IR情報で読み解くダンジョン経済学   作:カトーユキヒロ

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第13話:市場、始動

 尾道港の旧倉庫が生まれ変わるまでに一月かかった。

 

 天井の高い船荷倉庫に競り台と黒板と電光の価格表示板が据えられた。壁の漆喰は塗り直され、それでも潮の匂いは抜けない。競り台の設計を助けてくれたのは魚市場を百年やってきた男たちである。あの漁協の組合長の口利きだった。

 

 競り台を組んだのは一鉄たちだった。超絶技巧を誇った職人の手が市場を建てる。溶接の火花が倉庫の闇に散るたび若い工員たちが歓声を上げた。据え付けの最終日、一鉄は競り台を叩いて言った。百年もつぞ、と。

 

 名前は構想書のまま。瀬戸内素材取引所。

 

 制度の骨組みも固まった。討伐報奨金は従来どおりギルドへの討伐報告で支払われ、素材の売り先だけが自由になる。参加者は登録制で大口取引には届出義務。急変時には取引を止める一時停止の弁。評価会議で鍛えられた設計がそのまま条文になっていた。

 

 運営委員会も発足した。委員長には藤岡が就いた。探索者の労働環境を四年間数え続けた男ほど探索者の市場の番人にふさわしい者はいない。推薦は満場一致だった。買い手代表には商工会の推す加工業者。行政委員には特区行政局。そして探索者代表の席を打診された羽山は三日悩んで引き受けた。

 

「俺なんかでいいんすかね」

 

「もちろんだ。現場を知らない代表より百倍いい」

 

 開場前夜。がらんとした場内で最後の点検をする陽太に凪が並んだ。

 

「四年前のあなたに教えてあげたいわね」

 

「教えても信じないだろうな」

 

 陽太はがらんとした場内を見渡した。据えられたばかりの競り台。まだ何も書かれていない黒板。明日にはここが人と声で埋まる。

 

「……なあ凪。手数料率を見たか」

 

「委員会が決めた1.5%でしょう。あなたの試算より低いって笑ってたじゃない」

 

「低くていい。俺が決めなかったことに意味がある」

 

「あなた、本当に価格に一切触らないのね。この市場の生みの親なのに」

 

「生みの親だからだ。親が値段を握る市場は、いずれ親のための市場になる。俺は泥スライムの核に値段をつけて成り上がった男だ。値をつける快感がどれだけ人を狂わせるか、誰より知っている」

 

 凪はしばらく陽太の横顔を見ていた。

 

「私はあなたの判断を信じるわ。でも、こんなに頑張ったのに自分の儲けは考えないの?」

 

「もちろん考えてるさ。結局のところ、独り占めは算盤が合わない。今の10%より、100倍でかい市場の1%の方が遥かに多い。……悪党が儲けるには、これが一番なんだ」

 

 ◇ ◇ ◇

 

 開場の朝は快晴だった。

 

 開場の辞は委員長の藤岡が読んだ。原稿は三行しかなかった。

 

「この市場は誰のものでもありません。正しく働くすべての人のものです。──開場します」

 

 開場の一時間前から港に列ができていた。登録証を首から下げた探索者たち。仕入れ籠を担いだ商人たち。列の誰もがどこか落ち着かず、そして誰もが笑っていた。

 

 第一声のセリは魔石だった。続いて獣皮。薬草。素材が台に載るたび指と声が飛び交い、黒板の数字が生き物のように動いた。買い手は加工業者に問屋に病院の調達係。売り手は納品義務を解かれた探索者たち。誰もが初めて見る景色に興奮していた。

 

 病院の調達係が薬草の初セリを競り落とした。等級の表示を確かめてから競れることに感激していたという。今までは配給の箱を開けるまで中身の当たり外れが分からなかったのだ。品質が見える。それだけで医療の現場から博打が一つ減った。

 

 傍聴席には小春の姿もあった。一鉄と田中に挟まれて、動く数字を目を丸くして追いかけている。

 

