IR情報で読み解くダンジョン経済学   作:カトーユキヒロ

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第19話:買う会社で、買う

 午前十時。瀬戸内シーライオン本社ビル、取締役会議室。

 

 三日前と同じ部屋、同じテーブル。だが、空気は全く違っていた。

 

 三日前は五人の経営陣が壁のように並んでいたが、今日の部屋にいるのは大西社長ただ一人だった。専務も常務も法務部長の姿もない。社長は自ら一対一の場を選んだのだ。

 

(他の役員を外した。つまり、社長は取引をする気だ。だが同時に、社内に聞かせたくない条件が出てくることを、すでに覚悟している)

 

 陽太は凪と共に着席した。社長は三日前より明らかに痩せていた。目の下には深い隈が刻まれ、白髪が増えたように見える。だが、その瞳の奥には依然として、海運帝国を築いた創業者の威厳が残っていた。

 

「……あの資料を精査した。法務にも確認させた」

 

 社長が、低い声で切り出した。

 

「君たちの分析は、概ね正しい。我が社の塗料が、原因不明の劣化を起こしていることは──認める」

 

 陽太は表情を変えなかった。原因不明と言い張っているのは、フジツボの正体を公式に認めたくないからだ。だが、問題の存在を認めた──それだけで十分だった。

 

「そして、君たちが持っているという第二世代塗料。あれが本物であれば、我が社にとって──」

 

 社長は一度言葉を切り、苦渋に満ちた息を吐いた。

 

「……必要だ。率直に言おう。金なら出す。技術供与の条件を提示してくれ」

 

◇ ◇ ◇

 

「技術供与ではありません」

 

 陽太の一言で、社長の目が鋭くなった。

 

「……どういう意味だ」

 

「塗料のライセンス契約や技術供与は、しません。俺たちが提示する条件は一つだけです」

 

 陽太は鞄から、凪が徹夜で仕上げた書類を取り出し、テーブルの中央に置いた。

 

 表紙に記されたタイトルを、社長が読み上げる。

 

「……株式公開買い付けの提案書?」

 

 その声には、困惑と、かすかな恐怖が滲んでいた。

 

「瀬戸内シーライオンの発行済み株式の過半数を、ウォーター・ベイン社が取得します。経営権の完全な移転。それが、第二世代塗料を提供するための唯一の条件です」

 

 社長の顔が、みるみる赤く染まった。

 

「買収だと……? この瀬戸内シーライオンを、吹けば飛ぶような学生ベンチャーが買い取ると言うのか!」

 

 テーブルを叩く音が会議室に響いた。社長の目に、三日前と同じ剥き出しの怒りが燃え上がる。

 

「ふざけるな! 我が社の時価総額がいくらか分かっているのか! お前たちにそんな金があるはずがない!」

 

「おっしゃる通りです。俺たちの手元の資金では、御社の株式を買い取ることはできません」

 

 陽太は、社長の怒りを正面から受け止めながら、静かに続けた。

 

「だから、御社の資産で、御社を買います」

 

 社長の怒声が、途切れた。

 

「……何を言っている?」

 

「凪」

 

 陽太の視線を受け、凪がタブレットを操作してプロジェクターに接続した。スクリーンに映し出されたのは、複雑な資金フロー図だった。

 

「買収スキームのご説明をします」

 

 凪の声は、氷のように冷たく、しかし一語一語が正確だった。

 

「レバレッジド・バイアウト──通称LBO。買収対象企業の資産と将来のキャッシュフローを担保にして、金融機関から買収資金を調達するスキームです」

 

 社長が、目を見開いた。

 

「つまり──買う会社そのものを担保にして、買収資金を借りるということか」

 

「はい。御社は深刻な技術的問題を抱えていますが、航路・船舶・港湾施設といった有形資産は健在です。さらに、瀬戸内海の物流シェア60%という市場支配力は、たとえ船底塗料が崩壊しても一朝一夕には失われません」

 

 凪はフロー図を指差しながら、淡々と続けた。

 

「ウォーター・ベイン社が買収のための特別目的会社(SPC)を設立し、このSPCが金融機関から買収資金を借り入れます。借入の担保は、買収後の瀬戸内シーライオンの資産と、第二世代塗料による再建後のキャッシュフロー予測です。買収が完了した後、SPCと瀬戸内シーライオンを合併させることで、借入金は瀬戸内シーライオンの負債として引き継がれます」

 

「馬鹿な……! それでは、我が社が自分自身の買収資金を背負わされることになるではないか!」

 

「その通りです」

 

 凪は微塵も表情を変えなかった。

 

