社長に約束した一週間。陽太たちは一秒たりとも無駄にしなかった。
凪はLBOのスキーム全体を法的に固める作業に没頭していた。特別目的会社の設立登記、買収資金の融資交渉用の資料、TOB(株式公開買い付け)の届出書類、合併後の再建計画書。全てを一週間で仕上げるには、文字通り眠る暇がなかった。
紬は第二世代塗料の量産プロトコルの最終調整に追われていた。ラボでの少量合成と、四十隻の船底を塗り替えるための工業的量産では、全く次元が違う。泥スライムの核から抽出した魔素含有ポリマーの精製工程を一鉄の工場ラインに組み込むための手順書を、昼夜を問わず書き続けていた。
一鉄とゲンさんは、増設したコレクターの生産能力をさらに引き上げるため、新たに探索者を雇入れ、入念な新人研修を行っていた。塗料の原料となるスライムの核の需要が、買収成立と同時に爆発的に増えることを見越しての先行投資だ。
そして陽太自身は、買収後の経営計画を組み上げていた。全四十隻の塗り替えスケジュール、航路を止めずに修繕を回すローテーション表、銀行への再建計画の提示資料、株主への説明書類。買った翌日から動かすために、全てが買収成立の前に完成していなければならない。
◇ ◇ ◇
五日目の夜。笹本から電話が入った。
『湊社長。臨時取締役会が本日開かれました。……結論から申し上げます。社長は、あなた方の提案を受け入れる方向で動いています』
陽太は受話器を握りしめたまま、凪に目で合図を送った。凪がタブレットにメモを取り始める。
『ただし、取締役会は紛糾しました。専務は最後まで反対し、独自の技術開発で対応すべきだと主張した。しかし……私が修繕費の最新データと、銀行からの追加の融資枠縮小の通達を提示したことで、空気が変わりました』
「笹本さん。あなたが資料を出したのか」
『……ええ。財務担当としての、最後の仕事です。社長は私の裏切りに気づいているかもしれません。ですが、もう構わない。三千人の従業員と、この会社の未来を守れるなら、私個人のことなどどうでもいい』
笹本の声は、五日前とは別人のように落ち着いていた。覚悟を決めた人間だけが持つ、静かな強さがあった。
「笹本さん。あなたの仕事は忘れない。買収が成立した後も、財務の責任者として残ってほしい」
長い沈黙の後、笹本が掠れた声で答えた。
『……ありがとうございます。湊社長』
◇ ◇ ◇
七日目。午前十時。
瀬戸内シーライオン本社ビル、取締役会議室。
今度は、五人の経営陣が全員揃っていた。だが、一週間前の初回とは空気が違う。専務は顔を伏せ、常務は諦観の色を隠さず、法務部長は手元の書類に目を落としている。財務担当の笹本だけが、真っ直ぐ前を向いていた。
そして、中央に座る大西社長。
老人の目からは、一週間前の怒りも、三日前の疲弊も消えていた。そこに残っていたのは、全てを受け入れた者だけが持つ、澄み切った静けさだった。
「湊社長。……一週間、考えた」
社長の声は低く、しかし揺るぎがなかった。
「結論から言おう。君たちの提案を、受け入れる」
会議室に、かすかなざわめきが起きた。専務が顔を歪め、何かを言いかけたが、社長が片手を上げて制した。
「ただし、三つの条件がある」
陽太は黙って頷いた。
「一つ。繰り返しになるが、従業員の雇用を全て守ること。これは絶対だ」
「再建計画書に明記しています」
「二つ。瀬戸内シーライオンの社名とブランドを維持すること。この名前には、三年間この海を守ってきた従業員たちの誇りが詰まっている」
「維持します。子会社化はしますが、社名は変えません」
「三つ」
社長は一拍の間を置き、陽太を真っ直ぐに見据えた。
「東雲を、連れ戻してくれ」
陽太の目が、わずかに見開かれた。
「あいつは天才だった。だが俺が、あいつの才能を殺した。……新しい船長が来るなら、あいつを呼び戻してやってくれ。それが、俺にできる最後の償いだ」
老人の目が、初めて潤んだ。
