広島都市圏規制改革会議の第一回審議は仮設庁舎の大会議室で開かれた。
十五人の委員が馬蹄形に並び、説明者席に陽太と鷹司が着く。傍聴席には記者の姿もあった。特区協議会とは桁の違う舞台である。
開会前に鷹司が耳打ちしてきた。
「今日は勝とうと思わないでください。負けなければいい。初回は顔見せです」
「顔見せ、ですか」
「政治の会議は初回で決まることなど何もない。だが初回で崩れると全部が崩れる。ここは殴り合う場ではなく、殴られても倒れないと見せる場です」
陽太は頷いた。相場でも同じだった。最初の一日で勝とうと焦る者から溶けていく。腰を据えて動かない者だけが最後の値を取る。
「得意です。動かずに耐えるのは」
「頼もしい。……ただし一つ。今日この場に、あなたが今まで見たことのない類の敵がいます」
鷹司の視線が説明員席の端へ向いた。
そして桁の違う敵がいた。
説明員席の端に黒崎は座っていた。手帳と万年筆だけを机に置き、資料の山すら持ち込まない。準備が要らないのではない。準備のすべてが頭に入っているのだ。陽太は初めて相場の化け物と向き合った日の感覚を思い出した。
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「ギルド中央本部参与の黒崎でございます。本日は意見陳述の機会を賜りまして──」
慇懃な一礼から始まった男の陳述は見事なものだった。取引所構想そのものへの反論はほとんどしない。代わりに問いを積み上げる。
「価格が乱高下した場合の探索者保護策は資料のどこに。想定外の高騰で医療用素材が買い占められた場合の担保は。学生探索者が投機に参加する事態への年齢制限の法的根拠は。域外の買い手が参入した場合の資源流出への手当ては──」
一つひとつは正当な問いに見える。だが一つに答えれば次の問いが三つ生える。陽太が資料で答えると黒崎は満足げに頷いてこう結んだ。
「重要な論点が多数残っております。委員の皆様には拙速を避け十分な審議を尽くされますようお願い申し上げます」
鷹司が反撃に立った。
「参与のご懸念はすべて実証区域という制度設計で答えが出ています。期間は二年。対象は限定。全取引は行政に開示され問題があれば即時停止できる。つまりこれは懸念を検証するための仕組みそのものだ。検証にすら反対する理由があるならそれこそ伺いたい」
正論だった。だが黒崎は微笑んで受け流した。
「検証の設計自体にまず検証が必要というのが私どもの立場でございます」
暖簾に腕押し。議論を成立させないことがこの男の技術だった。
陽太は黒崎の横顔を盗み見た。正論をぶつけられても表情ひとつ動かない。反論しようとするから隙が生まれる。この男は反論しない。ただ議論そのものを泥沼に変えていく。
(勝ち負けの土俵に乗らない相手か。……厄介だな)
相場なら値が答えを出す。だが政治の会議に終値はない。決着を先延ばしにできる者が、いつまでも負けずにいられる。委員席の反応は割れている。行政系の委員は手続き論に頷く。経済系は資料の厚みに感心する。学識の委員は双方の理屈を秤にかけている。風はまだどちらにも吹いていなかった。
審議は次回持ち越しとなった。
二回目の審議で黒崎は新しい札を切った。他特区の前例調査が必要だという主張である。全国の特区は50を超える。全部を調べれば年が明ける。鷹司が期限を区切る動議を出してようやく調査対象は三特区に絞られた。一手指すごとに一月を失う。それが敵の設計だった。追加資料の要求は200項目を超え、三回目の日程は一月も先に設定された。
資料作りの主力は凪と笹本だった。シーライオンの財務部が数字を組み、凪が法律の鎧を着せる。徹夜が三度続いたが二人とも音を上げなかった。
「時間稼ぎだ。露骨なほどの」
帰りの船で鷹司は吐き捨てた。
「会議が延びるほど世論記事が積もり、資金が削れる。向こうは組織の金と人で戦っている。こちらの熱が冷めるのを待つ気だ」
「望むところです。資料要求には全部答えます。200項目でも2,000項目でも。答えた資料はすべて公開する。審議が長引くほど構想の中身が世の中に出ていく」
鷹司が振り返った。船の灯りに照らされた顔に、初めて笑みが浮かんだ。
「あなたは妙な男だ。普通は時間を削られれば焦る。あなたは削られた時間を数えて、そのぶん敵の情報を世に撒くと言う」
「時間稼ぎは、向こうが土俵を長くしてくれているのと同じです。長ければ長いほど、見物人が増える。見物人が増えれば、賭場という嘘は保たなくなる」
「……なるほど。時間稼ぎを広報に変えるか」
効果は出始めていた。公開された回答資料は都市圏の経済紙に面白がられ、取引所の仕組みを図解する連載にまでなった。賭場という悪評の記事が出れば翌週には図解が出る。世論は割れながらも確実に温まっていた。
羽山の名前が新聞に載ったのもこの頃である。腕利き探索者が語る固定価格の現実という取材記事だった。顔写真の羽山は緊張で強張っていたが語った言葉は真っ直ぐだった。
