TOB発表から三週間後。
株式公開買い付けは、成立した。
大西社長が保有していた創業者一族の株式と、笹本ら経営陣の協力によって取りまとめられた安定株主の株式。それらが一斉にウォーター・ベインの特別目的会社へと売却され、買い付け予定数を大きく上回る応募が集まった。
株式会社ウォーター・ベインは、瀬戸内シーライオン株式会社の発行済み株式の過半数を取得。経営権は、正式に移転した。
尾道港を見下ろす瀬戸内シーライオン本社ビルの社長室で、陽太は窓辺に立っていた。かつて大西社長が座っていた、革張りの社長椅子。陽太はまだ、そこに腰を下ろしていなかった。
「気が引ける?」
ソファに腰掛けた凪が、書類から顔を上げて尋ねた。
「いや。座る前に、やることがあるだけだ」
陽太は窓の外の港を見つめた。四十隻のフェリーと貨物船。三千人の従業員。瀬戸内海の物流の六割。それらすべてが、今、陽太の手の中にある。だが、買収はゴールではない。
(買った翌日から動かす。……今日が、その翌日だ)
◇ ◇ ◇
その日の午後。瀬戸内シーライオンの本社一階ホールに、全部署の管理職と、各港湾の責任者が集められた。
壇上に立つ若い新社長を、数百人の社員たちが不安げな目で見つめている。突然現れた学生ベンチャーに会社を買われ、これから自分たちがどうなるのか、誰も分かっていなかった。
リストラされるのではないか。給料を下げられるのではないか。社名が消えるのではないか。会場の空気は、疑念と警戒に満ちていた。
「初めまして。ウォーター・ベイン代表、湊陽太です」
陽太はマイクを握り、ざわめく社員たちを静かに見渡した。
「皆さんの中には、不安を抱えている方も多いと思います。だから、最初に三つ、約束します」
陽太は指を一本立てた。
「一つ。リストラは一切しません。全従業員の雇用を守ります。給与体系も維持します」
会場がどよめいた。
「二つ。瀬戸内シーライオンの社名は変えません。この名前と、皆さんが三年間積み上げてきた誇りは、そのまま受け継ぎます」
ざわめきが、戸惑いの色を帯びる。買収した企業が、なぜここまで現経営を尊重するのか。社員たちには理解できなかった。
「三つ。今、この会社が抱えている問題を、俺は包み隠さず話します」
陽太の声のトーンが変わった。会場が静まり返る。
「皆さんの中で、最近、修繕に入る船が異常に増えていることに気づいていた人は多いはずだ。整備士の皆さんは、船底の塗料が説明のつかない速度で剥がれていくのを、その目で見てきたでしょう」
会場の後方、作業着姿の整備士たちが、はっと顔を上げた。
「あの塗料は、魔素を含んだ海に適応した未知のフジツボに食われています。このまま放置すれば、一年以内にこの会社の全船が止まる。それが、この会社が抱えていた本当の病です」
社員たちが息を呑んだ。薄々感じていた不安の正体を、新社長が初めて言葉にしたのだ。
「だが、安心してください。治療薬は、もう完成しています」
陽太は背後のスクリーンに、第二世代塗料の性能データを映し出した。
「フジツボに食われない、自己修復する新しい船底塗料です。今日から、全四十隻の塗り替えを始めます。航路は一日も止めません。修繕のローテーションは、すでに組んであります」
陽太はスクリーンを切り替えた。全船舶の塗り替えスケジュールと、航路維持の代替計画が、緻密に組まれた一枚の表として映し出される。
「俺はこの会社を、潰すために買ったんじゃない。沈みかけたこの船を、もう一度、瀬戸内一の船にするために買った。……力を貸してください」
陽太は深く頭を下げた。
数百人の社員たちは、しばらく言葉を失っていた。買収者が、自分たちに頭を下げている。リストラもせず、社名も守り、問題を正直に明かし、解決策まで用意して。
最初に拍手をしたのは、後方の整備士の一人だった。
それが、波のように広がっていく。やがてホール全体が、割れんばかりの拍手で満たされた。
◇ ◇ ◇
全社集会から数日後。陽太は再び、あの島へ向かう連絡船に乗っていた。
今回は、一人ではなかった。隣には紬がいる。東雲のデータを引き継ぎ、第二世代塗料を完成させた張本人だ。
「……緊張します。私、東雲さんの設計を勝手に完成させちゃったわけで……怒られないでしょうか」
紬が白衣の裾を握りしめながら呟いた。今日はラボ用の白衣ではなく、きちんとした私服のはずだったが、結局白衣を着てきてしまっていた。
「怒られないさ。むしろ、礼を言われる」
陽太は穏やかに答えた。
島の桟橋に着くと、丘の上の一軒家から、東雲が降りてきていた。連絡船の到着を、待っていたかのように。
「……来ると思っていたよ」
東雲は以前より、顔色が良くなっていた。無精髭は剃られ、目の下の隈も薄くなっている。陽太が初めて訪ねた時の、酒に逃げる男の影は、もうなかった。
