IR情報で読み解くダンジョン経済学   作:カトーユキヒロ

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第10話:国へ

 可決の反響は一夜で瀬戸内を越えた。

 

 全国紙が広島都市圏の決定を報じ、50を超える特区の半数から問い合わせが届いた。曰くうちでも同じ制度は作れるのか。曰く視察に行きたい。尾道の小さな構想は一週間で国の議題になった。

 

 東京行きが決まった夜、小春が兄の鞄にお守りを忍ばせた。

 

「東京、遠いね。何日で帰ってくるの」

 

「分からん。長くなるかもしれない」

 

「……お兄ちゃん、最近ずっと戦ってるね」

 

 小春の声に、責める色はなかった。ただ、少しだけ寂しそうだった。陽太は妹の頭に手を置いた。

 

「すまん。だが、これが片付けば、もっと安心して暮らせる世界になる。小春が何かしたいことができたとき、ちゃんとその道が開いてる世界にな」

 

「約束だよ」

 

 小春は小指を差し出した。兄の戦いが家の外でどんどん大きくなっていくことを、妹は誰よりも敏感に感じ取っていた。

 

 東京湾に入ったのは尾道を発って二日後だった。湾岸のバリケードの向こうに再建途上の高層群が見える。九大都市の頂点に立つ首都は震えるほど巨大で、どこか冷たかった。

 

 陸の便が絶たれた四年間、首都は海と空で息をしてきた。港には各特区の旗を掲げた船がひしめき、荷役の喧騒は尾道の比ではない。だがバリケードの外側には今も手つかずの街が広がっている。栄える内側と止まったままの外側。特区制度の光と影は首都でこそ一番濃かった。

 

「国は生き物です。頭で賛成しても胃が反対する」

 

 霞が関の仮設庁舎へ向かう車中で鷹司が言った。

 

「頭は官邸と改革派。世論の追い風もある。だが胃は所管の役所とその後ろの族議員だ。制度を消化するのは胃の方でしてね。あなたの実証区域は今その胃の入口で止まっている」

 

「通す薬は」

 

「手続きです。政府に評価の場を作らせる。名前は固いが要は公開の土俵だ。土俵さえできれば胃の中の理屈を全部引きずり出せる」

 

「密室で話をつける方が早いのでは」

 

 陽太があえて水を向けると、鷹司は珍しく苦い顔をした。

 

「早い。だが密室で通したものは密室で覆される。俺は根回しで築いた城をいくつも見てきた。どれも次の根回しで崩れた。時間がかかっても、公開の場で正面から通したものだけが残る」

 

「それはあなたの流儀ですか。それとも政治の理屈ですか」

 

「両方です。……正直に言えば、俺は根回しが下手なだけかもしれん。だが下手な人間には下手なりの正義がある」

 

 陽太は小さく笑った。この不器用さこそ、自分がこの男と組んだ理由だった。密室で捻じ込むのではなく公開の場を作って正面から通す。時間はかかるが勝てば固い。

 

 霞が関の反応は役所ごとに別の生き物だった。所管の役所は書類の完璧さで応じた。受け取りはする。だが動かない。経済官庁は前のめりだった。改革の実績に飢えている。同じ政府の中で温度が二十度は違った。

 

 折衝は三週間に及んだ。内閣府に設けられたのは規制改革実証区域評価会議。有識者と関係省庁と関係団体の代表が並ぶ公開の審議の場である。関係団体。その四文字が誰を指すかは考えるまでもなかった。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 初回を前に鷹司の声が低くなった。

 

「関係団体の代表として誰が出てくるか。尾道特区の理事長でも黒崎でもないでしょう。おそらく鬼頭本人が来る」

 

「ギルドの専務理事ですか」

 

「ただの専務理事じゃない。あの組織を今の形にした男です」

 

 鷹司は声をさらに落とした。

 

日本探索者支援機構(ギルド)。名前だけは立派だが、始まりは烏合の衆でした。基地を失った自衛隊の一部。自治体が崩壊し、行き場をなくした官僚。避難所の自警団。流れ着いた難民。そんな寄せ集めを、四年で統制の効いた全国組織に育て上げた。永田町に貸しが多く敵がいない。そして誰も、あの人が怒った顔を見たことがない」

 

「怒らない男は何で動くんですか」

 

「分からんのです。それが一番怖い」

 

 評価会議の初回は永田町にほど近い会議場で開かれた。

 

 都市圏会議より部屋は狭い。だが空気の密度が違った。並ぶのは各省の局長級と大学教授と経済団体の幹部。廊下には記者が溢れ、陽太の顔と名前はもう全国に知られていた。

 

 定刻の直前に扉が開いた。

 

 現れたのは初老の男だった。仕立ての良い背広。ゆったりとした足取り。誰よりも遅く入ってきたのに誰も咎めない。むしろ数人の委員が軽く頭を下げた。

 

 男は陽太の前で足を止めた。

 

「あなたが湊さんですか。お若い。──日本探索者支援機構(ギルド)で専務理事をしております。鬼頭と申します」

 

 差し出された手は柔らかく温かかった。鷹司の万力とは正反対の握手だった。力はどこにも入っていない。なのに振り解ける気がしなかった。

 

 陽太は反射的に検査官(インスペクター)スキルを男に向けようとして、意味がないことに気づいた。スキルは物の状態しか読めない。だがもし人の内側が読めたとしても、この男からは何も出てこないだろうという予感があった。表情も所作も、すべてが磨き抜かれて、内側が一切透けない。

 

