IR情報で読み解くダンジョン経済学   作:カトーユキヒロ

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ショートストーリー4,5

湯けむりの向こう

 

 引っ越しの朝、陽太は何もなくなった借家の真ん中に立っていた。

 

 三年、暮らした家だった。

 

 大災害の後、両親が残してくれたお金を失い、転がり込んだ古い平屋。畳はささくれ、雨漏りの染みが天井に広がり、壁の隙間からは冬になると潮風が容赦なく吹き込んだ。

 

 それでも、この家には井戸があった。

 

 12.11の地殻変動を生き延びた、古い掘り抜き井戸。水量は多くなかったが、煮炊きや洗い物には使えた。たまには、小春を風呂に入れてやることもできた。災害前の水道水のような綺麗な水ではなかったが、魔素の影響がほとんどない水というだけでありがたかった。

 

 だが、小春の体調がさらに悪化した頃から、追い打ちをかけるように井戸の水は濁り始めた。

 

 梅雨という季節が失われ、日本の水資源が痩せていく中で、この家の井戸も少しずつ枯れていった。最初は濁り、やがて泥のような色になり、そして数ヶ月前、ついに一滴も出なくなった。

 

 井戸は完全に枯れた。

 

 だが、陽太は千載一遇のチャンスをものにし、東朋マテリアルとの取引を軌道に乗せ、底辺探索者から脱却した。生活用水を買い、小春の飲み水は陽太が泥スライムの核で精製し、体を洗うために銭湯に通うことができた。

 

 陽太はギリギリで間に合ったのだ。

 

 そして、その不便な暮らしが、今日で終わる。

 

「お兄ちゃーん! トラック来たよー!」

 

 玄関先から、小春の弾んだ声が響いた。陽太はがらんとした部屋をもう一度見渡し、小さく頭を下げた。

 

(世話になったな)

 

 雨漏りも、隙間風も、枯れた井戸も。惨めな日々の象徴だったこの家は、それでも、自分と小春が生き延びた場所だった。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 新しい住まいは、尾道特区の中心部に建つマンションの一室だった。

 

 オートロックのエントランス。二十四時間対応の管理人。防犯カメラ。そして各戸には、青魔法によって供給される低濃度魔素水のタンクが備え付けられている。蛇口をひねれば、生活用水がいつでも出てくる。井戸を失った今の暮らしでは、それだけで夢のような設備だった。

 

 だが、このマンションの本当の目玉は、別にあった。

 

「お兄ちゃん……ここ、まさか……」

 

 小春が、おそるおそる、ある一室のドアを開けた。

 

 浴室だった。

 

 タイル張りの清潔な床。新品の浴槽。蛇口からは、ひねるだけで低濃度魔素水が出てくる。各戸に専用の風呂がある——それは、水資源が枯渇したこの世界では、限られた富裕層しか持てない、最高の贅沢だった。

 

「お風呂……。おうちに、お風呂が、ある……」

 

 小春は、浴槽の縁にそっと手を触れた。その手が、かすかに震えている。

 

「毎日……入っても、いいの……?」

 

 陽太の胸がちくりと痛んだ。

 

 小春は、昔から綺麗好きな子だった。体を清潔にしているのが好きで、髪を梳かすのが好きで、洗い立ての服に袖を通すのが好きだった。母に似たのだろう。災害前は、毎晩きちんと湯船に浸かって、上機嫌で歌を歌っていた。

 

 だが、災害がその全てを奪った。

 

 井戸があった頃も、水は貴重だった。風呂に入れるのはせいぜい数日に一度。井戸が枯れてからは、銭湯に通うしかなかった。それも、毎日通えるほどの余裕はない。小春は体を拭くだけで何日も我慢し、それでも一度も文句を言わなかった。お兄ちゃんが頑張っているのを、知っていたから。

 

 その小春が、今、自分の家の風呂を前にして、震えている。

 

「ああ。毎日入っていい。好きなだけ、ゆっくり浸かれ」

 

 小春の目に、みるみる涙が盛り上がった。

 

「……っ、やった……。毎日、お風呂入れる……」

 

 小春は、浴槽を抱きしめるようにして、ぽろぽろと涙をこぼした。新しい部屋でも、海の見える窓でもなく、風呂のために泣く妹。その姿が、陽太には何よりも、これまでの我慢の深さを物語っているように見えた。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 その夜。小春は、さっそく長い時間をかけて風呂に入った。

 

 浴室から、小春の鼻歌が聞こえてくる。災害前、毎晩湯船で歌っていたあの歌だ。陽太は記憶していなかったが、きっと母が教えた歌なのだろう。久しぶりに聞く妹の鼻歌に、陽太はリビングのソファで、静かに耳を傾けていた。

