IR情報で読み解くダンジョン経済学   作:カトーユキヒロ

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ショートストーリー6,7

海を渡した男

 

 大西洋一が、瀬戸内シーライオンの本社に足を運ぶのは、これが最後だった。

 

 経営権の移転に伴う事務手続きは、すべて完了している。今日は、私物を引き取りに来ただけだ。

 

 長年座り続けた社長室の革張りの椅子に、もう自分の居場所はない。大西は段ボール箱を抱え、最後にもう一度、窓の外の尾道港を見下ろした。

 

 四十隻の船。三千人の従業員。瀬戸内海の物流の六割。

 

 その全てを、自分は若き相場師に明け渡した。

 

(……負けた、な)

 

 悔しさがないと言えば、嘘になる。だが不思議と、心は穏やかだった。会社は潰れなかった。従業員は守られた。社名も残った。そして、自分が殺しかけた技術者の夢が、別の若者たちの手で蘇った。

 

 経営者として敗れた。だが、守りたかったものは、守られた。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 本社を出た大西は、まっすぐ家に帰る気になれず、港へ足を向けた。

 

 桟橋のベンチに腰を下ろし、出入りする自社のフェリーを眺める。いや──もう自社ではない。今日この日から、あの船は他人のものだ。

 

 だが、船は変わらず、瀬戸内海を行き来していた。乗客を乗せ、貨物を運び、人々の暮らしを支えている。経営者が誰であろうと、船は止まらない。それが、大西には何よりの救いだった。

 

 ふと、隣に人の気配がした。

 

「……隣、いいですか」

 

 顔を上げると、湊陽太が立っていた。スーツ姿ではなく、学生らしい砕けた格好で。

 

「君か。……どうぞ」

 

 陽太は、大西の隣に腰を下ろした。二人はしばらく、無言で港を眺めていた。

 

「私物の引き取り、今日でしたか」

 

「ああ。これで、本当に終わりだ」

 

 大西は、膝の上の段ボール箱に目を落とした。中身は、創業以来の写真や、表彰状、古い航海日誌。一つの会社を築き上げた、三年間の記録だ。

 

「愚かだと思うか? 私を」

 

 大西が、ぽつりと尋ねた。陽太は、静かに首を横に振った。

 

「いいえ。あなたは、立派な経営者でした」

 

「世辞はいい。私は、技術者の警告を握り潰し、会社を沈めかけた無知蒙昧な老人だ」

 

 大西の声には、自嘲が滲んでいた。陽太は、港を見つめたまま答えた。

 

「確かに、東雲さんの件は間違いでした。それは事実です。……でも、あなたがいなければ、そもそもこの会社は存在しなかった」

 

 ◇ ◇ ◇

 

「12.11の直後、海運は壊滅状態でした」

 

 陽太は、調べ上げた瀬戸内シーライオンの歴史を、静かに語り始めた。

 

「海獣が暴れ、石油が途絶え、船は腐っていく。誰もが海を諦めかけた。その中で、あなたは諦めなかった。資金繰りに苦しむ同業を吸収し、東雲さんの塗料に賭けて、瀬戸内海の物流を一人で立て直した」

 

 大西は、黙って聞いていた。

 

「あなたが船を動かし続けたから、特区に薬が届いた。食料が届いた。多くの人が、生き延びた。……俺の妹も、その一人です」

 

 大西が、陽太を見た。

 

「君の、妹?」

 

「魔素不適応症で、体が弱いんです。薬と純水が欠かせない。その薬も水も、あなたの船が運んできたものだった。あなたが海を諦めていたら、俺の妹は……生きていなかったかもしれない」

 

 陽太は、まっすぐに大西を見据えた。

 

「あなたは、海を見捨てなかった。その功績は、東雲さんの件があっても、消えはしません」

 

 大西は、しばらく言葉を失っていた。

 

 敗れた老人を慰めるための言葉ではない。陽太は、調べ尽くした事実として、淡々と大西の功績を語っている。それが、かえって大西の胸に深く沁みた。

 

