瀬戸内シーライオン本社ビルは、尾道港を見下ろす沿岸部の一等地に建っていた。
青い海獅子のロゴが掲げられたガラス張りのエントランスを、陽太と凪が並んで潜る。受付で来客カードを受け取り、エレベーターで最上階へ。凪が事前にアポイントを入れたのは、取締役会議室だった。
「どうやってアポを取ったんだ?」
エレベーターの中で陽太が小声で尋ねると、凪は涼しい顔で答えた。
「東朋マテリアルの木崎さん経由よ。ウォーター・ベイン社が、御社の船底塗料に関する重要な技術的知見を持っていると伝えてもらったわ。純水プラントの部品供給業者としての紹介なら、門前払いはされないわ」
エレベーターが開く。最上階の廊下は分厚い絨毯が敷かれ、壁には瀬戸内海を航行する自社船舶の写真が誇らしげに並んでいた。
会議室のドアが開かれると、長いテーブルの向こうに五人の人影があった。
瀬戸内シーライオン代表取締役社長・
「ようこそ、ウォーター・ベイン社の方々。木崎さんからお話は伺っています」
社長が立ち上がり、紳士的な笑顔で手を差し出す。陽太はその手を握り返した。この手が、東雲の警告を握り潰した手でもある。
「お時間をいただきありがとうございます。本日は、御社にとって極めて重要な情報をお持ちしました」
「ほう。木崎さんは船底塗料に関する知見だとおっしゃっていましたが」
「ええ。率直に申し上げます」
陽太は着席し、鞄からタブレットを取り出した。凪がプロジェクターを接続する。
スクリーンに、最初の一枚が映し出された。
◇ ◇ ◇
「こちらは、御社の有価証券報告書から抽出した修繕費の推移です」
右肩上がりの指数関数的な曲線が、スクリーンいっぱいに映し出された。横軸は四半期、縦軸は金額。加速度的に上昇するその曲線は、講義室で百人の学生を凍らせたのと同じグラフだ。
「修繕費の増加率は、直近四半期で34%に達しています。このグラフは直線ではなく、加速しています。つまり、コスト要因ではなく、船体に時間経過と共に悪化する技術的な問題が発生していることを示しています」
経営陣の表情が、一枚目で変わった。
社長の穏やかな笑みが消え、専務が椅子の上で姿勢を正した。財務担当役員だけが、わずかに目を逸らした。数字を誰よりも知っている人間の、後ろめたさの発露だった。
「何を──」
社長が口を開きかけたが、陽太はスライドを進めた。
「二枚目です。これは、御社のドックに入渠中の船舶の船底を撮影したものです」
魔喰いフジツボに食い荒らされた船底の写真が映し出された。塗膜が不規則に剥落し、下地の鉄板が露出している生々しい画像に、役員たちの顔から完全に血の気が引いた。
「な……これは、どうやって──」
「撮影方法は申し上げられません。重要なのは事実です。御社の船底塗料は、魔素を代謝する未知の微小甲殻類──仮称・魔喰いフジツボによって、侵食されています。この侵食は不可逆的であり、加速度的に進行します」
会議室に、重い沈黙が降りた。
「三枚目」
陽太は容赦なくスライドを進めた。映し出されたのは、東雲の設計データの要約だった。
「御社の魔法船底塗料は、開発当初から三年から五年で劣化が始まることが予測されていました。開発責任者の東雲真司氏は、第二世代塗料の開発を複数回にわたって進言しましたが、経営陣によって全て却下されています」
「やめろ」
社長の声が、鋭く会議室を切った。穏やかだった老人の目に、剥き出しの敵意が宿っている。
「東雲は守秘義務を負っている。彼が外部にデータを渡したのであれば、法的措置を──」
「社長」
凪が静かに遮った。
「東雲氏の特許は個人名義です。設計データは職務発明の範囲外であり、守秘義務の対象となる企業秘密には該当しません。……そして、仮に法廷闘争に持ち込まれた場合、経営陣が技術的リスクの警告を意図的に握り潰した事実が公になります。株主代表訴訟の火種を自ら撒くことになりますが、よろしいですか?」