 

 実を言えば、このマンションを選んだ最大の理由は、風呂でも設備でもなかった。セキュリティだ。

 

 瀬戸内シーライオンの買収以降、陽太は特区の中で一躍有名人になった。学生ベンチャーが海運王を買収したというニュースは、良くも悪くも注目を集めた。中には、陽太を快く思わない人間もいる。買収で経営から外された旧経営陣の関係者。陽太に潰された既得権益の連中。逆恨みの矛先が、小春に向かわないとも限らない。

 

 あの井戸の枯れた借家は、鍵一つで簡単に入れる無防備な家だった。陽太がダンジョンや会社に出ている間、小春は一人きりであの家にいた。今思えば、よく無事だったと思う。

 

 オートロック、防犯カメラ、二十四時間の管理人。それらは全て、小春を守るための盾だった。

 

(もう、あの子を危険な場所には置かない)

 

 陽太は荷物の中から、一枚の写真立てを取り出した。両親の遺影だ。借家の小さな棚に飾っていたものを、丁寧に持ってきた。

 

 陽太は写真立てを、リビングの一番見晴らしの良い棚に置いた。窓の外の海が、よく見える場所に。

 

「父さん、母さん。引っ越したよ」

 

 陽太は遺影に向かって、静かに語りかけた。

 

「鍵をかければ安全だ。生活の水も買いに行かなくていい。……そして、家に風呂がある。小春が毎日入れるんだ。あいつ、風呂を見て泣いてたよ。母さんに似て、綺麗好きだからな」

 

 遺影の中の両親は、変わらず穏やかに微笑んでいる。

 

 あの日、土砂崩れに全てを奪われてから、陽太はただ生き延びることだけを考えてきた。小春を死なせないために。明日を迎えるために。だが今、ようやく生きるから暮らすへと、一歩を踏み出せた気がした。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 しばらくして、湯気を立てた小春が、ほかほかの顔で浴室から出てきた。

 

 濡れた髪をタオルで包み、頬を上気させている。何日分もの我慢を取り戻すように、たっぷりと湯に浸かってきたのだろう。

 

「お兄ちゃん、お風呂、すっごく気持ちよかった……」

 

 小春は、ふわふわとした足取りでリビングにやってくると、陽太の隣にすとんと座った。石鹸の良い匂いがする。

 

「あのね、お兄ちゃん」

 

「ん?」

 

「わたし、ずっと我慢してたの。お風呂入りたいなあって。でも、お水が大変なの知ってたから、言えなかった」

 

 小春は、膝を抱えて、少し照れたように笑った。

 

「お兄ちゃん、毎日泥だらけで帰ってきて、すごく疲れてたでしょ。わたしのお風呂のために、もっと頑張らせちゃうの嫌だったの。だから、平気なふりしてた」

 

 陽太は、言葉に詰まった。

 

 知らなかった。いや、薄々気づいていたが、見ないようにしていた。小春が我慢していることを。風呂が好きな子がそれを口に出さずに耐えていたことを。

 

「……気づいてやれなくて、悪かったな」

 

「ううん! 違うの!」

 

 小春は、慌てて首を横に振った。

 

「責めてるんじゃないよ。ありがとうって言いたいの。お兄ちゃんが頑張ってくれたから、こんないいおうちに住めて、毎日お風呂に入れるんだもん。……お兄ちゃんのおかげだよ」

 

 小春は、にっこりと笑った。タオルから覗く濡れた髪が、リビングの灯りに艶やかに光っている。

 

「これからは、お兄ちゃんも毎日お風呂入ってね。泥、いっぱい落として、ゆっくり休んで。……わたし、お兄ちゃんに元気でいてほしいから」

 

 その言葉に、陽太は思わず小春の頭にぽんと手を置いた。

 

「……ああ。そうするよ」

 

 ◇ ◇ ◇

 

 夜が更け、小春はベッドで眠りについた。風呂で温まった体はすぐに深い眠りに落ちたようだった。寝室を覗くと安らかな寝顔がそこにあった。

 

 陽太は自分も久しぶりにゆっくりと湯に浸かった。

 

 温かい湯が三年分の疲れをじんわりと溶かしていく。ダンジョンの泥も相場師としての緊張も経営者としての重圧も、すべてが湯気の向こうに薄れていくようだった。

 

(……こんなに気持ちのいいものだったか、風呂ってのは)

 

 目を閉じると小春の鼻歌がまだ耳に残っていた。母が歌っていたというあの歌。

 

 失われたものは多い。両親も、故郷も、当たり前だった日々も。

 

 だが、こうして一つずつ取り戻していける。妹の笑顔を。穏やかな夜を。そして、湯船で歌う鼻歌を。

 