 セリの作法に戸惑う探索者には羽山が付いて回った。探索者代表の初仕事である。出品の手順。等級表示の読み方。札の入れ方。教える声はどこか誇らしげだった。

 

 やがて競り人が読み上げた。

 

「角兎の毛皮十二枚。売り手は羽山。等級は特級」

 

 場内のあちこちで手が挙がった。喉元をひと突きで仕留めた汚れなき毛皮。目利きたちはその価値を見逃さなかった。値は固定価格時代の査定を瞬く間に超え、なお伸び続けた。

 

「32,000円!」

 

 落札の槌が鳴った。競り勝ったのは若い革具職人だった。最高級の材料で最高級の鞄を作るのだと職人は頬を上気させた。

 

 同じ日に出た並級の毛皮十二枚は9,600円だった。かつて600円だった腕の差は、この日2万円を超える差になった。

 

 羽山は伝票を受け取ったまましばらく動かなかった。あの日ギルドの窓口で力なく折り畳んだのと同じ形の紙である。書かれている数字だけがまるで違った。

 

「……社長。俺の名前が」

 

 伝票の売り手の欄を指す指が震えていた。等級の隣に売り手の名が印字されている。羽山。ただそれだけのことが、四年間日本のどこにもなかった。

 

 この男が最初に陽太に突き出した伝票は、高品質な毛皮に、低品質の毛皮とほぼ同じ値しか付かない一枚だった。あの紙が国の会議で二度掲げられ、都市圏の採決を動かし、今こうして正しい値の付いた一枚に生まれ変わっている。

 

「言ったろう。あんたの腕に相応の値が付く場所を作ると」

 

「……四年っすよ、社長。四年、丁寧に狩っても一円も報われなかった。何度も辞めようと思った。でも……辞めなくてよかった」

 

 羽山は伝票を両手で押し頂くように持っていた。武骨な指の節が白くなっている。

 

「あんたが辞めなかったから、俺はこの場所を作ったんだ」

 

 場内には本田の姿もあった。港湾資材向けの獣皮を三口続けて競り落とし、してやったりの顔で笑った。

 

「目利きなら負けんと言ったろう」

 

 そして、列の後ろの方に、陽太は見覚えのある強面を見つけた。椎名だった。登録証を首から下げ、籠に毛皮を数枚だけ提げている。数は少ない。だがその一枚一枚は、明らかに丁寧に処理された品だった。

 

 目が合うと、椎名はばつが悪そうに顔を背けた。それから、ぶっきらぼうに言った。

 

「……一頭だけ、試しに持ってきた。錆びついた腕がどこまで戻るか、確かめに来ただけだ」

 

「良い品です。等級は上級が付く」

 

「世辞はいらねえよ」

 

 そう言いながら、椎名の耳は少し赤かった。酒場で酒の手を止めた男が、今、自分の足でこの市場に立っている。陽太は約束を思い出した。最初の一頭は正しい値で買い取る、と。だがその約束は、もう要らないようだった。この男は施しではなく、市場で勝負しに来ていた。

 

 傍聴席で小春が跳ねるように手を叩いていた。閉場後の帰り道、妹は兄のシャツの裾を引いて言った。

 

「ねえ。あれが普通ってこと?」

 

「ああ。あれが普通だ」

 

「作れたね。普通」

 

 何気ない一言が胸の奥に深く染み込むようだった。

 

 夕方のギルド買取窓口は開設以来初めて列が短かったという。窓口の中で栗山たちが何を思ってその光景を眺めていたか。

 

 その日の夜、陽太のもとに一通の短い手紙が届いた。差出人の名はない。だが几帳面な字に見覚えがあった。

 

『市場が動くのをこの目で見ました。良い品に良い値が付く。それだけのことが、こんなにも人を変えるのですね。娘にも、いつか胸を張って話せます。あなたにお預けした紙は、まだしまっておいてください。使う日が来るのか来ないのか。それを決めるのは、あの市場が本物であり続けられるかどうかでしょう』

 

