IR情報で読み解くダンジョン経済学   作:カトーユキヒロ

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第16話:重鎮の傷

 市場の失敗。新聞にその見出しが並ぶまでに十日と掛からなかった。

 

 薬草の値は上がり続け、病院の調達係は競り負け続けた。固定価格の時代には起きなかったことだ。

 

 週刊誌やゴシップ誌は面白おかしく書き立てた。

 

 それらの報道を受け、世論の一部が牙を剥き始めた。曰く、市場は結局強い者の道具だ。曰く、実証は止めるべきだ。

 

 買い占めの存在を知らなければ、それは正しい怒りに見えた。

 

 行政局には国から停止条項に関する照会が届いた。丁寧な役所言葉の照会状は、要するにこう読めた。

 

『止める準備をしておけ』と。

 

 夕食の席で小春が新聞を差し出した。市場を批判する投書が載ったページだ。

 

「お兄ちゃんの市場、悪いことしてるの」

 

「してない。悪いことをしてる奴を、市場が初めて見えるようにしたんだ」

 

「じゃあなんで怒られてるの」

 

「見えると困る人がいるからだ」

 

 妹は少し考えてから頷いた。学校と同じだね、と。

 

「掃除さぼってる子がいてね。当番表を貼ったら、その子だけすごく怒ったの」

 

「そういうことだ」

 

 陽太は箸を置いた。当番表を貼っただけで怒られる。だが表を剥がせば、また誰も掃除をしなくなる。

 

「怒られてもさ。表は剥がさない方がいいと思う」

 

「……ああ。剥がさない」

 

 ◇ ◇ ◇

 

「敵の絵が完成しつつあるわね」

 

 凪が新聞の見出しを指で叩いた。市場の失敗、という文字が並んでいる。

 

「市場が失敗したことにして止める。止めれば素材は元の窓口に戻る。そして、安全保障に穴を開けた責任は私たち。……よくできた絵よ。しかも、絵を描いてるのは私たちの筆」

 

「ああ。俺が書いた停止条項だ」

 

「後悔してる?」

 

「していない。あれがなければ実証は認められなかった。……ただ、使われ方までは想像し切れなかった」

 

 陽太はホワイトボードの前に立った。

 

「なら絵の具を切らしてやる。品薄は人災だ。人の手で作られた品薄は人の手で潰せる」

 

 反撃は二本立てだった。

 

 一本目は委員会が打った。藤岡委員長の裁定で医療機関向けの優先枠が設けられた。病院と診療所は毎朝のセリに先立ち、必要量を市場価格で確保できる。買い占め名義は優先枠に入れない。登録時の事業実態の確認という、規則の内側の網だった。

 

 優先枠の議論では買い手代表から異論も出た。特定の買い手を優遇すれば市場の公平が崩れるという筋論である。裁定を下したのは藤岡だった。

 

「公平とは同じ扱いをすることではありません。命に関わる需要とそうでない需要を同じ秤に載せることこそ不公平です。ただし枠は緊急時に限り、発動の基準は数値で定めます」

 

 学者の裁定は原則と例外の線を一本で引いた。委員会は機能していた。

 

 陽太はその議論を傍聴席から見ていた。自分は何も言わなかった。言う立場にない。運営は委員会のものだ。

 

(俺が口を出さなくても、この市場は自分で考えて動く)

 

 四年間誰にも読まれない論文を書き続けた男が、今、市場の原則を一本の線で引いている。委ねてよかった、と素直に思った。

 

 二本目は現場が打った。羽山が探索者代表として呼びかけたのである。薬草の採れる島を知る者は出てくれ。売り先は市場が保証する──。

 

「社長。俺、演説なんてしたことねえんすけど」

 

 呼びかけの前夜、羽山は緊張で顔を強張らせていた。

 

「上手くやる必要はない。あんたが本当に思ってることを言えばいい」

 

 当日、羽山は集まった探索者の前で、ただ一言だけ言った。俺の毛皮に、初めて俺の名前で値が付いた。あんたらの薬草にも付く。──それだけだった。

 

