IR情報で読み解くダンジョン経済学   作:カトーユキヒロ

54 / 62
第8話:恐怖を取り除く

 本田の会社は広島港の倉庫街にあった。面会は三度断られ、四度目にようやく10分だけという条件で通された。

 

「……取引所の件なら会議で聞く。営業なら帰ってくれ」

 

 本田は五十代の実直そうな男だった。目の下に濃い隈がある。

 

「営業ではありません。今日は謝りに来ました」

 

「謝る?」

 

「私が実証区域を言い出したせいであなたは板挟みになった。取引見直しの通告と大型受注の内示の件は把握しています」

 

 本田の顔色が変わった。

 

「なぜそれを──いや。知っていて何をしに来た。同情か。それともギルドより高く買うという話か」

 

「どちらでもありません。持ってきたのは商談ではなく情報です」

 

「……あんたの噂は聞いとる。会見の映像も見た。だがわしにも守るもんがある。12.11の後に一度は畳みかけた会社だ。従業員四十人と踏ん張ってここまで来た。今さら他人の喧嘩に巻き込まれて沈むわけにはいかん」

 

「ごもっともです。だからこそ聞いてください」

 

 陽太は一枚の紙を机に置いた。凪が整理した時系列の記録である。

 

「あなたに届いた通告と内示の日付。会議の日程。他の委員に起きた同種の働きかけ。全部並べると一本の線になります。これは偶然の商取引ではなく議決への働きかけです。そして働きかけというものは公になった瞬間に力を失う」

 

「……公にする気か。わしを巻き込んで」

 

「しません。この記録の扱いはあなたが決めてください。公証役場で確定日付だけ取って金庫に眠らせておく。それだけで意味があります。万一報復されたときあなたには反撃の弾がある。向こうもそれを知れば手荒なことはできなくなる。恐怖は情報の非対称から生まれます。対称にすれば消える」

 

「情報の非対称、か」

 

 本田は初めて興味を引かれた顔をした。

 

「商売と同じだな。相手の手札が見えんから足元を見られる。見えてしまえば対等に取引できる」

 

「そのとおりです。今のあなたは相手の手札が見えないまま脅されている。だが向こうが仕掛けた事実は、そっくりこちらの手札にもなる。同じ紙が、脅す側では凶器で、脅される側では盾になる」

 

「……盾か」

 

 本田はもう一度紙に目を落とした。目の下の隈が、少しだけ和らいだように見えた。

 

 本田は長いあいだ紙を見つめていた。

 

「……あんた。わしに賛成しろとは言わんのだな」

 

「言いません。恐怖で反対するのをやめてもらえれば十分です。そのうえで損得と信念で反対されるなら、それは正当な一票です」

 

「変わった男だ」

 

 本田は初めて薄く笑った。

 

「一つだけ聞かせてくれ。取引所ができたらわしの商売はどうなる」

 

「仕入れ先がギルドの窓口一本から市場に変わります。品質を自分の目で見て選んで買える。目利きに自信のある商売人ほど強くなる世界です」

 

「……目利きなら負けん」

 

 その一言に、この男が三十年培ってきた職業の矜持が滲んでいた。

 

「わしはな、湊さん。従業員の顔がちらついて眠れんかった。あいつらを守るためにギルドに尻尾を振るのが正しいのか。それとも正しいと思う方に賛成するのが、あいつらに顔向けできる道なのか」

 

「答えは出ましたか」

 

「……まだだ。だがな、脅されて反対するのだけは、もう御免だ。それだけははっきりした」

 

 確約はなかった。だが帰り際に本田は初めて陽太の目を見て頭を下げた。10分の約束は一時間を超えていた。恐怖に固く閉ざされていた扉が、一枚の記録と一時間の対話で、確かに開いていた。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 藤岡の研究室は大学の旧棟にあった。廊下には段ボールが積まれている。引っ越しの準備にも夜逃げの支度にも見えた。

 

 藤岡は俯いていた。膝の上で両の拳を固く握りしめている。

 

「……申し訳ないが委員は近く辞退しようと思っています。一身上の都合です」

 

「寄付講座の件ですか」

 

 藤岡の肩が跳ねた。陽太は構わず続けた。

 

