診断書を置いてきた翌日。瀬戸内シーライオンからの連絡は、なかった。
陽太はそれを予想していた。
第二工場の事務所で、凪と並んでタブレットを眺める。瀬戸内シーライオンの株価チャートは、昨日と変わらず穏やかな曲線を描いていた。市場はまだ何も知らない。
「連絡が来ないわね」
「昨日の今日で連絡できる判断力があるなら、そもそもこんな問題は起きてない。今は向こうが社内で揉めている時間だ」
陽太はコーヒーを啜りながら、経営陣の頭の中を想像した。
(社長は今頃、二つの選択肢を天秤にかけているはずだ。一つは俺たちの提案を受け入れる道。もう一つは、俺たちを排除して自力で問題を解決する道)
プライドが邪魔をして陽太の提案は受け入れがたい。だが、自力での解決は不可能だ。第二世代塗料のレシピは陽太たちだけが握っている。東雲を連れ戻そうにも、東雲のデータはすでにウォーター・ベインに渡っている。他の化学メーカーに駆け込んだところで、魔喰いフジツボの正体を突き止めるだけで数年かかる。
瀬戸内シーライオンに、時間はない。
◇ ◇ ◇
二日目の朝。凪のタブレットに、一通の通知が入った。
「陽太。動いたわ」
凪が示した画面には、瀬戸内シーライオンの法務部から送られてきた内容証明郵便の画像が映し出されていた。
「“貴社が当社取締役会において提示した資料には、不法な手段により取得された企業秘密が含まれている疑いがあり、差止請求を検討する”……だそうよ」
陽太は鼻で笑った。
「想定の範囲内だ。まず法的な脅しで、こちらの出方を見ようとしている」
「もちろん、法的根拠はゼロよ。東雲さんの個人データは職務発明の範囲外。船底の撮影は公開エリアからの観察。IR情報は全て公開資料。……内容証明で脅してくる程度なら、向こうの法務は二流ね」
凪は涼しい顔で、返答書面のドラフトをタブレットに打ち始めた。
「どう返す?」
「カウンターに利用するわ。丁寧かつ完璧な反論書を送りつけて、法的に争っても勝ち目がないことを思い知らせる。焦っている相手に、さらに出口を塞ぐのよ」
凪の指がタブレットの上を踊る。法的な攻防は彼女の独壇場だ。
◇ ◇ ◇
同日夜。陽太のスマートフォンに、非通知の着信が入った。
「……はい、湊です」
『湊社長ですか。……瀬戸内シーライオンの財務担当役員、笹本です。個人的にお話したいことがあるのですが』
陽太の目が鋭くなった。五人の経営陣の中で、最初に目を逸らした男。修繕費の異常を最も早くから知っていたはずの人物。
『社長は……あなた方を排除する方向で動いています。自社の研究部門に第二世代塗料の開発を指示し、同時に法務部に告訴の準備をさせています。ですが……』
笹本の声が、震えていた。
『無理なんです。うちの研究部門に東雲のような天才はいない。開発には早くて三年。そんな時間はありません。銀行はもう一行、追加で融資枠の縮小を通達してきました。来月の資金繰りすら危ういんです。……社長は現実を見ていない。このままでは全員が沈みます』
「笹本さん。なぜ、俺に電話をしてきたんですか」
陽太は静かに問うた。長い沈黙の後、笹本が絞り出すように答えた。
『……私には、家族がいます。三千人の従業員にも、家族がいます。社長のプライドのために、全員を道連れにすることはできない。……湊社長。あなたが本当にこの会社を救う気があるのなら、私は内側から協力します』
陽太は数秒間、天井を見つめた。この電話は罠かもしれない。社長が送り込んだスパイの可能性もある。だが、笹本の声に宿る震えは、計算で作れるものではなかった。
「笹本さん。一つだけ約束してください。俺たちが動く時まで、社長の動きを逐一教えてほしい。それだけで十分です。あなたの立場を危険に晒すようなことは、絶対に求めません」
『……分かりました。信じます、湊社長』
通話が切れた後、陽太は凪に電話の内容を共有した。
「財務担当が内通してきた、か。……社内が割れ始めているわね」
「社長が暴走すれば、保身に走る役員が出てくるのは必然だ。笹本の情報は使える。だが、最後の最後まで鵜呑みにはしない」
◇ ◇ ◇
三日目の朝。笹本から、最初の情報が届いた。
『緊急修繕に入る船が、さらに3隻増えました。合計10隻。全体の25%です。来週のドック入り予定を含めると、年内に15隻が止まります。航路の維持が物理的に不可能になる瀬戸際です』
陽太は数字をタブレットに入力し、凪に見せた。
「25%。あと数週間で航路の間引き運航が始まる。荷主への遅配が起これば、信用が崩壊する。一度信用を失った海運会社は、二度と元には戻れない」
「タイムリミットは、思っていたよりずっと近いわね」
凪が険しい顔で言った。
「ああ。もう待てない。こちらから動く」
陽太はスマートフォンを手に取り、瀬戸内シーライオンの代表番号をダイヤルした。
「瀬戸内シーライオン、代表取締役社長の大西洋一様をお願いします。ウォーター・ベイン社の湊です。……ええ、社長に直接。条件のご提示に伺いたいとお伝えください」
受話器の向こうで、数十秒の保留音。やがて回線が繋がった。
『……湊社長か。条件を聞こうと言うのか』
瀬戸内社長の声は、三日前より低く、しかし怒りの代わりに疲労が滲んでいた。三日間で、この老人もまた現実と向き合わざるを得なかったのだろう。
「はい。明日の午前中にお時間をいただけますか」
『……分かった。十時に来い』
短い通話が切れた。
陽太はスマートフォンをテーブルに置き、凪を見た。
「明日だ」
「ええ。……準備は?」
「できている。あとは、お前に最後の仕上げを頼みたい」
陽太はデスクの引き出しから、一枚の書類を取り出した。
凪がそれを受け取り、内容を読んだ瞬間──彼女の瞳が大きく見開かれた。
「……これ、本気なの?」
「本気だ」
凪はしばらく書類を見つめ、やがて息を呑むように唇を噛んだ。そして、小さく、だが確かに頷いた。
「分かったわ。今夜中に仕上げる。……覚悟しなさいよ、陽太。これを切ったら、もう後には引けないわ」
「引く気はない」
深夜の事務所で、凪のキーボードを叩く音だけが、長い時間響き続けた。
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