東の空が白み始めた頃。
陽太はスマートフォンを取り出し、メッセージアプリを開いた。
スクロールのずっと下。小春の病状が悪化し、大学を休学して探索者に専念する決意をしたあの日から、一度も動いていないトーク履歴。
高校・大学の後輩であり――陽太が自ら突き放し、一方的に別れを告げた元恋人だ。
底辺探索者として泥にまみれる自分と、広島大学法学部で優秀な成績を取り続け、既に予備試験のルートから司法試験を突破し、弁護士資格を持つ天才として有名な彼女。もう二度と交わるべきではない世界線にいる。だが、これから巨大資本を相手取るには、彼女の冷徹な法的思考力と、契約の罠を見抜く鋭利な頭脳がどうしても必要だった。
陽太は短く息を吐き、たった一言だけメッセージを打ち込んだ。
『いつもの場所で会えないか?』
送信ボタンをタップする。
返信は来ないかもしれない。既読すらつかないまま無視されても、文句は言えなかった。
だが、画面に既読の文字がついた直後。たった三文字の返信が、陽太のスマホを震わせた。
『15時に』
◇ ◇ ◇
尾道市街の路地裏にある、純喫茶かもめ。
12.11の災害を免れ、昭和の面影を色濃く残すこの店は、高校時代からよく入り浸っていた思い出の場所だ。
食料品の価値が高騰した今となっては、本物のコーヒーを飲むことは叶わない。だが、マスターこだわりの焙煎により、代替品だが本物と遜色ないクオリティを保っている隠れた名店だ。
カランコロンと、古びたドアベルが鳴る。
「……遅れてすみません。相変わらず、コーヒー1杯で粘るのが好きなのね、先輩」
陽太の向かいの席に、スッと細身のシルエットが腰を下ろした。
瀬戸凪。艶やかな黒髪を整え、仕立ての良いジャケットを羽織った彼女は、学生というよりすでに一流の若手弁護士のような隙のないオーラを纏っていた。
泥まみれの日常を送る陽太とは、対極にある洗練された姿だ。
「……久しぶりだな、凪。急に呼び出して悪かった」
「本当に。最後に会ったのは半年前、あなたが休学届を出して、一方的に私の前から消えた日ですよね」
凪の声音は、氷のように冷たかった。
メニューも見ずに代替コーヒーのブラックを注文した彼女は、組んだ両手の上に顎を乗せ、陽太の顔をじっと見据える。
「それで? 妹さんのためにダンジョンで泥まみれになっている底辺探索者の先輩が、弁護士の私に何の用ですか。復縁の申し込みなら、3秒で席を立ちますけど」
「いや。お前に、
陽太は一切の感傷を切り捨て、相場師としての真っ直ぐな視線で元カノを見返した。
凪の眉が、わずかにピクリと動く。
「……
「ああ。大企業相手に、絶対に負けられない契約を結ぶ。俺には絶対的な商品があるが、それを守るための盾がない。お前の頭脳を、俺に貸してほしい」
陽太は持参したリュックの中から、丁寧にタオルで包んだタッパーを取り出し、テーブルの上に置いた。
タッパーを開けると、中には生理食塩水のパックに包まれ、淡い青色に発光する完璧な状態の泥スライムの核が収まっていた。
「これがその商品……泥スライムの核だ」
「……泥スライムの核? ただのゴミじゃない。それをこんなに丁寧にパッキングして……」
「俺が見つけた市場のバグだ。これが世界を変える。だが、これが生み出す膨大な富を俺が手にするためには、お前の法的な武装が必要なんだ」
凪はスライムの核と、陽太の真剣な眼差しを交互に見つめた。
冷たかった彼女の瞳の奥に、かつて陽太が愛した、法的な難題や知的なゲームを前にした時の好奇心の炎がチロリと灯るのを、陽太は見逃さなかった。
「……この話を続けるなら、私の
そう問いかけると、凪はコーヒーを口に運び、ゆっくりと懐かしの味を楽しむことにした。意地の悪い問いかけだったが、元恋人に対する彼女なりの情であり、同時にこの途方もない提案に対するテストだった。
底辺探索者に身をやつした陽太にとって、1万円は大金だ。
「……構わない。それで俺の盾になってくれるなら、安いもんだ」
陽太が迷いなく即答したことで、凪の瞳に浮かんでいたわずかな感傷が消え、完全に法曹としての冷徹な光が宿った。
凪は視線をテーブルの上のパッケージに落とし、高速で脳内の六法全書と特区条例を検索していく。
(……このゴミみたいなスライムの核が何に使えるのかは知らない。でも、先輩は富を自分のものにするため、企業と契約したいと言った)
(特区ダンジョン法第三条。探索者が取得した魔物素材は、原則として
(つまり先輩は、この素材をギルドに吸い上げられることなく、特定の企業へ合法的に横流しする抜け道を探している……?)