社長の拳が、テーブルの下でギリッと握り込まれる音がした。
◇ ◇ ◇
「四枚目。御社のメインバンク三行のうち、一行はすでに融資枠の更新を見送っています。残り二行も金利を上乗せしています。銀行は、御社の内情をすでに感じ取っている」
「五枚目。海事局の船舶検査記録によれば、直近三ヶ月で御社の保有船舶40隻中7隻が、非公開の緊急修繕に入っています。全隻が船底塗装の全面再施工。……これだけの規模の修繕を、適時開示していない」
財務担当役員が、額の汗をハンカチで拭った。法務部長は蒼白な顔で手元の書類に目を落としている。
陽太はスライドを閉じ、プロジェクターの電源を切った。
「以上が、俺たちの診断書です」
会議室が静まり返った。五人の経営陣は、それぞれ異なる表情をしていた。社長は怒り。専務は困惑。常務は諦め。財務担当は恐怖。法務部長は絶望。
「……それで」
社長がようやく口を開いた。声は低く、感情を押し殺している。
「君たちは何が目的だ。告発か。脅迫か。それとも──空売りで儲けるために、ここに来たのか」
「空売りはしません」
陽太はきっぱりと言い切った。
「告発もしません。脅迫もしません。御社の三千人の従業員と、瀬戸内海の物流を支えるインフラを潰すつもりは、俺にはありません」
社長の目が、わずかに揺れた。
「では……何をしに来た」
陽太は、最後の一枚──六枚目のスライドを、手動でスクリーンに映し出した。
映し出されたのは、紬の第二世代塗料の試験結果だった。船速性能、燃費性能、海獣忌避、フジツボ耐性、自己修復機能。全ての項目で初代を上回る、完璧な数値が並んでいる。
「治療薬を、お持ちしました」
会議室の空気が、三度目の変化を遂げた。怒りでも恐怖でもない。かすかな──しかし切実な、希望の色が滲み始めていた。
「魔喰いフジツボに耐性を持ち、自己修復機能を備えた第二世代の魔法船底塗料です。これを御社の全船舶に施工すれば、修繕費の問題は根本的に解決する」
「……条件は」
社長の声が、かすれていた。
陽太は一拍だけ間を置いた。
「条件については、改めてお時間をいただきたい。今日は、診断書をお渡しに来ただけです」
陽太は立ち上がり、テーブルの上に紙の資料一式を残した。
「御社がこの問題を放置すれば、一年以内に修繕費が売上を上回ります。それは御社だけの問題ではなく、瀬戸内海の物流インフラ全体の崩壊を意味する。……俺たちの治療薬が必要だと判断されたら、ご連絡ください」
陽太と凪は一礼し、会議室を後にした。
◇ ◇ ◇
エレベーターのドアが閉まった瞬間、凪が深く息を吐いた。
「……今日は条件を出さなかったのね」
「ああ。今日の目的は、連中に現実を突きつけることだけだ。焦って条件を出せば、足元を見られる」
凪は頷いた。
「追い詰められた相手は、二つに分かれるわ。パニックになって暴走するか、冷静に取引条件を模索するか。……あの社長は、どっちだと思う?」
陽太はエレベーターの階数表示が1階に近づいていくのを見つめながら、静かに答えた。
「あの人の根っこは商売人だ。怒りを飲み込んで、取引を選ぶはずだ。……ただし、苦し紛れの時間稼ぎは仕掛けてくるんじゃないか?」
「それも想定済み?」
「もちろん。準備は万端だ。相手の動きを見て後の先を取る」
エレベーターが一階に着き、ドアが開いた。
ガラス張りのエントランスの向こうに、尾道港の海が広がっている。瀬戸内シーライオンの青い船体が、午後の陽光を浴びて港に停泊していた。
あの船の底が、今この瞬間も食い荒らされている。
時計の針は止まらない。
イワゴン 様
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