「……そうか。君の妹を、私の船が」

 

 大西は、港を行き交うフェリーを見つめた。あの船が運んだ薬で、一人の少女が生き延びた。三年間、必死に船を動かし続けた日々は、確かに、誰かの命を繋いでいたのだ。

 

 老人の目尻に、光るものがあった。

 

 ◇ ◇ ◇

 

「大西さん。一つ、お願いがあります」

 

 陽太が、改まった声で言った。

 

「瀬戸内シーライオンの、特別顧問に就任していただけませんか」

 

 大西が、驚いた顔で陽太を見た。

 

「……顧問? 私が?」

 

「ええ。俺は経営の素人です。財務分析はできても、現場の海を知らない。どの航路が荒れやすいか、どの港に気難しい荷主がいるか、季節ごとの潮の流れがどう運航に影響するか。……三年間この海を差配したあなたの知恵が、どうしても必要なんです」

 

 大西は、すぐには答えなかった。

 

「……私を、追い出したのは君だぞ」

 

「経営から退いていただいたのは事実です。あなたの判断には、致命的な誤りがあった。それは譲れません。……でも、あなたの経験と知識は、本物だ。それを捨てるのは、あまりにもったいない」

 

 陽太は、深く頭を下げた。

 

「経営はやり直しがききません。だから経営権は俺が持つ。でも、あなたの海への愛と知恵は、この会社にまだ必要です。……力を貸してください、大西さん」

 

 大西は、長い間、黙って港を見つめていた。

 

 負かした相手に、頭を下げられている。経営者として追い出した男が、それでも自分の価値を認め、必要としている。

 

 これは、敗者への施しではない。

 

 一人の経営者が、もう一人の経営者の経験に、正当な敬意を払っているのだ。

 

「……君は、不思議な男だな」

 

 大西が、ふっと笑った。

 

「敵だったはずなのに、いつの間にか、こちらが助けられている」

 

「敵だと思ったことは、一度もありません。俺は最初から、この会社を救いに来たんです」

 

 大西は、しばらく陽太の顔を見つめ、やがてゆっくりと頷いた。

 

「……分かった。老いぼれの知恵でよければ、貸そう。この海のことなら、誰にも負けんからな」

 

 その声には、敗北の影はもうなかった。あるのは、海を愛する一人の海運人としての、静かな誇りだった。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 二人は、ベンチに並んで、しばらく港を眺めていた。

 

 夕暮れが近づき、海が金色に染まっていく。瀬戸内シーライオンのフェリーが、汽笛を鳴らして出航していった。その船底には、新しい塗料が塗られている。フジツボに食われない、自己修復する、青い鎧が。

 

「……あの塗料は、本当に持つのか?」

 

 大西が、ぽつりと尋ねた。

 

「ええ。東雲さんと、五十嵐──うちの研究者が保証しています。今度こそ、本物の半永久塗料です。フジツボの次にどんな敵が現れても、対応できるよう、二人がもう次の研究を始めています」

 

「そうか。……東雲は、いい場所に戻れたんだな」

 

 大西の声に、安堵が滲んだ。自分が殺しかけた技術者が、今は思う存分、研究に打ち込んでいる。それは、大西にとって、何よりの救いだった。

 

「あいつに、伝えてくれ。……すまなかった、と。そして、ありがとう、と」

 

「ご自分で伝えてください。顧問になれば、いくらでも会えます」

 

 大西は、声を上げて笑った。久しぶりの、心からの笑いだった。

 

「違いない。……これからよろしく頼む、湊社長」

 

「こちらこそ。よろしくお願いします、大西顧問」

 

 二人は、固く握手を交わした。

 

 それは、勝者と敗者の握手ではなかった。

 

 同じ海を愛し、同じ海を守ろうとする、二人の海運人の握手だった。

 

 金色に染まる瀬戸内海の上を、青い鎧をまとった船が、力強く進んでいく。

 

