事務所の明かりを最小限に落とし、窓の遮光を確かめてから陽太は男を招き入れた。
時刻は深夜零時を回っている。田中には工場の見回りを装って外の道を見張らせていた。
窓の外では雨が強くなっていた。傘の男を工場へ入れるまでの十歩ほどの間に陽太は三度周囲を確かめた。会いたいと言ってきたのは向こうだが命を張っているのも向こうである。粗略には扱えなかった。
工場の奥の事務所に通すと、栗山は濡れた上着を丁寧に畳んで膝に置いた。差し出した熱い茶を両手で包むように持つ。その手はまだ細かく震えていた。
(怯えている。だが逃げない。この震えは覚悟の震えだ)
栗山。五十がらみの小柄な男である。物腰は柔らかいが目だけは職人のそれだった。
「災害の前は骨董と真珠の目利きをしておりました。12.11で店も蔵も流れましてな。手に残ったのはこの目だけです。避難所で自警団に拾われてそのままギルドの査定場へ。設立の初日からずっと素材を見てまいりました」
「査定場には毎日いろんな顔が参ります。丁寧な仕事をする若い衆の素材に私は規定どおりの安値を付ける。目利きですから分かるのです。ああこれは良い仕事だと。ですが規定は規定。品質の欄をどう書いても値はほとんど動きません。若い衆は段々と来なくなる。目の光が消えていくのを四年間見続けました」
陽太の脳裏に羽山の顔が浮かんだ。劣化率6%の毛皮に、劣化率39%とほぼ同じ値しか付かない。あの伝票を突き出された時の羽山の顔を陽太は覚えている。そして今、その伝票に判を押していた側の男が、目の前で同じ痛みを語っている。
査定場という一枚の窓の、こちら側とあちら側。売る者も査定する者も、同じ歪みに削られていた。
「その目利きが何を見たんですか」
「秤の裏側です」
栗山は鞄から書類の束を取り出した。転送指示書の写し。倉庫の入出庫記録。手書きの符牒が並ぶ帳簿の断片。
「尾道や近隣の特区で買い取った素材は広島本部の倉庫に集められます。そこから先が本番です。獣皮は札幌都市圏へ。薬草系は東京や大阪都市圏へ。需要の高い土地へ回されて買取価格の三倍から五倍で卸される。探索者に払った金額との差額は──」
栗山は帳簿の一点を指した。数字の脇に小さな符牒が書き添えられている。
「一部は正規の収益に。残りは簿外へ。この印の分は本部の幹部連へ。そしてこちらの符牒の分は……ギルドの外へ出てまいります」
「外?」
「宛先は私にも分かりません。ただ査定場では古株だけが知る呼び名がございます。先生の取り分と」
先生。その一語が指す職業は多くない。
陽太の脳裏に協議会での理事長の顔が浮かんだ。素材の売り先を問うた瞬間の強張り。あれは図星の顔だった。歪んだ秤の上には固定価格と納品義務だけでなく誰かの取り分まで載っている。構図が音を立てて繋がっていく。
「先生、ね」
凪が符牒を指でなぞりながら低く呟いた。
「探索者から安く買い叩いた金の一部が、政治家に流れている。そういうことなら、なぜギルドがここまで固定価格に固執するのか腑に落ちるわ。制度を守っているんじゃない。金脈を守っているのよ」
「その金脈の先に、都市圏会議を握る誰かがいる」
「ええ。だとしたら、次の関門はただの議論じゃ済まない」
二人の間に、静かな緊張が走った。
凪が書類を一枚ずつ検分していく。陽太は静かにスキルを重ねた。
【
偽造ではない。少なくともこの紙は本物の書類から写し取られたものだ。
「便利なスキルをお持ちですなあ」
栗山が目を細めた。何をしたかは伏せたつもりだったが目利きには視線の動きで伝わったらしい。
「私の目は紙の真贋までは分かりません。分かるのは品物と人だけでございます。……ですが湊社長。数字で見えるのは紙の状態まででしょう。書いた人間の心根までは映らない。そこから先は人間の仕事です」
「肝に銘じます」
「栗山さん。これを私に渡す理由を聞かせてください。あなたはギルドの人だ」
栗山はしばらく黙っていた。やがて口を開いたとき、その声は初めて震えていた。
「娘がおります。今年で十三になりました。あの子が大人になる頃この特区がどうなっているか。搾られる者と搾る者に分かれたままの世界を娘に渡すのかと思ったら夜眠れなくなりましてな。目利きの誇りにかけて申し上げます。あの秤は歪んでおります。そして私は毎日その歪みに判を押している」
「……」
「湊社長。あなたは秤を作り直そうとしていなさる。ならばこれはあなたの手にあるべき紙です」
陽太は書類を受け取らず、しばらく栗山の顔を見ていた。
娘のために夜眠れなくなった男。その気持ちが、陽太には痛いほど分かった。自分もまた、妹一人の明日のために泥の中へ手を突っ込んできた。動機の形は違っても、根は同じだった。守りたい誰かがいる。それだけで人は自分の安全を賭けられる。
「……お預かりします。ですが約束します。この紙であなたを危険に晒すことは、しません」
初めて栗山の目に、査定人ではない一人の父親の色が滲んだ。
◇ ◇ ◇
栗山が帰った後。事務所には重い沈黙が残った。最初に破ったのは田中だった。
