IR情報で読み解くダンジョン経済学   作:カトーユキヒロ

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第5話:1万円のゴミと、勝確のプレゼン

 瀬戸凪の動きは、恐ろしいほどに迅速で正確だった。

 

 純喫茶かもめでの密約からわずか数日。彼女は大学の講義をすっぽかし、特区行政庁と法務局を駆け回り、陽太が用意した全財産の100万円を資本金として、株式会社の設立登記を強引に完了させた。

 

 同時に、特許庁への“特定溶液を用いた水処理用有機フィルターの製法”に関する特許出願手続き*1を済ませ、そして東朋マテリアルとの交渉に用いる秘密保持契約書(NDA)と売買契約書のドラフトまで、完璧に練り上げてみせた。

 

「……これで、私たちはただの学生や底辺探索者ではなく、株式会社ウォーター・ベインの経営陣です」

 

 出来立ての登記簿謄本をテーブルに滑らせながら、凪は言った。

 

「準備は整いました。あとは社長の腕次第ですよ」

 

「ああ。行ってこよう、俺たちの戦場へ」

 

 陽太は、急遽古着屋で買い揃えた安物の、だがサイズの合った清潔なスーツのネクタイを締め直した。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 東朋マテリアル・尾道特区実証実験センター。

 

 急造のプレハブ施設とはいえ、特区の港湾部に陣取るその施設は、巨大企業の資本力を見せつけるには十分すぎる威容を誇っていた。

 

「──それで、地元ベンチャーの社長さんが、我々の実証実験に協力していただけると?」

 

 応接室に現れたのは、くたびれた作業着に白衣を羽織った壮年の男だった。

 

 木崎(きざき) 省吾(しょうご)。東朋マテリアル研究開発部の主任研究員であり、尾道特区実証実験センター長、向島ダンジョンでの実証実験の現場責任者だ。彼の目の下には、連日の徹夜作業による濃い隈が刻まれていた。

 

 無理もない。彼らはスライムの核の鮮度維持という壁にぶち当たり、暗礁に乗り上げているのだから。

 

「ええ。木崎主任、連日の実証実験、お疲れ様です」

 

 陽太は穏やかな笑みを浮かべ、出来立ての名刺を差し出した。

 

 木崎はそれを受け取りながら、目の前に座る若すぎる陽太と、秘書のように控える冷ややかな美貌の凪を見て、隠しきれない侮蔑の息を吐いた。

 

「株式会社ウォーター・ベイン……聞いたことのない社名ですね。失礼ですが、水処理のノウハウをお持ちのようには見えません。我々も暇ではないので、売り込みなら購買部を通して──」

 

「木崎主任。まずはこの書類(NDA)にサインを。話はそれからです」

 

 凪がスッと、分厚い秘密保持契約書を突きつける。

 

 あまりの堂々とした態度に気圧された木崎が、渋々といった様子でサインを書き終えたのを見届け、陽太は口を開いた。

 

「御社が探している未利用の有機素材。……向島ダンジョンの、泥スライムですね?」

 

 ピクリ、と木崎の肩が跳ねた。極秘事項のはずの実証実験のターゲットを、なぜこの地元の若造が知っているのか。

 

「ご安心ください、他言はしません。御社の着眼点は素晴らしい。あのゴミ素材が高濃度の魔素水を一瞬で浄化するフィルターになるなんて、誰も想像しなかったでしょう。……ただし、御社は致命的な壁にぶつかっている」

 

「……何が言いたい」

 

「討伐から数分でヘドロ化するあの素材を、使用可能な状態のまま維持・輸送する手段がない。違いますか?」

 

「なっ……!」

 

 木崎がガタッと椅子から立ち上がった。図星だった。

 

「どうしてそれを……! いや、まさか君たち、ギルドの人間か!?」

 

「我々はしがないベンチャー企業ですよ。ただし、枕詞に御社の悩みを解決した製品が生産できる“唯一の”がつきますがね」

 

 陽太はアタッシュケースを開け、一つのパッケージをテーブルの中央に置いた。

 

 生理食塩水とクエン酸緩衝液で満たされ、真空パックされた泥スライムの核。昨日パッケージングされたもので、討伐からすでに10時間以上が経過しているにもかかわらず、その透明度は一切失われておらず、青白く澄み切っていた。

 

「……嘘だろ」

 

 木崎は震える手でパッケージを手に取った。

 

 信じられないものを見る目で、あらゆる角度からその奇跡を観察する。彼らが数億円の機材を投入しても成し得なかった完璧な品質保持が、目の前の安っぽいビニール袋の中で実現している。

 

「こ、これを一体どうやって……! い、いや……まだ見た目だけかもしれん。検査機にかけてもよろしいか?」

 

「どうぞご自由に。ただし、我々の目の届く範囲でお願いしますよ。天下の東朋さんに限ってあり得ないことですが、すり替えられても困りますしね」

 

 動揺する木崎をよそに、陽太は余裕の表情で煽りながら検査を促す。

 

「おい、高橋! 小型検査機を応接室に回せ! 今すぐだ!」

 

 応接室の外から台車に載せられた物々しい機材が運び入れられ、白衣を着た研究員が慌ただしく検査を始めた。

 

「主任! 完璧です。ヘドロ化の進行が完全に止まっています」

 

「貸せ! ……間違いないな」

 

 木崎は愕然としてしばらく黙り込んでいたが、やがてハッと我に返ると、部下の研究員達に退出を促した。彼らが機材を置いて部屋を出たのを見届けると、やおら振り返り、陽太に真っ直ぐ向き直った。