「東雲さん。報告に来ました。瀬戸内シーライオンは、ウォーター・ベインが買収しました。経営陣は刷新されます。そして──」
陽太は隣の紬を手で示した。
「あなたの第二世代塗料が、完成しました。彼女が、完成させてくれた」
東雲の視線が、紬に移る。紬は緊張した面持ちで、深く頭を下げた。
「は、初めまして。五十嵐紬です。東雲さんの設計データを……その、勝手に引き継いで、第二世代塗料を完成させました。あの、無断で、本当にすみません……!」
「……君が」
東雲は紬の前に歩み寄り、しばらくその顔を見つめた。やがて、掠れた声で問うた。
「俺の劣化予測モデルの、第三項。魔素の再結合反応の活性化エネルギー。……あれを、どう解いた」
紬の目が、ぱっと輝いた。緊張が吹き飛び、研究者の顔になる。
「あれは、解いたんじゃないんです。逆転させたんです。東雲さんは魔素を燃料として消費する設計でしたけど、私は魔素を分子鎖に先に固定して、鎧にした。だから活性化エネルギーの壁を越える必要がなくて──」
「……魔素を、鎧に」
東雲が、目を見開いた。
「フジツボが食いたがる魔素を、塗料が先に抱え込む……。攻撃対象を、防具に変える。……そんな発想が、あったのか」
東雲の声が震えた。三年間、自分があと一歩のところで届かなかった答え。それを、目の前の若い研究者が、全く別の角度から解いてみせた。
「君は……天才だ」
「い、いえ! 東雲さんの設計思想があったからです! あの土台がなければ、私は何も──」
「いや」
東雲は首を横に振り、初めて、穏やかに微笑んだ。
「俺が三年かけて辿り着けなかった場所に、君は辿り着いた。それは、才能だ。……誇っていい」
紬の目に、じわりと涙が滲んだ。
◇ ◇ ◇
丘の上の家に招かれ、三人は海を見下ろす縁側に並んだ。
「東雲さん」
陽太が、改まった声で切り出した。
「あなたに、戻ってきてほしい。瀬戸内シーライオンの、技術開発の責任者として」
東雲の表情が、こわばった。
「……俺は、あの会社を捨てて逃げた人間だ。今さら、どの面下げて戻れる」
「逃げたんじゃない。あなたは、潰されたんです」
陽太の声に、迷いはなかった。
「あなたを潰した経営陣は、もういない。あなたの警告を握り潰した体制は、もう終わった。これからの瀬戸内シーライオンは、技術者の声が正しく届く会社にします。……それを、あなたに見届けてほしい」
東雲は、しばらく黙って海を見つめていた。
「……大西さんは、なんと」
「あなたを連れ戻してくれと。それが、自分にできる最後の償いだと、そう言って頭を下げました」
東雲の目が、潤んだ。
かつて自分の警告を黙殺した男。だが、その男もまた、会社と従業員を守ろうと必死だった一人の経営者だった。その男が、最後に自分の名を口にした。
「……あの人らしいな。最後の最後で、不器用に頭を下げるところが」
東雲は立ち上がり、海に向かって大きく伸びをした。三年分の澱を、潮風に流すように。
「分かった。戻ろう。……ただし条件がある」
「何でしょう」
東雲は紬を見て、悪戯っぽく笑った。
「この五十嵐くんと、共同で研究をさせてくれ。第二世代塗料の、その先を作る。魔喰いフジツボの次に、どんな敵が現れても負けない、本物の半永久塗料を」
紬の顔が、ぱっと輝いた。
「ぜひ! お願いします! 東雲さんと一緒に研究できるなんて、夢みたいです!」
「ふっ。……じゃあ、契約成立だ」
東雲が差し出した手を、紬が両手で握り返す。
その光景を、陽太は静かに見守っていた。逃げた技術者と、見出された天才。二つの才能が、今、一つの未来に向かって繋がった。
◇ ◇ ◇
帰りの連絡船。デッキに立つ三人の前に、夕暮れの瀬戸内海が広がっていた。
遠くに、瀬戸内シーライオンのフェリーが航行している。その船底は、まだ初代の塗料のままだ。だが、もうすぐ、第二世代の塗料に塗り替えられる。フジツボに食われない、自己修復する、新しい鎧に。
「東雲さん。あの船が全部塗り替わったら、瀬戸内海はどう変わりますか」
紬の問いに、東雲は目を細めた。
「……船が、止まらなくなる。修繕で港に縛られることも、フジツボに怯えることもない。瀬戸内の物流は、もっと速く、もっと遠くへ広がる。……それは、俺が三年前に夢見た景色だ」
陽太は、その横顔を見つめた。一度は壊れかけた男の目に、再び技術者の光が灯っている。
連絡船が、尾道へ向かって進んでいく。
その船底もまた、いつか、新しい塗料に塗り替えられるのだろう。
(第2章・了)
第2章はこれにて完結です。
拙い小説にお付き合いいただきありがとうございました。
妹を出してあげられなかったので、次はショートストーリーを投稿予定です。
今後も頑張りますので、感想・評価・お気に入り等よろしくお願いいたします。