 窓の外では夜の海に浮かぶ船の灯りが、静かに揺れていた。

 

 

田中の一日

 

 午前六時半。田中健太は、目覚まし時計が鳴る前に目を覚ました。

 

 六畳一間のアパート。家具は少ないが清潔だ。壁には、先月のシフト表と優良従業員賞の表彰状が画鋲で留めてある。

 

 田中はスマホの銀行アプリを開いた。日に日に増えていく口座残高を、朝食前に眺めるのが習慣になっていた。

 

 まだ、信じられないのだ。毎日決まった額が、自分の口座に振り込まれるということが。

 

 5ヶ月前まで、田中は底辺探索者だった。

 

 Fランク。ハズレアビリティ採取(ピッキング)。戦闘の役に立たない、ただ落ちている物がなんとなく分かるだけのスキル。まともなパーティには入れてもらえず、ダンジョンの浅層で薬草やゴミ素材を拾い集めて日銭を稼ぐ毎日だった。稼げない日は、何も食べられなかった。怪我をすれば、治療費で借金が増えた。明日生きられる保証など、どこにもなかった。

 

 それが今は、毎朝同じ時間に起きて、同じ職場に通う。

 

 田中は冷蔵庫から卵を取り出し、目玉焼きを焼いた。本物の卵だ。5ヶ月前には、考えられない贅沢だった。

 

 ◇ ◇ ◇

 午前八時。向島ダンジョンの浅層、スライム集核装置。

 

 すり鉢状の巨大な構造物の周りに、作業員たちが集まっていた。全員、田中と同じ、元・底辺探索者だ。

 

「おはようございまーす」

 

「おう、健太。今日も早いな」

 

 声をかけてきたのは、班長の佐々木だった。田中より少し年上の、元Eランク探索者。今は田中たち採取班の取りまとめ役をしている。

 

「健太、今日は新人の指導も頼むぞ。お前、教えるの上手いからな」

 

「了解です。頑張ります!」

 

 田中はヘルメットと作業手袋を装着し、ツールキットを腰に下げた。固定用のトング、薄刃のヘラ、核を受け止める受け皿。一年前は震える手で握っていた工具が、今では体の一部のように馴染んでいる。

 

 始業のベルが鳴った。

 

 集核装置の導水路から魔素水が流れ込み、すり鉢の内壁を伝って落ちていく。しばらくすると、暗闇の奥から泥スライムが匂いに引かれて現れ、螺旋状の溝をゆるゆると滑り落ちてくる。

 

 ポトン、ポトンと、スライムが底のトラップに落ちていく。

 

「よし、始めよう。手本を見せるから、俺の作業をよく見てて」

 

 田中は新人に声をかけてから、手際よくトラップに近づき、固定されたスライムにトングを当てた。ヘラを体組織と核の境界に滑り込ませ、すっと一息で切り離す。傷一つない核が受け皿にころんと転がった。

 

「田中さん、速いっすね……」

 

 隣で見ていた新人が感嘆の声を上げた。今月入ったばかりの元Fランクの青年だ。5ヶ月前の田中と同じ、おどおどした目をしている。

 

「最初はみんなそうだよ。俺も5ヶ月前は、初日に核を割って真っ青になってた」

 

「えっ、田中さんが?」

 

「ああ。しかも、社長の前で。でも、社長は怒らなかった。気にするな次だって、それだけ」

 

 田中は、あの日のことを思い出して、小さく笑った。

 

「ヘラはもっと寝かせて。力を入れちゃダメだ。核は、自分から離れようとするんだ。……ほら、そうそう。落ち着いてやればできる」

 

 新人が、おそるおそるヘラを入れる。ヘラが核に触れそうになったが、無傷の核が取れた。

 

「で、できた……!」

 

「上出来だ。最初でそれならすぐ慣れるよ」

 

 新人の顔がぱっと輝いた。その表情に田中は5ヶ月前の自分を重ねた。初めて合格だと言われた、あの日の自分を。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 正午。作業場の隅の休憩スペースで、作業員たちが弁当を広げていた。

 

「なあ健太聞いたか? 来月から新塗料用の核の採取ラインが増えるって話」

 

 佐々木が、お茶をすすりながら言った。

 

「はい、聞きました。瀬戸内シーライオンの船、全部塗り替えるんでしょ? すごい量の核が要るって」

 

「そうそう。だから採取班もっと人を増やすらしい。給料も上がるって噂だぜ」

 

 作業員たちが、おお、と沸いた。

 

「しかしまあ、信じられねえよなあ」

 

 古株の作業員がしみじみと呟いた。

 