陽太は立ち上がり、深く頭を下げた。
「お約束します。東雲さんには、必ず声をかけます」
社長は頷き、卓上のペンを手に取った。提案書の最終ページに、創業者としての最後の署名を刻む。
ペンの音だけが、静まり返った会議室に響いた。
◇ ◇ ◇
合意から四十八時間後。
尾道特区のプレスセンターに、特区内外のメディアが詰めかけていた。瀬戸内シーライオンに関する重大発表があるという告知が、前日の夕方に流れたのだ。
壇上に設置されたマイクの前に、陽太が立った。
仕立ての良いダークスーツ。まだ二十二歳の若き経営者が、百人を超える記者とカメラの前に、初めて姿を晒す。
「本日、株式会社ウォーター・ベインは、瀬戸内シーライオン株式会社の発行済み株式の過半数を取得するための、株式公開買い付け──TOBを実施することを発表いたします」
会場がどよめいた。
フラッシュが一斉に焚かれ、記者たちが我先にと手を挙げる。瀬戸内海最大の海運企業が、名前も知らない小さなベンチャーに買収されるという前代未聞のニュースに、会場は騒然となった。
「ウォーター・ベインとは何者だ!」
「買収資金はどこから調達するんだ!」
「瀬戸内シーライオンの経営に何があったんだ!」
矢のように飛んでくる質問を、陽太は一つも遮らなかった。壇上で数秒だけ沈黙し、記者たちの喧騒が自然に収まるのを待ってから、静かに口を開いた。
「順を追ってご説明します」
プロジェクターが起動し、スクリーンに資料が映し出された。第二世代塗料の性能データ、全船舶の修繕計画、航路維持のローテーション表、従業員の雇用保障、銀行への再建計画の概要。
陽太は一枚ずつ、正確に、過不足なく説明していった。技術的な欠陥については「初代塗料の経年劣化への対策として第二世代を開発した」という表現にとどめ、経営陣の背信や東雲の悲劇には一切触れなかった。
(告発はしない。壊すために来たんじゃない。蘇らせるために来たんだ)
説明が終わると、会場は静まり返っていた。やがて、ベテランの経済記者が手を挙げた。
「湊社長。失礼ですが、あなたはまだ大学生だと伺っています。なぜ、あなたのような若い経営者が、瀬戸内海最大の海運企業を買収しようと?」
陽太はマイクを握り直し、一拍だけ間を置いた。
「俺が底辺探索者だった頃、毎日この港からフェリーに乗って大学に通っていました。あのフェリーは、瀬戸内シーライオンの船です。……この海を走る船が止まれば、特区の物流が止まる。物流が止まれば、薬も食料も届かなくなる」
陽太の声が、会場の隅々にまで静かに染み渡った。
「三千人の従業員とその家族。そして、この船に乗って生活している全ての人たちの日常を守るために、俺はここに立っています」
フラッシュが、再び一斉に瞬いた。
◇ ◇ ◇
記者会見を終え、プレスセンターの裏口から出ると、凪が壁に背を預けて待っていた。
「……見たわよ。初めて表舞台に立ったにしては、堂々としてたわね」
「緊張で手が震えてた。バレなかったか?」
「バレてないわ。……多分ね」
凪が小さく笑い、陽太の隣に並んだ。
二人の前に、尾道港が広がっている。午後の陽光を浴びた瀬戸内海は、穏やかに凪いでいた。港に停泊する瀬戸内シーライオンのフェリーが、出航のドラを鳴らす。
「あの船も、もうすぐ俺たちの船になる」
「……泥スライムのゴミ拾いから始まって、気がつけば海運会社の買収。……純喫茶でタッパーを開けたあの日から、まだ一年も経っていないのよ。あなたならできると思っていたけど、本当にどこまで行く気なの」
陽太は答えなかった。ただ、出航していくフェリーの航跡を、静かに見つめていた。
青い海獅子のロゴを掲げた船が、瀬戸内海の沖へと進んでいく。その船底に張り付いていた無数のフジツボも、もう長くはない。
海が、変わろうとしていた。
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