「広島の件は伺いました。お見事です。黒崎が負けるところを私は初めて見ました」

 

「恐縮です」

 

「本日はよろしくお願いします。実り多い会にしましょう」

 

 鬼頭は静かに席へ着いた。敵意はどこにもない。それが何より不気味だった。

 

 議事が始まり陽太は構想を説明した。羽山の伝票。可決までの経緯。実証の設計。都市圏会議で磨き抜いた説明は淀みなく進んだ。

 

 説明の締めに陽太はいつもの伝票を掲げた。広島で二度掲げた紙は角が少し丸くなっている。それでも数字は初めて見る者の胸にも刺さった。理屈より先に一枚の紙で語る。この半年で身につけた戦い方だった。

 

 質疑の口火を切ったのは鬼頭だった。

 

「まず申し上げます。私はこの構想に賛成です」

 

 場がどよめいた。陽太も一瞬耳を疑った。当のギルド連合の頂点が賛成を口にしたのである。

 

「固定価格制度は緊急避難でした。四年が経ち制度疲労が出ていることは我々が誰より知っております。探索者の皆さんの不満も承知している。市場という方向性は正しい。湊さんの設計も緻密だ。お若い方がここまでのものを作られた。素直に敬意を表します」

 

 言葉に嘘の匂いがなかった。委員たちの表情が緩んでいく。

 

 陽太は逆に警戒を強めた。相場で最も危険なのは、誰もが同意する空気だった。全員が買いに傾いた瞬間こそ、天井が近い。この会議室が今まさにその空気に包まれつつあった。鬼頭は反論ではなく同意で場を支配していた。

 

「ただし」

 

 鬼頭は一拍置いた。柔らかい声のまま続けた。

 

「素材は資源です。魔石は動力に。獣皮は防具に。薬草は医療に。国民の命に直結する戦略物資だ。市場を開くこと自体に異論はない。開いた市場から国の血が流れ出さない仕組みだけは何重にも必要です。次回、ギルドとして条件のご提案をさせていただきたい。国益を守るためのほんの幾つかの条件です」

 

 委員たちが深く頷いた。反対ではなく条件。誰にも拒む理由のない申し出だった。

 

 議事はそのまま次回へ繋がった。反対派との激突を予想していた委員たちはどこか拍子抜けし、同時に安堵していた。連合が賛成なら話は早い。空気がそう流れていくのを陽太は肌で感じた。流れを作ったのは発言者ではなく発言の順番だった。最初に土俵の形を決めた者が相撲の内容まで決めてしまう。

 

(──取り込みに来た)

 

 陽太は背筋に冷たいものを感じた。黒崎は会議を止めに来た。この男は違う。会議ごと飲み込みに来ている。

 

 ◇ ◇ ◇

 

「……厄介ですな」

 

 休憩の合間に鷹司が唸った。

 

「黒崎は俺たちを止めに来た。あの人は違う。俺たちを飼いに来ている。賛成の枠の中に入れて条件で骨を抜く。反対されるより数段むずかしい」

 

「条件の中身を見てから考えます。正論なら呑む。正論の顔をした毒なら剥がす」

 

「剥がせますか。相手は国益という一番強い言葉を握ってますよ」

 

「国益なら、こっちも同じ言葉で返せます。歪んだ秤で探索者が現場を去れば、いずれ素材そのものが採れなくなる。それこそ国益の毀損だ」

 

「……理屈ではそうだ。だが鬼頭さんの怖いところは、理屈で勝っても場が動かないことです。あの人は数字の正しさではなく、正しいことをしているという空気を配っている。人は小難しい正論より分かりやすい正義を選ぶ」

 

 鷹司の言葉に陽太は頷いた。黒崎が恐怖で人を縛ったなら、鬼頭は正義の顔で人を呑み込む。手口はまるで違う。だが、人の意思を殺して動かすという一点で、二人は同じ穴から出てきた蛇だった。

 

 散会後。会議場の外で鬼頭に呼び止められた。

 

「湊さん。少しだけ」

 

 記者の届かない柱の陰で老人は目を細めた。

 

「あなたは市場がお好きだ。私も嫌いではありません。ただね。市場と国は違うのですよ。市場は間違いを値段で正す。国は間違いを死者の数で払う。だから国には門番が要る。四年前からずっと、門番は我々が務めてきました」

 

「その門番が通行料を取り過ぎているという話をしに来ました」

 

 鬼頭は声を立てずに笑った。責める色も、気を悪くした様子もない。ただ、値踏みを終えた商人のような目だった。

 

「通行料、ですか。うまいことを言う」

 

 その目の奥は、少しも笑っていなかった。柔らかな物腰の底に、何一つ透けてこない冷たさがある。陽太は男の内側を覗こうとして、ただ滑らかな壁に指を滑らせただけのような感覚を覚えた。この男が何を守り、何を欲しているのか。善意なのか私欲なのか、それすら測らせない。

 

(底が見えない)

 

 黒崎には設計があった。恐怖という手口があった。だからこそ穴も見えた。だがこの男には、目的の輪郭すら掴めなかった。

 

 去り際に老人は思い出したように付け加えた。

 

「海の向こうがあなたの市場に興味を持ち始めているそうですよ。良い話とは限りませんがね」

 

 鬼頭はそれ以上何も言わず、柔らかく微笑んで人波の中へ消えた。その背中は最後まで隙がなかった。廊下の記者たちがあの老人にだけは群がらず道を開けていたことに、陽太は帰りの車中で気づいた。

 

 永田町ではあれが力の形なのだった。




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