第二回を前にした夜。宿の机で凪が敵の条件を予想した。
「三つに絞れるはずよ。入口と品目と値段。市場を殺すにはこの三箇所しか急所がないもの」
「入口は参加者の審査。品目は高価値素材の除外。値段は変動の制限か」
「ええ。どれも安全という顔で来るわ。真正面から否定したら負けよ。安全に反対する人間に見えた瞬間、委員の心は離れる」
「目的は認める。手段だけ取り替える」
「そう。柔よく剛を制すってね。柔道でいきましょう」
凪は資料を閉じ、疲れた目をこすった。もう何日、二人でこの詰将棋を続けているだろう。
「ねえ陽太。法廷なら勝ち負けがはっきりしてる。でも政治は、勝っても勝った気がしない場所ね」
「勝ち負けの盤に乗らない相手だからだ。黒崎もそうだった。鬼頭はもっとそうだ」
「……勝っても勝った気がしない相手に、どうやったら勝てるのかしら?」
「勝ち負けじゃないところで勝つしかない。委員じゃなく、その後ろにいる世間を味方につける」
凪はしばらく陽太を見て、それから小さく笑った。
「あなた、まるで生まれつきの政治家みたいなことを言うわね」
「相場も政治も、群衆の心を読む商売だったようだ。……似てるんだよ、案外な」
評価会議の第二回。鬼頭は約束どおり条件を持ってきた。
凪の予想は三つとも的中していた。
配られた資料の表紙には国益保全のための三条件とあった。文面は簡潔で美しかった。
「第一。取引参加者の資格審査です。素材が反社会勢力や外国勢力に渡らぬよう、参加者の登録と審査を全国組織たるギルドが担います。第二。戦略素材の除外です。魔石の上位等級や軍事転用の可能な素材は実証の対象から外し従来どおり納品義務の下に置きます。第三。価格変動の制限です。乱高下から探索者を守るため一日の値動きに上限を設けます」
資料をめくる音が揃って響いた。三つの条件はどれも一読して反対しにくい。隣の席で鷹司が小さく舌打ちするのが聞こえた。
安全。保護。国益。どの言葉にも傷がない。委員たちは頷きながら聞いていた。
(見事なものだ)
陽太は内心で唸った。三つの条件はどれも正義の顔をしている。だが束ねると別の絵になる。参加者の審査権をギルドが握れば市場の入口はギルドの門に戻る。高価値素材を除外すれば市場は端数だけの遊び場になる。値動きに蓋をすれば価格は需給を語らなくなる。
固定価格の檻を市場という名前で建て直す。それがこの提案の正体だった。
陽太は鬼頭の横顔を見た。老人は穏やかな顔で委員たちの反応を眺めている。この三条件を作った男は、一つ一つが単独では正義に見えると分かっていて、束ねたときの効果まで計算し尽くしている。恐ろしいのは悪意ではなく、その精緻さだった。
(真正面から三つとも否定すれば、俺は安全に反対する危険人物にされる。凪の言うとおりだ。目的を抱きしめて、手段だけ抜き取る)
「湊参考人。ご意見を」
議長に促され陽太は立った。
「まず申し上げます。鬼頭専務理事の懸念は三つとも正当です」
鬼頭の眉がわずかに動いた。委員席にも意外の色が走る。
「素材が敵性勢力に渡ってはならない。戦略物資の流出は防がねばならない。探索者を乱高下から守らねばならない。すべて同意します。争点は目的ではありません。手段です」
陽太は自前の資料をめくった。
「第一の審査について。参加者の登録制と本人確認と届出義務は当方の設計に既に含まれています。担い手は中立の運営委員会と行政でよい。審査は必要です。しかし審査権を市場の競争相手であるギルドに渡すのは、審判を相手チームから出すようなものです」
傍聴席から小さな笑いが漏れた。行政系の委員が一人、なるほど、と小さく呟いてメモを取った。審査そのものは否定せず、担い手だけをすり替える。安全に反対したのではなく、より公正な安全を提案した形になっていた。
「第二の除外について。除外は管理ではありません。放棄です。高価値素材こそ台帳に載せるべきだ。取引所を通れば売り手と買い手と数量と価格がすべて記録に残る。今この瞬間も高価値素材はどこかで動いています。どこで誰の手に渡ったか、国は把握できていますか。──透明な市場は安全保障の敵ではありません。最良の監視装置です」
ギルド寄りの委員が食い下がった。
「では伺うが記録に残して何になる。流出してから台帳を眺めても素材は戻らんでしょう」
「戻りません。だから届出と審査を市場の外側に置くのです。記録は事後の言い訳のためではなく異常を早く見つける警報のためにあります。警報のない家と警報のある家、泥棒が選ぶのはどちらですか」
傍聴席がまた笑った。ギルド寄りの委員は口をつぐんだ。
「第三の値幅制限について。対案があります。制限ではなく一時停止。急変時に取引を止めて頭を冷やす仕組みを最初から組み込みます。蓋は圧力を溜める。弁は圧力を逃がす。プラントも市場も同じです」
有識者の委員が手を挙げた。
「一時停止の発動基準はどう決めるのですか。裁量で止められる市場は市場と呼べないのでは」