「先生の論文を読みました。探索者の労働環境の実態調査。四年分すべてです。日給の分布。事故率と技能の相関。若い探索者が現場を去る要因。……先生。固定価格が探索者を守っていないと最初に数字で示したのはあなたです」

 

「……昔の話です。誰も読まない紀要の」

 

「ここに読んだ人間が37人います」

 

 藤岡が顔を上げた。四年ぶりに自分の研究を読んだと言う人間が現れたことに、すぐには言葉が出ないようだった。

 

 陽太は鞄から綴りを取り出した。羽山たち現役探索者の聞き取り記録と署名である。

 

「先生の調査票の様式を借りて田中と羽山が現場で集めました。全部あなたの研究の続きです。読まれなかった論文に四年経って現場が追いついた。委員を辞めるかどうかは先生の自由です。ただこれだけは受け取ってください。あなたの研究は無駄ではなかった」

 

 藤岡は綴りを受け取った。ページをめくる手が止まらなくなり、やがて眼鏡の奥が滲んだ。

 

「私はね……ずっと、無力だと思っていたんです」

 

 絞り出すような声だった。

 

「数字を並べても、論文にしても、制度は何も変わらない。学者にできるのは記録することだけで、世界を動かすのは別の誰かなんだと。だから、寄付講座を盾に取られたとき、抗う理由すら見つからなかった」

 

「先生の記録がなければ、私はこの構想の足場を持てませんでした」

 

 陽太は静かに言った。

 

「世界を動かすのは別の誰かじゃない。先生が四年かけて敷いた土台の上を、今、私が歩いているんです。記録する人間がいなければ、変える人間も立てない」

 

「……院生が三人いるんです。私が意地を張れば彼らの席が消える」

 

「存じています。だから鷹司議員が動いています。寄付講座の打ち切り検討について国会で文書質問を出す準備がある。学問への働きかけは政治の場でこそ効く話です。先生は一人ではありません」

 

 帰り道。凪がぽつりと言った。

 

「嘆願書の件。田中くんたち三日徹夜だったのよ。羽山さんなんて字を書くのは苦手なのに、一番時間のかかる文字起こしの係を自分から買って出て。ひと晩に数枚しか進まないのを最後までやり抜いたそうよ」

 

「知ってる。日報に全部書いてあった」

 

「読んでたの」

 

「ああ」

 

 陽太が頷くと、凪は少しためらってから続けた。

 

「……それにね。37人の中に、椎名さんの名前もあったの」

 

 陽太は足を止めた。

 

「椎名が」

 

「田中くんが驚いてた。あの人は絶対に署名なんてしないと思ってたって。でも一言だけ書き添えてあったそうよ。丁寧に狩った素材が丁寧な分だけ売れるなら、もう一度やってやる、って」

 

 陽太は夜空を見上げた。酒の手を止めただけの男が、今度は自分の名を紙に記した。錆びついた腕が、ほんの少し動いた音がした。

 

「藤岡先生に嘘はついていない。あれは本物の37人だ」

 

 ◇ ◇ ◇

 

 その週末。週刊誌が出た。

 

 闇市場と黒い交際・若き買収王の正体。見出しは踊り、記事は底辺時代の陽太が闇市場で物資を調達していた過去を大きく書き立てていた。

 

 発売日の朝は事務所の空気が重かった。田中は雑誌を買い占めると息巻き、凪に無意味だと止められていた。

 

「事実関係はほぼ合ってる。悪質なのは書き方だけね」

 

「なら会見だ。予定どおり公開の場で受けて立つ」

 

 会見の前夜。凪は想定問答を三十本用意した。陽太は一枚めくって全部を机に伏せた。

 

「使わない。原稿を読む謝罪会見に見えた瞬間に負ける。事実をそのまま話す。それだけだ」

 

「……小春ちゃんの話も出すの?」

 

「ああ。本人の許可は取った。いいよって笑ってた」

 

 凪はしばらく黙っていた。それから伏せられた想定問答をまとめて鞄にしまった。

 

「怖くないの? あなたの一番柔らかいところを、全国に晒すのよ」

 