「社長。これ全部ばら撒きましょうよ。新聞でも都市圏会議でも。中抜きの証拠なんでしょう? ギルドは終わりだ」
「終わらないわ」
凪が静かに首を振った。
「証拠としては弱いの。全部写しで原本がない。符牒だけでは金が誰の懐に入ったか特定できない。裁判では戦えないし、逆に文書の入手経路を追及されたら栗山さんが真っ先に特定される。査定部門であの記録に触れられる人間は数えるほどしかいないはずよ」
「それにこの写しには決定的なものが欠けてるの。金額の合計と期間よ。断片だけなら向こうは事務処理の誤記と言い張れる。継続的で組織的な抜き取りだったと示すには年単位の記録が要る」
「じゃあ意味ないじゃないですか!」
「意味はある。だが今じゃない」
陽太はホワイトボードの前に立った。
「第一にこれを出せば栗山さんが潰される。協力者を犠牲にする勝ち方はしない。第二に符牒のままでは致命傷にならない。手負いにした獣は何をするか分からなくなるだけだ。第三に──ここが肝心だが──俺たちの目的はギルドの醜聞じゃない。制度を変えることだ。醜聞で幹部の首が三つ飛んでも固定価格と納品義務が残るなら探索者の明日は一円も変わらない」
田中は拳を握ったまま俯いていたが、やがて大きく息を吐いた。
「社長。俺、正直に言っていいですか」
「いいぞ」
「四年前、俺も査定場であの安値に判を押されてた側です。あの頃はただ悔しくて、ギルドの奴ら全員ぶん殴りたかった。だから今の話を聞いて、すぐにでも叩き潰したくなった」
田中は顔を上げた。底辺探索者だった頃の目の色が、一瞬だけ戻っていた。
「でも社長は、殴らずに勝つ道を選ぶんですね。栗山さんを守るために」
「殴って気が晴れるのは殴った側だけだ。羽山も、査定場に来なくなった若い連中も、それじゃ一円も救われない」
「……羽山に自慢できる日が遠のいただけっすね。分かりました」
「大丈夫だ。遠のいてはいない。順番の問題だ」
陽太は書類の束を金庫に収めた。
(この札は温存する。切るのは符牒の先にいる人間が自分の口で言い逃れできなくなった時。盤の向こうで駒を動かしている本人が姿を現した時だ)
「……ところで社長。栗山さんは大丈夫なんですか。俺たちと接触したこと自体がバレたら」
「接触の場所と経路は凪が設計した。尾行の確認までして来てくれている。それでも危険はゼロじゃない。だからこそこの紙は無駄撃ちできない」
凪が金庫の番号をその場で変えた。知るのは二人だけ。写しは作らず保管場所も一箇所。情報は増やせば漏れる。
金庫の扉が重い音を立てて閉まった。
「陽太。一つだけ言わせて」
田中が工場の見回りに戻った後、凪が静かに口を開いた。
「あなたのその我慢、私はすごいと思う。証拠を握っても切らない。相手を潰せる札を持っても温める。普通の人にはできないことよ」
「褒めているのか」
「半分は。もう半分は心配してるの。溜め込むって、しんどいことでしょう。全部背負い込まないで。少なくとも私には、いつでも重さを分けて」
陽太は少し驚いて凪を見た。それから、ふっと肩の力を抜いた。
「……ああ。そうさせてもらう」
◇ ◇ ◇
翌日。陽太は指定された公衆電話から栗山に連絡を入れた。切り札は今は使わない。理由を三つ伝えると受話器の向こうで小さく笑う気配がした。
「安心いたしました。すぐ使うと仰るなら全部忘れていただくつもりでした」
「試したんですか」
「目利きの癖でございます。品物は使い手を見て渡すものですから。……湊社長。査定場には私と同じ思いの者が他にもおります。符牒の先を割る証拠はこれから仲間と集めます。時間はかかりますが必ず」
「無理はしないでください。あなたと娘さんの明日はどんな書類より重い」
「……はい」
電話の奥で何かを拭う音が聞こえた。
◇ ◇ ◇
同じ頃。広島港の桟橋に一隻の高速艇が着いた。
降り立ったのは折り目正しい背広の男である。出迎えのギルド職員が差し出した傘を男は手で制した。雨に濡れることを気にする様子もなく男は言った。
「会議の資料を。それと十五人の委員の名簿と経歴を今夜中に」
職員が恐る恐る宿舎の場所を告げると男は首を振った。
「宿は結構。広島本部に部屋と机を一つ。それと今後の私への報告は書面のみで。会議は時間の無駄ですので」
職員はおずおずと、尾道の理事長からの伝言を告げた。湊陽太という男は油断ならない、正面からの議論では相当に手こずる、と。
黒崎は初めて足を止めた。だが振り返りはしなかった。
「正面から議論して敗けたのなら、それは戦い方を間違えている。議論で勝てない相手は、議論の外で勝てばいい」
感情のない声だった。
「私はそのために呼ばれた。理事長にそう伝えておいてください」
雨の桟橋を男は振り返りもせず歩き去った。広島の空は厚い雲に覆われていた。数字と正論で一段目を越えた陽太の前に、正論の通じない男が静かに上陸していた。
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