「ごもっともです。基準は前日比の変動率で機械的に定めます。人の裁量は挟みません。数値そのものは実証の中で調整します。それを検証するための実証区域です」
即答に委員が頷く。実証という言葉が盾にも矛にもなり始めていた。
説明を終えて着席するまで鬼頭は一度も陽太から目を離さなかった。
「……素晴らしい」
拍手こそしなかったが老人は本心から感嘆したように見えた。
「目的を認めて手段で返す。お見事です。ですが湊さん。一つだけ想像が足りない」
「伺います」
「あなたの台帳とやらは善良な買い手を映す鏡だ。では問いましょう。国の外から静かな買い手が来たとき、あなたの若い市場はそれを止められますか。彼らは審査を通ります。届出も出します。合法の顔で来ますよ。腕の良い泥棒は盗まれたことを気づかせない」
場が静まった。合法の顔をした脅威。その言葉の重さは広島で骨身に沁みている。黒崎の鞭と飴。本田を追い詰めた合法の恐怖。あれを国家の規模でやられたら、と一瞬だけ背筋が冷えた。
だが陽太は動じなかった。合法の顔をした脅威なら、広島で一度打ち破っている。
「全ての機能を市場に詰め込む必要は無いでしょう。止める仕組みは市場の外に作ります。外国資本による素材の大量取得への届出義務と審査。つまり法律です。取引所は台帳で異常を見つける目になる。手足となる法整備を国にお願いしたい。──鷹司議員が既に検討を始めています」
鷹司が深く頷いた。市場が目となり法律が手足となる。攻守は逆転しつつあった。
議長が事務局と目配せを交わした。この日の議事録には三条件を原案のまま採ることは適当でないとの整理が残った。柔道は決まった。少なくとも紙の上では。
だが鬼頭は追い詰められた顔をしていなかった。むしろ満足げですらあった。
鬼頭と目が合った。老人は微笑んだまま、静かに頷いた。よくできました、とでも言うような目だった。
陽太はその目の奥にある盤面の広さに、初めて足がすくむ思いがした。
閉会後の廊下で鷹司が首をひねった。
「勝ちましたな。三条件とも実質は潰した。だが軽い勝ちだ。相撲で言えば相手が自分から土俵を割った。……次の一番のために」
「次の一番、ですか」
「あの人は今日、負ける議論をわざわざ持ってきたということです。私は当初、国の認定さえ取れれば勝ちだと思っておりました。だが、あの人の目的は国の認定を超えたところにある。俺の勘ですがね」
鷹司は珍しく笑っていなかった。
「俺は実家で二十年以上、あの手の政治家を見てきました。本当に強い相手は、勝つ時より負ける時こそ真価を発揮する。今日の鬼頭さんは、負けて見せることで何かを仕込んでいった。それが何かが分からんうちは、勝ったと浮かれない方がいい」
「同感です」
二人は無言で庁舎を出た。空はいつのまにか厚い雲に覆われていた。
◇ ◇ ◇
「それにしても」
帰りの船室で、凪が窓の外の暗い海に目をやりながら呟いた。
「前は数字の話しかしなかったのに、今日は警報と泥棒の話で会議を笑わせてた。ちょっとビックリしちゃったわ」
「相場は独りでやるものだった。政治は人とやるものらしい」
「いい変化だと思うわよ。正論を叩きつけるよりもずっとね」
「そうだな」
「どうしたの?浮かない顔して?」
「……鬼頭のことだ」
陽太は暗い海を見つめた。
「あの男の狙いをずっと考えていた。それで、一つ予想が立った」
「どんなこと?」
「俺に三条件を潰させることで、俺は安全保障に穴を開けた男になった。外国資本を規制する法律はこれからだ。法律ができるまでの空白期間に何か起きれば、それは全部俺の市場のせいにされる」
「わざと負けて、あなたに責任を背負わせる、と」
「ああ。そのために今日の議論はあった。負けたのは鬼頭じゃない。俺が勝たされたんだ」
凪の顔がこわばった。
「怖い人ね。勝ちすら罠にする」
「それに、外資の話にやけに時間を使ってた。まるで──」
陽太が言葉を切った。二人の脳裏に同じ想像が浮かんでいた。まるで近いうちに外資が本当に来ると知っているかのような。
◇ ◇ ◇
その答えは三日後の新聞の一面でもたらされた。
米サンダーソン・グループ日本代表が来日。ダンジョン資源市場への投資に意欲。
記事の扱いは大きかった。世界最大級のダンジョン資源企業。動かす資本は桁が違う。紙面の論調は期待と警戒に真っ二つに割れていた。
陽太は事務所でその一面を長いあいだ見つめていた。鬼頭の一言が、今になって輪郭を持ち始めていた。海の向こう。開いた門から入ってくるもの。合法の顔で審査を通り、届出を出し、静かに市場を買っていく買い手。
自分が四年かけて開けようとしている門は、内側の探索者のためのものだった。だがその同じ門から、桁違いの資本が入ってこようとしている。
(門を開けた者には、門から入るものすべての責任がある)
泥スライムの核に値段をつけた少年は、いつのまにか、国の市場の門番の席に立たされようとしていた。
黒船が来る。鬼頭の予言どおりに。
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