「ですが、社長。御社が背負う選択肢は二つしかありません。一つは、LBOによる買収を受け入れ、第二世代塗料で会社を再建し、再建後の利益で借入金を返済していく道。もう一つは──」

 

「……全船舶が停止し、信用が崩壊し、倒産する道か」

 

 社長が、自ら答えた。

 

 会議室に、長い沈黙が降りた。

 

◇ ◇ ◇

 

「……なぜ、買収なんだ」

 

 社長の声から、怒りが消えていた。代わりに残ったのは、疲弊した老人の、純粋な疑問だった。

 

「技術供与のライセンス料で十分な利益が出るだろう。なぜわざわざ経営権まで取ろうとする。リスクが大きすぎるはずだ」

 

 陽太はしばらく黙った後、正直に答えた。

 

「ライセンス供与では、御社の経営陣が塗料を正しく運用する保証がないからです」

 

 その言葉に、社長の目が痛みに歪んだ。

 

「東雲さんは、第二世代の開発を訴えた。御社の経営陣は、それを握り潰した。技術を持っているだけでは意味がない。その技術を正しく使う経営判断がなければ、同じ悲劇が繰り返される。……だから俺は、経営権そのものを取る必要がある」

 

 社長は椅子の背にもたれ、天井を仰いだ。

 

「……東雲のことは、今でも悔いている。あいつの言うことを聞いていれば、こんなことにはならなかった。……だが、莫大な研究開発費を支払う決断が最後までできなかった」

 

 その声には、初めて、創業者としての本心が滲んでいた。

 

「……この会社は、俺の全てだった。海がめちゃくちゃになった時、瀬戸内の物流を守ろうとこの会社を作った。走って走って、気がつけば三千人の従業員とその家族を抱えていた。この会社が沈めば、全員が路頭に迷う。……それだけは、絶対に避けなければならない」

 

「社長。俺も同じ気持ちです」

 

 陽太は真っ直ぐに社長の目を見据えた。

 

「三千人を路頭に迷わせるつもりは、俺にもない。この買収の目的は、御社を潰すことじゃない。蘇らせることです。第二世代塗料で全船を修繕し、航路を守り、従業員の雇用を維持する。その上で、瀬戸内海の物流をさらに強くする」

 

「……口では何とでも言える」

 

「ええ。だから、提案書の第三章を読んでください。買収後の再建計画と、従業員の雇用保障条項が書いてあります。凪が一晩で組み上げた、完璧な再建スキームです」

 

 社長は提案書を手に取り、第三章を開いた。ページを繰る手が、かすかに震えていた。

 

◇ ◇ ◇

 

 読み終えるまでに、三十分以上かかった。

 

 その間、陽太と凪は一言も発しなかった。凪は腕を組んで目を閉じ、陽太は窓の外の港を眺めていた。社長の決断を急かす言葉は、一つも必要なかった。数字と事実が、全てを語っている。

 

 やがて、社長が提案書を閉じた。

 

「……一つ、条件を出させてくれ」

 

 社長の声は、もはや怒りも虚勢もなく、ただ静かだった。

 

「従業員のリストラはしないと、書面で約束してくれ。三千人全員の雇用を守ると」

 

「再建計画書の第十二条に、すでに記載してあります」

 

 凪が即座に答えた。

 

 社長はもう一度、提案書の該当ページを開いた。そして、長い長いため息をこぼした。

 

「……一週間。一週間だけ時間をくれ。臨時取締役会を招集し、株主への説明を準備する。……その上で、正式な回答を出す」

 

「お待ちします」

 

 陽太は立ち上がり、社長に手を差し出した。

 

 社長は数秒間、その手を見つめていた。やがて、海運帝国を築いた老人の大きな手が、底辺から這い上がってきた若い相場師の手を、静かに握り返した。

 

 それは握手というより、引き継ぎに近い手の交わし方だった。

 

◇ ◇ ◇

 

 本社ビルを出ると、港に停泊する瀬戸内シーライオンの巨大なフェリーが目に入った。

 

「……本当にやるのね」

 

 凪が、海風に髪を揺らしながら呟いた。その声は、いつもの冷徹な法務顧問ではなく、一人の少女のものだった。

 

「ああ」

 

 陽太は港を見渡した。青い海獅子のロゴを掲げた船が、午前の陽光を浴びて波間に揺れている。あの船の底で蠢くフジツボも、もう長くはない。

 

「凪。一週間後、この港の景色は変わる。……俺たちの手で」

 

 潮風が二人の間を吹き抜けた。




今後も頑張りますので、感想、評価、お気に入り等よろしくお願いします。
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