凪の口元に、微かな笑みが浮かんだ。
あまりにも危険で、あまりにも魅力的な綱渡り。
「……なるほど。先輩の狙いは見当がつきました」
凪はコーヒーカップを静かに置き、冷徹な声で告げる。
「ギルドの管理網を合法的にすり抜け、大企業と直接、独占的な取引契約を結ぶための法的スキームの構築。それが私への依頼ですね?」
「……さすがだな。中身を説明する前に、そこまで辿り着くとは」
図星を突かれ、陽太は苦笑する。
「ですが先輩、これはただの相談では済まされませんよ。ギルドの
凪の言葉は鋭く、陽太の急所を的確にえぐった。
「そのリスクを背負い、大企業を手玉に取るような契約書を私がゼロから組み上げるんです。時給1万円? ……安すぎますね」
凪はすっと姿勢を正し、陽太の目を真っ直ぐに射抜いた。
「私の要求は、時給1万円に加え、この事業で得られる最終利益の10%。これが、私があなたの盾になるための最低条件です」
利益の10%。もしこのビジネスが億単位の金を生めば、彼女に転がり込む金も莫大なものになる。学生が口にするには、あまりにも強欲でシビアな条件だった。
(……私を突き放して、一人で泥まみれになっている先輩が悪いんですよ。これくらい吹っかければ、きっと諦めて……)
凪が内心でそんな言い訳をした、次の瞬間だった。
「――いいだろう。
陽太は一切の躊躇なく、テーブル越しに手を差し出した。
かつて株の空売りで全てを失った絶望の目ではない。市場のバグを確信し、必ず勝てると信じて疑わない、本物の相場師の目をしていた。
「な……っ」
今度ばかりは、凪も言葉を失った。
彼がこれほどまでに自信を持っている商品の正体とは、一体何なのか。
「契約を結んだ以上、全てを話す。ギルドを誤魔化すスキーム自体は、実はすでに目星がついている。……凪、まずはこれを見てくれ」
陽太はリュックからノートパソコンを取り出し、画面を開いた。
そこに映し出されていたのは、東朋マテリアルの中期経営計画と、次世代型・高効率純水プラントの文字。
「……純水?」
「ああ。このゴミは、高濃度の魔素を一瞬で浄化する、世界最高の純水フィルターだ。」
陽太の静かな宣言に、凪の目が驚愕に見開かれた。
彼女はすぐさま手元のスマホを操作し、東朋マテリアルのIR情報と、市場における純水の取引価格を照らし合わせる。数秒後、彼女は信じられないものを見るような目で陽太を見た。
「にわかには信じられないけど……。どう少なく見積もっても、このフィルターが量産されたら純水の市場そのものが崩壊する……。東朋マテリアル1社が市場を独占すれば、億どころか数百億のパイを握ることになるわ」
「そういうことだ。俺が狙っているのは、小銭稼ぎじゃない」
陽太はコーヒーを一口飲み、本題へと切り込んだ。
「だが、お前が言った通り、ダンジョン法第三条には未加工の魔物素材はギルドへ納品することという絶対のルールがある。このスライムの核をそのまま東朋マテリアルに売れば、俺たちは一発で密輸犯だ」
「ええ。ギルドの査定員は目を光らせている。誤魔化しは効かないわ」
「本当にそうか? 凪。お前、ダンジョン法第三条の第2項は知ってるだろ?」
「それはもちろん。調合系スキルの使用を想定した例外条文ね。第2項ただし、次の各号に当たる場合において、ダンジョン内外での魔物素材等の使用、加工、その他の利用について前項の制約を受けない。⒈生命の危機に瀕する場合、⒉採取後、時間によって著しく品質が劣化するものを加工する場合、⒊探索者が使用する目的で……」
「そこだ。その第三条第2項第2号だよ」