 

「……先ほどの君たちへの無礼な態度は謝罪しよう。頼む、これをすぐにギルドを通してうちに納品してくれないか。全数買い取る。君たちには破格の情報提供料として──」

 

「お待ちください、木崎主任」

 

 前のめりになる木崎を、凪の冷ややかな声が制止した。

 

「ギルドを通す必要はありません。これはダンジョン法第三条に規定される未加工の魔物素材ではないからです。特許出願中の特定溶液に浸漬させ、パッケージング工程を経た、我々ウォーター・ベイン社製の工業用水処理フィルターです」

 

 凪の言葉に、木崎は目を見開いた。

 

「工業製品……? 馬鹿な、ギルドがそんな屁理屈を許すはずが……」

 

「法律に則っているのです。ギルドがどう考えようが、関係ありません。昔の酒税法における発泡酒と同じ、合法的なスキームです。ギルドへの納品義務はなく、我々は御社と直接、独占売買契約を結ぶことができる」

 

 凪は容赦なく、あらかじめ用意していた売買契約書の束をテーブルに叩きつけた。

 

「単価は1個、1万円。週に500個の完全な状態のフィルターを納品します。契約期間は最低1年で」

 

「い、1万円だと!? ふざけるな! 元は10円のゴミだぞ! そんな法外な価格で稟議が通るわけがないだろう!」

 

 激昂する木崎に対し、陽太は一切動じることなく、スッと1枚のプリントアウトされた紙を差し出した。

 

 それは、東朋マテリアルが先日発表したばかりの中期経営計画の資料だった。

 

「稟議は通りますよ、木崎さん」

 

 陽太の瞳に、獲物を追い詰めた相場師の、底冷えするような光が宿る。

 

「御社は先日、株主に向けて次世代型・高効率純水プラントの開発と、純水生産能力の300%増を大々的に発表してしまった。……株価は期待感で高騰していますが、もし“実証実験は失敗し、計画は白紙になりました”なんて発表(IR)を出せば、御社の株は元通りどころかストップ安だ。株主総会は地獄絵図になり、現場責任者のあなたのクビは確実に飛ぶ」

 

 木崎の顔から、さぁっと血の気が引いていく。

 

 痛いところを突かれたどころの騒ぎではない。企業として、木崎個人としての急所を、完全に握り潰されたのだ。

 

「元が10円のゴミだろうと関係ない。御社の経営陣と株主への約束を守るためには、この1個1万円のフィルターが絶対に必要になる。……これは、俺たちから御社への救済ですよ」

 

「…………ッ」

 

 ギリッ、と木崎が奥歯を噛み締める音が応接室に響いた。

 

 1万の単価で週に500個。週に500万、年間で2億6000万円もの金が、この吹けば飛ぶような零細ベンチャー企業に吸い上げられる。

 

 だが、陽太の言う通りだ。ここで意地を張って計画が頓挫すれば、会社が被る損害は数百億単位になる。なにより、自分の首が飛ぶ。

 

 大企業の弱点を読み切った、若き相場師による完璧な裁定取引(アービトラージ)

 

 木崎は両手で顔を覆うと、肺の底に溜まった泥を吐き出すような、ひどく重い大きなため息をこぼした。

 

「……はぁぁぁ。だから言ったんだよ。発表は早すぎると」

 

 ぐったりと肩を落とした木崎からは、上層部の意向に逆らえない企業人の悲哀が感じられた。

 

「……負けたよ。君たちの言う通りだ」

 

 木崎は凪が差し出した契約書に手を伸ばした。

 

「ただし、週500個の納品、絶対に遅れることは許されないぞ。うちの実験を止まれば、違約金で君たちの会社ごと吹き飛ばすからな。こちらとしては、その方が泥スライムのノウハウが労せず手に入るから都合が良いが」

 

「ご心配いただき恐縮です。ですが、問題ありません」

 

 木崎が苦々しい顔をしながらも契約書に社判を押した。

 

 底辺探索者だった陽太が、時価総額数千億の大企業から、年間2億円超のキャッシュを合法的に掠め取るパイプラインを完成させた瞬間だった。

 

「さて、木崎主任。初回納品は……そうですね。ちょうど1週間後の月曜日ということでよろしいでしょうか」

 

「良いだろう。期待せず待っているよ」

 

 陽太と木崎は内心はどうであれ、表面上はにこやかに固い握手を交わすのであった。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 応接室を出て、ギラギラと太陽が照りつける尾道の港湾部へ出た陽太と凪。

 

 心地よい海風が、二人の間を吹き抜ける。

 

「……大勝利ね、社長」

 

 凪が、ふと恋人時代のような、少しだけ誇らしげな笑みを浮かべた。

 

 陽太も小さく息を吐き、頷く。

 

「ああ。お前が数日で法人を立ち上げ、東朋を逃がさない完璧な契約書を組み上げてくれたおかげだ 、凪。……だが、これで終わりじゃない。むしろここからが本番だ」

 

 契約は取れた。だが、これで陽太は週に500個の完璧な泥スライムの核を、期限通りに納品し続けるという重い義務を背負ったことになる。

 

 毎日のように向島ダンジョンに潜っている陽太だが、週に500個という数字は陽太一人の手作業では厳しい。傷をつけずに核を取り出す技術を持つ人材と、それを処理する生産ラインが必要だ。

 

 次なるターゲット。それは、ダンジョン内で圧倒的な作業精度を誇る、特区に埋もれた職人のスカウトだった。

 

 

*1
特許が下りるかは問題ではなく、出願中という事実が重要

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