『丁寧にやっても雑にやっても同じ値段なんです。俺はそれだけを変えてほしい』
◇ ◇ ◇
異変に気づいたのは三回目の審議だった。
初回に好意的な質問をしていた経済団体の委員が一人、口を閉ざした。そして本田の様子がおかしかった。発言を求めず資料もめくらず、陽太と目が合うと逃げるように視線を外す。隣の藤岡は顔色が悪く、閉会と同時に誰よりも早く席を立った。
「盤外で何かが動いてる」
陽太の読みは三日で裏付けられた。動いたのは大西の商工人脈と田中たち現場の網である。
大西は港の古い付き合いを二晩回っただけで本田の会社の内情を掴んできた。老人の人脈は海の上だけではなかった。
「本田とは三十年の付き合いだ。あいつは12.11で会社を畳もうとした。従業員を路頭に迷わせたくない一心でな。そこを踏み止まった男だ。金で転ぶタマじゃない。だが従業員を人質に取られたら話は別だ」
大西の声には旧友を案じる響きがあった。
「わしから見りゃ、本田も社長も同じ穴の狢よ。守りたいもんのために意地を張る。だからこそ黒崎はそこを突いてくる」
田中と羽山は探索者仲間の伝手で大学の事務方に行き当たった。世間の狭さがこちらの武器になることもある。
報告を持ち寄った夜の事務所は静かだった。並べられた事実はどれも一線を越えていない。それが逆に不気味だった。
本田の会社は港湾資材の卸で、売上の四割をギルド関連の発注が占めていた。その本田のもとへ先月二つの話が同時に届いたという。現行取引を来期から順次見直すという通告。そしてギルド系列の新倉庫群からの大型受注の内示。
「鞭と飴の同時打ちか」
「ええ。しかもどちらも書面はなし。口頭と内示だけ。強要の証拠は残らない設計よ」
藤岡の側はさらに陰湿だった。大学に長年置かれてきたギルドの寄付講座が打ち切りの検討に入ったという。藤岡の研究室はその講座の予算で院生を三人抱えている。委員を降りれば再考の余地があると仄めかす電話が学部長経由でかかってきたらしい。
「合法の顔をした恐怖ね。買収罪にも強要罪にも届かない造りになってる。本田さんは会議のたびに顔色が悪くなってるし藤岡先生に至っては辞任の噂まで出てるわ」
田中が机を叩いた。
「汚ねえ! こっちも同じことをやり返すんですか? 本田さんにうちから大口の商談を持ちかけるとか」
「それをやったら俺たちも黒崎になる」
陽太は静かに言った。
「金で釣り返せば向こうの土俵だ。倍額を積み合う競りになって組織の金がある側が勝つ。それに金で転んだ票は次も金で転ぶ。そんな一票の上に市場は建てられない」
田中が拳を握ったまま黙り込んだ。悔しさは陽太にも痛いほど分かった。目の前で仲間が汚い手で追い詰められている。同じ手で殴り返せないもどかしさは、かつて査定場で安値に泣いた頃の無力感に似ていた。
「田中。お前の怒りは正しい。だが正しい怒りで間違った手を打てば、俺たちが積み上げてきたものが全部崩れる」
「……分かってます。分かってますけど」
「じゃあどうするんです。このままだと二人とも反対に回っちまう」
陽太は名簿の二つの名前を見つめた。恐怖で縛られた人間に必要なのは対抗する恐怖でも上回る欲でもない。
「恐怖を取り除く。……会いに行こう」
凪が顔を上げた。
「勝算はあるの」
「分からん。だが黒崎の設計には一つだけ穴がある。あの男は人の弱みは調べ尽くすが人の誇りは計算に入れていない」
「誇り?」
「黒崎は人を恐怖と欲で動く駒だと思っている。その計算はたいてい正しい。だが本田さんは12.11で潰れかけた会社を意地で守り抜いた人だ。藤岡先生は誰にも読まれない論文を四年書き続けた人だ。損得だけの人間なら、とっくにもっと楽な道を選んでいる」
陽太は名簿の二つの名前を指で叩いた。
「損得を超えて守ってきたものがある人間は、損得だけでは折れない。黒崎の恐怖は弱みを突く。だが誇りは弱みじゃない。そこが盲点だ」
凪はしばらく陽太を見つめ、それから静かに言った。
「あなた自身がそうだからでしょうね。だから分かるんだわ」
名簿の二つの名前をもう一度見る。港で会社を守り抜いた商売人と誰にも読まれない論文を書き続けた研究者。誇りの在処なら数字よりも確かに見えていた。
「まず本田さんからだ。面会の申し込みを頼む。断られても申し込み続けてくれ」
「断られ続けたら?」
「通うだけだ。うちの営業は買収の時もそうやって扉を開けてきた」
「相手は恐怖で身を固めてるのよ。会ってくれる保証はないわ」
「会ってくれるまで通う。俺が本田さんに売るのは商談でも脅しでもない。ただの安心だ。恐怖で閉じた扉は、安心でしか開かない」
凪が小さく苦笑した。大西の懐に入るまで諦めなかった男である。正面から通い続ける不器用な誠実さがこの男の最終兵器だと凪は知っていた。
窓の外では審議のたびに冷えていく世論とは裏腹に、事務所の灯りだけが夜通し点っていた。恐怖の設計に、誠実という名の鈍器で挑む戦いが始まろうとしていた。
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