陽太は凪の言葉を遮り、テーブルの上の真空パッケージを指差した。
「泥スライムの核は、空気に触れれば五分で腐る。だから俺は著しい劣化を防ぐために、この特製溶液に漬け込んでパッキング……つまり加工した。法的に何の問題もない正当な権利だ」
「……ええ、確かにそうね。でも、加工の許可が下りたからって、ギルドへの納品義務が消えるわけじゃ――」
「昔の日本のビール戦争を知っているか?」
「……酒税法の話? メーカーが麦芽の比率を変えたり、別の原料を混ぜたりして、税率の高いビールという法的分類から逃れ、発泡酒や第三のビールとして売り出したっていう……」
「その通りだ」
陽太はニヤリと笑った。
「モノの形が変わらなくても、成分を変えれば法的な定義は変わる。このパッケージの中身を見てみろ。スライムの核は、俺が自作した濃度0.9%の生理食塩水とクエン酸緩衝液の溶液に完全に浸され、真空状態になっている。……これは未加工の魔物素材か?」
「……あっ!」
凪は、陽太の積み上げたロジックを完全に理解した瞬間、雷に打たれたような興奮を覚えた。
「つまり先輩は……劣化を防ぐための加工特例を隠れ蓑にして、これを魔物素材から化学的な加工を施した工業用水処理フィルターへと、法的な定義そのものを書き換えたのね!」
「そうだ。これはダンジョンで拾った魔物素材じゃない。俺が独自に溶液を調合し、パッキング工程を経た工業製品だ。ギルドに納品する義務なんて、最初から存在しない」
発泡酒のスキーム。既存のルールの定義を逆手に取り、わずかな加工で法の網の目をすり抜ける。あまりにも鮮やかで、芸術的なリーガル・ハックに、凪は小さく息を呑んだ。
「……理屈は通るわ。でも、ギルドは強権的な組織よ。権力を笠に着てただ塩水に漬けただけだろと難癖をつけられれば、個人の探索者なんて簡単に潰される」
「だから、お前が必要なんだ。難癖をつけさせないための、法人の設立、特許出願、そして東朋との独占契約」
「……」
「この工業製品の製造元となる会社を立ち上げ、東朋マテリアルという巨大資本と直接タッグを組む。ギルドが俺という個人を潰そうとした時には、東朋が俺たちの後ろ盾になるような、完璧な契約書を組んでくれ」
陽太の目論見。それはギルドにも大企業にもいいように利用される下請けビジネスではない。大企業の資本力を利用してギルドの網の目をすり抜け、自らが
凪は小さくため息をつき、そして――この日初めて、腹の底からの笑みを見せた。
「……相変わらず、無茶苦茶な人。でも、法的スキームとしてはギリギリ及第点ってところかしら?」
彼女はジャケットのポケットから高級な万年筆を取り出し、紙ナプキンにサラサラと何かを書きつけ始めた。
「やるからには、徹底的にやりますよ、社長。まずは法人の設立登記。資本金は一円でもいけますが、東朋を信用させるために最低でも100万円は見せ金として用意してください」
「分かった。全財産を突っ込む」
「それと、私との顧問弁護士契約および利益10%の譲渡契約の書類もすぐに作成します。……会社名はどうしますか?」
会社名。
陽太は少しだけ宙を見つめ、やがて迷いなく口を開いた。
「“株式会社ウォーター・ベイン”だ。……乾ききったこの世界に、俺たちが新しい
純喫茶の片隅。
コーヒーカップと、一個の泥スライムの核が置かれた小さなテーブルで、後に日本の経済を根底からひっくり返すこととなるベンチャー企業が、産声を上げた瞬間だった。
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