 陽太は手紙を金庫の、あの写しの隣に納めた。切り札を渡した男は、まだ査定場の内側にいる。市場の勝利は、あの窓口の中の人々をまだ救ってはいない。それを忘れるな、という戒めのように思えた。

 

 初日の出来高は420万円。登録参加者は開場までに300を超えた。数字はまだ小さい。だが黒板の上では確かに、品質と需要が値段を語り始めていた。

 

(値段が動いている。品質で。需要で。……当たり前がやっと、ここにある)

 

 ◇ ◇ ◇

 

 異変に気づいたのは開場から一週間後の夜だった。

 

 事務所で陽太は日々の取引記録を検分していた。運営には関与しない。ただし台帳は行政と同じものを見られる。それが鑑定人としての契約だった。

 

(……妙だな)

 

 画面の数字を追う目が止まった。薬草系の素材と中級の魔石。この二つだけ、セリの終わり際に必ず高値の札が入って持っていかれる。

 

 買い手の名義は五つ。貿易商に雑貨商に運送業。だが札の入れ方が全部同じだった。競り合いには加わらず、最後に一声だけ上限を刻んで確実に取る。感情のない入札。まるで同じ人間が五つの顔で座っているような。

 

「凪。この五社を調べられるか」

 

 深夜の事務所で凪が登記情報を引いた。答えは三十分で出た。

 

「全部この半年以内の設立。住所は広島都市圏の貸事務所。代表者は互いに無関係。資本金はどれも届出義務の線のぎりぎり下──偶然にしては行儀が良すぎるわね」

 

「制度を知ってる誰かが後ろにいる」

 

 陽太は画面の五つの名義を見つめた。競り合いに加わらず、最後に一声で確実に取る。値を吊り上げてでも欲しいのではない。目立たずに、確実に、特定の品目だけを集めている。これは投機ではない。投機なら値動きで儲けようとする。この買い方は、値段など気にしていない。ただ現物が欲しいのだ。

 

 薬草は医療に。中級の魔石は動力に。どちらも国民の暮らしと防衛に直結する。鬼頭が評価会議で並べた「戦略物資」という言葉が、皮肉にも現実の輪郭を持って立ち上がってきた。

 

 買われた素材の行き先も消えていた。転売の記録はなく、搬出はいつも夜。医療に使う薬草と動力になる魔石が静かに確実に誰かの倉庫へ吸い込まれていく。

 

(市場は嘘をつかない。買い手の顔は札の入れ方に出る。──来たな)

 

 ハワードの忠告が耳の奥で蘇る。厄介なのは名乗らない買い手です。

 

「凪。委員会と行政局に報告を上げる。それから鷹司さんにも」

 

「行政局へは明日の朝一番に。委員会には藤岡先生から回してもらうわ。それと確認だけど、取引は止めないのよね」

 

「止めない。規則の内側にいる限り市場は誰も拒まない。拒んだ瞬間にうちが第二のギルドになる。……ただし見張る。台帳は全部残る」

 

「ええ。……皮肉なものね。市場を開いたから見えたのよ。これ」

 

 凪の言うとおりだった。固定価格の時代なら、素材は全部ギルドの窓口に吸い込まれ、その先で何が起きても誰にも見えなかった。市場を透明にしたからこそ、闇の輪郭が浮かび上がった。

 

「鬼頭とハワード。二人とも同じことを言った。名乗らない買い手が来る、と」

 

 陽太は窓の外の港を見た。開場を祝う灯りがまだ幾つか点っている。あの灯りの下で働く探索者たちの明日を、今、顔の見えない何者かが静かに買い占めようとしている。

 

「敵は、俺が四年かけて開けたこの門から、堂々と入ってきた。合法の顔で、規則の内側から」

 

「止められないの?」

 

「止めちゃダメだ。……代わりに、照らす。奴らが一番嫌うのは、自分の姿が台帳に残ることだ」

 

 開かれた市場の最初の仕事は、闇の尻尾を照らし出すことだった。そしてそれは、この市場を守る長い戦いの、ほんの始まりに過ぎなかった。




因幡の黒兎 様 cvfssded 様
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