 その船を、二人は並んで、いつまでも見送っていた。

 

 

父の食卓

 

 瀬戸凪が実家の食卓に着くのは、ずいぶん久しぶりのことだった。

 

 瀬戸内シーライオンの買収案件が一段落し、ようやく時間ができた。父から「たまには顔を見せなさい」と連絡が来たのは、そんな矢先のことだ。

 

 特区の総合病院に近い、医師住宅の一室。母が作った煮物の湯気が、食卓に立ち上っている。本物の出汁の匂い。災害前と変わらない、瀬戸家の味だ。

 

「凪、痩せたんじゃないか。ちゃんと食べているのか」

 

 向かいに座る父──瀬戸 哲也(てつや)が、眼鏡の奥から娘を見て言った。小児科部長として多くの子供の命を救ってきた手が、今は娘に煮物を取り分けている。

 

「食べてるわよ。仕事が忙しかっただけ」

 

「その仕事だ。海運会社を買ったとかいう、あの話か」

 

 凪の箸が、止まった。

 

「……知ってたの」

 

「特区中の噂だ。知らない方がどうかしている。新聞にも出ていたぞ。“学生ベンチャー、海運王を買収”とな」

 

 父は、湯呑みのお茶を一口含んだ。

 

「で、その中心にいる弁護士が、うちの娘だと。……母さんが、近所で随分と自慢して回っているらしい」

 

 台所から、母が「あら、本当のことじゃない」と笑う声がした。凪は、少し気恥ずかしそうに目を伏せた。

 

 ◇ ◇ ◇

 

「凪。一つ聞いていいか」

 

 食事が進み、父がふと箸を置いて言った。

 

「陽太君とは……まだ、続いているのか」

 

 凪は、わずかに頬を赤らめた。

 

「お父さん、それ、仕事の話? それとも──」

 

「両方だ」

 

 父は、まっすぐに娘を見た。

 

「彼のことは、よく知っている。妹の小春ちゃんが、私の患者だからな。検診で定期的に会っている」

 

 凪は頷いた。父は、小春の主治医だ。陽太が必死に薬代を工面していた頃から、ずっと小春を診てきた。

 

「避難所で彼が小春ちゃんを連れてきた時のことは、忘れられん」

 

 父の声が、少し遠くを見るようになった。

 

「ご両親が亡くなってすぐのことで、彼自身も大いに傷ついていたはずだが、冷静に対応していた。小春ちゃんに心配かけまいと必死だったと、後に本人から聞いたが、中々できることじゃない。……あんな目をした若者を、私は久しぶりに見た」

 

 凪は、黙って父の話を聞いていた。

 

「医者として、たくさんの家族を見てきた。災害で多くのものを失って、それでも子供のために必死に生きる親や、兄弟。彼も、その一人だ。……いや、その中でも、特別だった」

 

 父は、湯呑みを両手で包んだ。

 

「あの絶望的な状況で、あの子は決して妹の前で弱音を吐かなかった。診察室を出る時は、いつも笑顔だった。妹を安心させるために。……あれは、ただ優しいだけじゃない。芯の強い人間だ」

 

 ◇ ◇ ◇

 

「……知ってるわ」

 

 凪が、静かに口を開いた。

 

「避難所を出た後、私が陽太と再会したのは、大学に入ってからだった。久しぶりに会った時、あの人、探索者になってた。Fランクで、毎日泥にまみれて。普通なら、惨めだって腐ってもおかしくない状況よ」

 

 凪は、煮物の椀に目を落とした。

 

「でも、あの人は腐るどころか、むしろ冷静だったわ。今は耐える時だって、安全なダンジョンでゴミ拾いして。チャンスを逃さないようにって、必死になって情報を集めてた。……最初は、どうしてそこまで頑張れるんだろうって不思議だった」

 

 父は、黙って娘の話を聞いている。

 