「怖いさ。だが隠せば向こうの思う壺だ。埃だと思っているから叩く。埃じゃないと分かれば叩けなくなる」

 

「……あなたは時々、自分を切り札にする。もう少し自分を大事にして」

 

 凪の声に責める色はなかった。ただ案じるだけの、静かな声だった。陽太は少しだけ表情を緩めた。

 

「大事にしてるさ。だから逃げない。逃げれば小春の病気を後ろ暗いもののように扱うことになる。それに、あれは恥じゃない。妹の日常を守り抜いた大事な記憶だ」

 

「分かった。あなたのやり方で。でも一つだけ約束して。挑発には乗らないこと。あなたの怒った顔は記事になるんだから」

 

「善処する」

 

 記者会見場は満員だった。陽太は冒頭で記事を手に取り、はっきりと言った。

 

「この記事の事実関係は概ね正確です。私は闇市場で食料と薬を買っていました」

 

 場内がどよめく。カメラの音が波のように走った。

 

「妹は魔素不適応症でした。純水と本物の食料、薬がなければ弱っていく病気です。表の市場に本物の食材はなく闇市場にしかなかった。だから買いました。同じことをした家族はこの特区に何千といるはずです。それが罪ならこの町の親は全員罪人だ」

 

 会場は静まり返った。

 

「ではなぜ闇市場が生まれるのか。表の市場が機能していないからです。価格が需要を映さず品質が値段に反映されない場所では必ず裏側に本物の市場が生まれる。私が作りたい取引所は闇を照らす側の市場です。誰でも入れて全部が記録される。……闇市場を知る人間だから断言できます。闇を消す方法は取り締まりではない。表を開くことです」

 

 質疑で年配の記者が手を挙げた。

 

「闇市場の利用は違法行為では? 経営者としての資質を問う声もありますが」

 

「当時の私にまともな選択肢があったと思われますか」

 

 陽太は静かに問い返した。

 

「妹の薬と食料を諦める選択肢なら確かにありました。つまりは妹を見捨てるという選択肢です。私はそれを選ばなかった。今も後悔していません。……一つ付け加えるなら。あの頃の私のような人間に表の選択肢を用意するのが取引所です。二度と誰にも闇で買わせないための」

 

 記者の手が止まった。追及の言葉を探していた顔が、いつのまにか聞き入る顔に変わっていた。

 

 陽太は内心で、黒崎の設計の綻びを見ていた。あの男は陽太の過去を埃だと踏んで週刊誌を放った。だが埃と誇りは紙一重だ。隠せば埃になり、晒せば誇りになる。黒崎が計算に入れ損ねたのは、またしても人の誇りだった。

 

 翌日の各紙は会見を大きく報じた。世論の風向きが変わる音を陽太は確かに聞いた。

 

 その夜。夕食の席で小春が新聞を広げた。会見の写真を指でなぞる。

 

「お兄ちゃん。私のこと話したんだね」

 

「ああ、悪かったな」

 

「ううん」

 

 小春は首を振った。

 

「昔ね。買ってきてくれるご飯がどこのお店のか聞いちゃいけない気がしてた。でももう聞いていいんだね」

 

 陽太は箸を置いた。妹は全部分かっていたのだ。あの頃も。今も。幼いながらに、兄がどこで何をして食料を手に入れているのか薄々察しながら、あえて聞かずにいてくれた。守られていたのは自分の方だったのかもしれない。

 

「ずっと黙っていてくれたんだな」

 

「だってお兄ちゃん、聞かれたくなさそうだったもん」

 

 小春は少し照れたように笑った。

 

「でも今日の新聞のお兄ちゃん、堂々としてた。かっこよかったよ」

 

「そうか」

 

「うん。だからね、わたしももう隠さない。魔素不適応症ですって、学校でちゃんと言う。恥ずかしいことじゃないんでしょ」

 

 陽太は妹の顔を見た。守られるだけだった子が、自分の言葉で自分の病を引き受けようとしている。表を開くというのは、こういうことだった。

 

「ああ。もう全部表の話だ」




sa10 様 かんほ 様 紅桜風月 様
お気に入りに登録していただきありがとうございます。
 
今後も頑張りますので、感想・評価・お気に入り等よろしくお願いいたします。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。