とホームセンターの道具だけで打ち破った瞬間だった。
「……完成だ」
陽太は、保存液の中で青白く光るパッケージを高く掲げた。
それはもはや、10円で買い叩かれるゴミ素材ではない。大企業が喉から手が出るほど欲しがる、そして妹の命を救うための純水フィルターだ。ダンジョン経済で市場が成長する限り、需要は青天井だ。
生産のノウハウは確立した。
あとは、この完璧な製品を東朋マテリアルに売り込み、彼らから利益を合法的に吸い上げるための契約を結ぶだけだ。
しかし、巨大資本を相手に、一個人の底辺探索者がまともな取引などできるはずがない。法と契約で完全武装するための、盾が必要だ。
東の空が白み始めた頃。
陽太はスマートフォンを取り出し、数年ぶりに、とある人物の連絡先を開くのだった。
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