「でも、あの人は本当にやってのけた。ゴミから会社を作って、大企業と渡り合って、今度は海運会社まで。……隣で見ていて、何度も鳥肌が立った。この人は、どこまで行くんだろうって」

 

「それは、仕事のパートナーとしての評価か?」

 

 父の問いに、凪は少し言葉に詰まった。

 

「……それだけじゃ、ないかもしれない」

 

 凪は、観念したように、小さく息を吐いた。

 

「あの人は、自分のことを“悪党でいい”って言うの。市場の歪みを突いて、利益を得て。冷徹で、計算高くて、確かにそういう一面もある。……でも、本当はすごく優しい。底辺探索者を従業員として雇って、人間らしい暮らしを与えて。敵だった海運会社の社長まで、顧問として迎えて。誰も切り捨てない」

 

 凪の声が、柔らかくなっていく。

 

「妹の小春ちゃんのためなら、何でもする。仲間のためなら、損得抜きで動く。……そういう人を、私は他に知らない。気がついたら、目が離せなくなってた」

 

 言ってしまってから、凪は耳まで赤くなった。

 

「……って、お父さんに話すことじゃないわね、これ」

 

 ◇ ◇ ◇

 

 父は、しばらく娘の顔を見つめていた。やがて、穏やかに微笑んだ。

 

「凪。お前は、小さい頃から正義感の強い子だった。私たち医師が医療訴訟で苦労していることを知って、お前は弁護士を志した」

 

 父が、ゆっくりと語り始めた。

 

「災害の後、世の中がめちゃくちゃになって、ルールの隙間で弱い者が踏みにじられるのを見て、“普通じゃ間に合わない”と言って、予備試験ルートで弁護士になった。……あの頃のお前は、いつも怒っていた。世界に対して」

 

 凪は、自分の過去を思い出して、苦笑した。確かに、あの頃の自分は、世の中の不条理に対する怒りに突き動かされていた。

 

「だが、今のお前は違う。怒りじゃなくて……希望で動いているように見える。誰かと一緒に、世の中を良くしようとしている。その顔は、昔よりずっと、いい顔だ」

 

 父は、湯呑みを置いた。

 

「父親として言わせてもらえば──娘がそんな顔をするようになった相手なら、悪い男のはずがない。医者としても、彼の人間性は保証する。小春ちゃんへの接し方を見れば、人柄は分かる」

 

 父は、少しおどけたように付け加えた。

 

「まあ、いつか正式に挨拶に来るなら、煮物くらいは振る舞ってやる。母さんの煮物は、尾道一だからな」

 

「お父さんっ……!」

 

 凪が、真っ赤になって抗議すると、台所から母の笑い声が響いた。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 食事を終え、凪は実家を後にした。

 

 夜道を歩きながら、父の言葉を反芻する。

 

 希望で動いている、いい顔をしている。

 

 確かにそうかもしれない。かつての自分は、世の中の理不尽さに対する怒り、そして焦りで孤独に戦っていた。法律という武器を振り回してたった一人で。

 

 でも、今は違う。

 

 隣には陽太がいて、紬がいて、一鉄やゲンさんや、田中たち工員がいる。誰も切り捨てない温かい場所がある。法律という自分の武器が、誰かを救うために使われている。それがたまらなく嬉しい。

 

 ふと、スマートフォンが鳴った。陽太からのメッセージだった。

 

『実家どうだった? 瀬戸先生によろしく』

 

 凪は思わず微笑んだ。

 

 この人はいつも周りの人のことを気にかけている。自分の父のことまで。

 

 凪は夜空を見上げた。星がいくつか瞬いている。

 

 返信を打とうとして、少し迷い結局シンプルな一言にした。

 

『父が、いつか煮物を振る舞うって。……都合のいい日、教えて』

 

 送信ボタンを押してから、凪はまた顔を赤くした。

 

 だが、その口元は確かに笑っていた。

 

 夜風が心地よく頬を撫でていく。

 

 まだ少し先の穏やかな未来を予感させる、優しい風だった。




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