IR情報で読み解くダンジョン経済学   作:カトーユキヒロ

55 / 61
第9話:一票の重み

 採決の日は朝から雨だった。

 

 仮設庁舎の大会議室には立ち見の傍聴人が詰めかけ、廊下にまで列が伸びていた。会見以来この議題は都市圏で最も注目される政治案件になっていた。

 

 控室で鷹司が肩を回していた。試合前の癖だという。

 

「湊さん。政治の採決は水物です。読みは八対七。ただし本田さんと藤岡さんがどちらへ転ぶかは最後まで分からない。二人が反対に回れば六対九で終わります」

 

「二人の恐怖は取り除いたつもりです。あとは」

 

「あとは本人の足で立つかどうか。俺たちにできるのは待つことだけです」

 

「待つのは得意なつもりでしたが、最近は難しいと感じますね」

 

 陽太が正直に言うと、鷹司は肩を回す手を止めて笑った。

 

「意外ですな。相場師は待つのが仕事でしょう」

 

「相場は待てば値が動く。人の心は、待っても動くとは限らない」

 

「なるほど。……ですが今日は違う。あなたは待つだけじゃない。あの二人に、自分の足で立てる床を、もう敷いてきたはずだ。恐怖を取り除くというのは、そういうことでしょう」

 

 陽太は答えなかった。だが胸の内で、本田と藤岡に会った日のことを思い返していた。床は敷いた。あとは二人がそこに立ってくれるかどうか。それだけは、陽太にも読めなかった。

 

 傍聴席の最前列には田中と羽山の顔があった。羽山は生まれて初めて背広を着てきたという。サイズの合わない肩がどこか誇らしげだった。

 

「社長。俺あれから考えたんすけど」

 

 開会前に羽山が身を乗り出してきた。

 

「取引所ができたら俺の角兎に俺の名前で値が付くんすよね。生産者の名前が残るなら手なんか抜けねえっすよ」

 

「そういう市場にする」

 

 短い返事に羽山は白い歯を見せた。この男が辞めずにいてくれたことが今日の議場に探索者の署名を運んだ。人は制度より先に人で動く。それもまたこの数ヶ月で学んだことだった。

 

 開会直後に黒崎側が動いた。ギルド推薦の委員が挙手する。

 

「重要な論点が残存しております。採決の延期を動議いたします」

 

 議長は静かに首を振った。

 

「審議は五回を数え要求資料214項目にはすべて回答が提出されています。本日の採決は前回全会一致で確認した日程です。動議は否決します」

 

 時間切れ。黒崎の第一の武器はここで尽きた。

 

 最終弁論に立った反対派の委員は安定と安全保障を繰り返した。四年間の実績。乱高下の恐怖。資源流出の懸念。原稿はよくできていたが、それは黒崎の言葉であって委員自身の言葉ではなかった。

 

 対して賛成派の学識委員は藤岡の四年分の調査を引用した。誰も読まなかった紀要が公式の議事録に刻まれていく。藤岡は俯いたまま自分の数字が読み上げられるのを聞いていた。

 

(借り物の言葉は届かない。なら俺は自分の言葉だけで話す)

 

 反対派の委員が読み上げた原稿は完璧だった。だが完璧すぎた。数字も論理も隙がないのに、誰の心も動かさない。陽太はそこに黒崎の限界を見た。あの男は人を駒として動かす術は知っているが、人の心を動かす言葉を持っていない。

 

「では最後に提案者側の意見陳述を。湊参考人」

 

 陽太は立ち上がった。用意した原稿はない。掲げたのは二枚の伝票だけだった。

 

「一撃で狩猟し、血抜きは完璧で汚れひとつない毛皮。私のスキルで劣化率:6%という素晴らしい品質のものが12匹で11,640円。一方で、鈍器で頭部を潰し、血抜きは不十分で血がこびりついた毛皮。私のスキルで劣化率:39%というお世辞にも良い品質と言えないものが、同じく12匹で11,040円。差額はたった600円。この会議で私が申し上げたいことは最初から最後までこの二枚の伝票に尽きます」

 

 伝票を置き、静かに続けた。

 

「腕は値段にならない。土地の違いも値段にならない。それがこの四年の秤です。守られたのは誰だったのか。数字はもう皆様のお手元にあります。……私はこの特区の底辺で四年近く狩りをしていました。あの頃の自分に一つだけ言葉を返せるなら、こう言いたい。お前の腕にはいつか相応の値が付くと。その世界を作る一票を今日ここでお願いします」

 

「これより採決に入ります。挙手により行います」

 

 議長の声で会議室の空気が張り詰めた。

 

「本件、広島都市圏として国へ実証区域の指定を申請することに賛成の委員は挙手願います」

 

 手が上がり始めた。一本。二本。三本。四本。五本。

 

 固い賛成の五本で止まった。会場がざわめく。過半数は八。あと三本が届かない。

 

 黒崎は手帳を開いたまま微動だにしない。読みどおりという顔だった。中立の二票が動かなければ否決で終わる。恐怖の楔は抜いたつもりだ。だが最後に立つかどうかは本人の足にしか決められない。

 

 陽太は祈るように二つの席を見た。本田は俯いている。藤岡は膝の上で両手を握りしめたまま動かない。会議室の時間が、まるで止まったように感じられた。

 

 この数ヶ月、数字と仕組みで積み上げてきた。だが最後の最後で結果を決めるのは、数字ではなく人の勇気だった。それは陽太が最も苦手とし、そして最も尊いと知っている領域だった。

 

 そのとき椅子を引く音がした。本田が挙手ではなく起立していた。

 