「俺たちみたいなギルドに見捨てられた底辺が拾ったスライムの核が、まさか海運王様の船を救うとはなあ。世の中分からねえもんだ」

 

「ほんとっすよ。俺なんか、5ヶ月前はダンジョンで野垂れ死ぬと思ってましたもん」

 

 田中が笑うと、作業員たちもつられて笑った。

 

 ここにいる全員がかつて使い捨ての駒だった。ギルドの酒場で嘲笑われ、命を賭けて小銭を稼ぎ、明日をも知れぬ日々を生きてきた。それが今では、安全が保障された職場で働き、昼飯を食いながら来月の給料の話で笑い合っている。

 

(社長は、俺たちを人間に戻してくれた)

 

 田中は弁当の卵焼きを口に運びながら、そう思った。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 午後五時。終業のベルが鳴った。

 

「お疲れさまでーす」

 

「お疲れ。気をつけて帰れよ」

 

 田中はツールキットを片付け、作業日報を提出した。今日の採取数、個人記録を更新。歩留まりも班でトップだった。

 

 ダンジョンの出口へ向かう途中、田中はふと立ち止まり、集核装置を振り返った。

 

 暗闇の中、すり鉢状の巨大な装置が静かに鎮座している。導水路への水は止まり、スライムの発生が抑えられている。今後、人を増やし稼働時間を延ばせば夜勤もあるだろうが、今は静かなものだ。

 

 かつてこの場所は、田中のような底辺探索者が、命を賭けてスライムを一匹ずつ狩る戦場だった。それが今は、誰も死なない安全な工場になっている。

 

(明日も、ここに来られる)

 

 その当たり前が、田中にはたまらなく嬉しかった。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 その夜。特区の片隅にある、小さな大衆居酒屋。

 

「お疲れさーん! 今日もよく働いた! かんぱーい!」

 

 佐々木の音頭で、採取班の面々がジョッキを打ち合わせた。田中も、よく冷えた発泡酒を一口呷る。

 

 仕事終わりの一杯。これもまた、5ヶ月前には味わえなかった贅沢だった。あの頃は、酒を飲む金があるなら、その分を日々の食事と水、そして借金返済に回さなければならなかった。

 

「いやー、今日の新人もなんとか戦力になりそうだな。やっぱり指導係を健太に任せて正解だったわ」

 

「いやいや、新人の筋が良かったんすよ。まあ俺、教えるの好きなんで、任せてくださいよ。なんか、昔の自分見てるみたいで」

 

「分かるわ。俺たちみんな、最初はあんな感じだったもんな」

 

 串焼きをつまみ、酒を酌み交わしながら、男たちは笑い合った。仕事の話、新塗料の話、来月のシフトの話。とりとめのない会話が、温かく流れていく。

 

「なあ、健太」

 

 ほろ酔いの佐々木が、ふと真顔になって言った。

 

「お前、貯金してるか?」

 

「してますよ。借金返し終わったんで、毎月ちょっとずつですけど」

 

「えらいな。何か、目標でもあるのか?」

 

 田中は、少し照れたように頭を掻いた。

 

「……実は、別の特区に母親がいるんです。災害の時に離れ離れになって、ずっと連絡取れてなかったんですけど、最近やっと生きてるって分かって」

 

 田中の声が少し湿った。

 

「いつか、呼び寄せたいんです。ちゃんとした部屋を借りて、母親と一緒に暮らしたい。底辺探索者のままだったら、絶対に無理だった夢です。でも今なら……ちゃんと給料が入る今なら、いつか叶えられるかもって」

 

 佐々木は、しばらく田中を見つめた後、その肩をぽんと叩いた。

 

「叶うさ。お前なら。……いや、俺たちなら、な」

 

 男たちは、もう一度ジョッキを合わせた。

 

 かつて未来を奪われた者たちが、今、それぞれの未来を語り合っている。ささやかで、しかし確かな明日への希望を。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 居酒屋を出ると夜風が心地よかった。

 

 ほろ酔いの田中は、上機嫌で夜道を歩いた。空を見上げると、特区の灯りの向こうにいくつかの星が瞬いている。

 

 ふと、港の方に目をやった。

 

 夜の海に、瀬戸内シーライオンのフェリーの灯りが見える。あの船の底には、自分たちが採取した核から作られた塗料が塗られているのだ。

 

 自分が拾ったゴミみたいなスライムの核が、巡り巡ってあの大きな船を守っている。

 

(俺の仕事は、ちゃんと誰かの役に立ってる)

 

 その実感が、酒よりも温かく田中の胸を満たした。

 

「……よし。明日も頑張るか」

 

 田中は誰にともなく呟いて、軽い足取りでアパートへの道を歩いていった。

 

 夜の海の上で、船の灯りが静かに揺れていた。




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