「議長。一言だけよろしいか」

 

「……どうぞ」

 

「この一月あまり私のもとには取引見直しの通告と大型受注の内示が同時に届いておりました。出所がどこかは申しません。ただ私はこの歳になって初めて自分の一票に値札が付くという経験をした」

 

 場内が凍りついた。黒崎の手帳をめくる指が止まった。

 

「考えた末に結論を出しました。値札の付いた一票を投じたらわしの六十年の商いに傷がつく。わしは目利きの商売人です。自分の値打ちを自分で下げる取引はせん」

 

 本田は一度言葉を切り、傍聴席をゆっくりと見渡した。

 

「それに、うちの従業員四十人に、脅されて曲げた背中は見せられん。あいつらが誇れる社長でいたい。それだけの話です」

 

 本田の右手が上がった。六本。

 

 会場のどこかで嗚咽が聞こえた。買収と圧力の噂は傍聴席にも届いていたのだ。一人の商売人の意地が数字にならない何かを議場に流し込んでいた。

 

 続いて藤岡が動いた。一度膝の上で拳を握り直し、それから傍聴席を振り返る。視線の先には聞き取りに応じた探索者たちが座っていた。羽山がいた。田中がいた。誰にも読まれなかったはずの四年分の研究が、確かに誰かに届いていた証がそこにあった。

 

 もう無力ではない。藤岡の唇がそう動いた気がした。手がゆっくりと上がる。震えてはいたが確かに上がっていた。七本。

 

 最後の一本は経済団体の委員だった。初回以来沈黙していたあの男である。本田の言葉が会議室の空気を変えていた。八本。

 

「賛成八。反対七。可決です」

 

 傍聴席が沸いた。廊下まで歓声が届く。田中が声を上げて泣き、羽山が拳を突き上げていた。

 

 凪が隣で目元を拭った。弁護士の顔が一瞬だけ崩れて年相応の顔になる。

 

「……勝ったわね」

 

「二段目だ。あと一段ある」

 

「今くらい素直に喜びなさいよ」

 

 凪が肘で軽く小突いてくる。陽太は少しだけ口元を緩めた。

 

「……ああ。今日はいい日だ」

 

「あら、珍しく素直じゃない」

 

 そう言いながらも凪の目は嬉しそうだった。数字では測れないものが今日この議場を動かした。それを誰より近くで見ていた二人だった。

 

 傍聴席では羽山が本田の席に向かって深々と頭を下げていた。名前も知らぬ者同士だったはずの二人である。秤を作り直す戦いは知らない誰かのための戦いでもあった。

 

 鷹司が大股で歩み寄ってきて手を差し出した。握られた手は相変わらず万力だったが、不思議と今日は痛くなかった。

 

「地方予選は突破です。ここから先は国。俺の庭でもあり敵の本丸でもある」

 

「望むところです」

 

 ◇ ◇ ◇

 

 閉会後。廊下で黒崎とすれ違った。男は足を止め、初めて陽太に直接話しかけてきた。

 

「お見事でした。恐怖を取り除くという発想は私の設計にありませんでした」

 

「それはどうも」

 

「ですが湊さん。勘違いをなさらぬよう。ここは予選会場です。地方の会議がいくつ可決しようと実証区域を認定するのは国。そして国の会議室には」

 

 黒崎は僅かに口の端を上げた。

 

「あなたの正攻法が通じない方々が座っておられます。本戦でお会いしましょう」

 

 男は一礼して雨の中へ消えた。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 同じ日の東京。ギルド中央本部の最上階。

 

 窓の外に広がる再建途上の街並みを見下ろしながら、初老の男は報告の電話を静かに聞いていた。

 

 執務室は広く調度は少ない。壁には一枚の日本地図だけが貼られ、特区の位置に小さな鋲が打たれていた。鋲は四年前より確実に増えている。男はその一つ一つを財産目録のように眺めてきた。

 

「──広島で可決。ほう。黒崎が落としましたか。珍しいこともある」

 

 男の声に慌てた色はなかった。むしろどこか楽しげですらあった。受話器の向こうの動揺した報告を、茶飲み話でも聞くように受け流している。

 

「その湊という若者。恐怖を取り除いて中立を動かしたと。……ほう。黒崎の設計を、正面から破ってみせましたか」

 

 男は窓辺に立ち、地図の一点をなぞった。広島の鋲だった。

 

「若いのに面白いことを考える。だが、勘違いをしている。あの若者は、歪んだ秤を直せば世界が良くなると信じている。青いですな。秤というものは、直したそばからまた歪む。人が値を付ける限り、必ず」

 

 男はしばらく地図を眺めていた。

 

「面白い。地方で勝った程度で制度が変わると思っているなら世間知らずというものです。……ええ。国の協議の場を用意しましょう。今度は私が直々に出ます」

 

「黒崎には広島に残るよう伝えなさい。敗戦処理ではありません。次の仕事があります。……それと例の若手議員。鷹司の坊やの動きは永田町の先生方にも共有を。可愛がっていただきましょう」

 

 受話器を置き、男は再び地図に向き直った。四年前より確実に増えた鋲を、棋譜のように見つめる。若者が一つ駒を進めた。ならばこちらは、盤そのものを大きくするまでだ。地方の会議で通用した正攻法が、国の舞台で同じように通じるとは限らない。

 

 男の名を尾道で知る者はまだ少ない。日本探索者支援機構(ギルド)専務理事・鬼頭。全国のギルドを束ねる組織の頂点に立つ男だった。




今後も頑張りますので、感想・評価・お気に入り等よろしくお願いいたします。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。