 応じた探索者は三日で百人を超えた。命令ではなく、値段と誇りが人を動かした。ウォーター・ベインの工員たちも休みを返上して船の荷役を買って出た。

 

 瀬戸内海の島々が久しぶりに賑わった。薬草の生える島を知る古株が若手を連れて渡り、シーライオンの小型船が採れたはしから運んでいく。夕方の取引所には泥だらけの探索者が列を作った。

 

 その列の中に、椎名の顔もあった。数は多くない。だが一株ずつ根を傷めずに掘り上げた、丁寧な仕事だった。

 

「病院が薬を買えねえって聞いた。……それだけだ」

 

 聞いてもいないのに、椎名はそう言って顔を背けた。

 

 二週間で薬草の出来高は三倍になった。買い占め側が幾ら札を入れても、湧き続ける供給は買い切れない。病院の在庫警報は一つずつ消えていった。

 

 異変は敵の側にも出た。供給が湧き続けると知った五名義の札が初めて乱れたのである。上限を刻むだけだった入札に苛立ちが混ざり、二つの名義が同じ品を競り合う同士討ちまで起きた。

 

(急いでいるな。締め切りが近い)

 

 泥仕合の気配まで、台帳は正確に記録していた。

 

「市場ってのは面白いっすね」

 

 荷揚げを手伝いながら田中が笑った。

 

「誰も命令してないのに、みんなが正しい方に走ってる」

 

「値段ってのは本来そのためにあるんだ。四年間、この国では止まってたけどな」

 

 ◇ ◇ ◇

 

 城島に会ったのはその週の金曜だった。

 

 鷹司が強引に捻じ込んだ面会である。部会で吊るし上げを食った男が、それでも扉をこじ開けてきた。

 

 議員会館の一室は、想像より簡素だった。派閥の長の部屋にありがちな調度も、支持者からの記念品もない。ただ書類の山と、古い机が一つ。

 

 老人は書き物の手を止めずに言った。

 

「五分だけじゃ。話せ」

 

「実証区域の停止に反対します。品薄は市場の失敗ではなく作られた混乱です。データを持参しました」

 

「データ」

 

 城島は初めて顔を上げた。深い皺の奥の目は思ったより澄んでいた。そして冷たかった。

 

「わしはな、若造。データで人が死ぬのを見た人間じゃ」

 

 老人は席を立ち、窓の外の永田町を見下ろした。

 

「あの冬。わしの地元では薬の値が三日で百倍になった。市場に任せよと言う学者がおってな。据え置けば誰も薬を運ばんと。ほう、そうかと任せた。結果、金のある者が買い占めて金のない家の子供が死んだ。四人死んだ。わしはその葬式を全部回った」

 

「……」

 

「翌週にわしは特措法を書いた。全部を国が買い上げ全部を国が配る。学者どもは市場を殺すなと喚いたが、もう誰も死ななんだ。あの冬、正しかったのはわしじゃ」

 

 陽太は反論の言葉を探して、そして探すのをやめた。

 

 この老人の言っていることは、正しい。値段も秩序もない場所で人が死ぬ。市場は万能ではない。それを知っている人間が、知らない人間より慎重になるのは当然だった。

 

(俺が今日ここで論破したい相手は、この人の理屈じゃない。……この人の傷だ)

 

「あの冬は、あなたが正しかったと思います」

 

 陽太は静かに認めた。城島の眉がわずかに動いた。

 

「私も四年前、配給の列に妹と並んでいました。固定価格の日給五千円で妹を食わせた。あの制度がなければ死んでいたかもしれない。……ですが先生。あれから四年です。あなたの制度は飢えは止めましたが、今は別のものを殺している。腕を磨く理由と、明日は良くなるという希望を」

 

「希望では腹は膨れん。それにお前の市場とやらは次の冬に間に合うのか。制度は明日死ぬ者のためにある。未来の希望で今夜の飢えは止まらんぞ」

 

 事実に基づく根の深い問いだった。未来の理想を語る若者に、今夜の現実を突きつける。この老人が四年間、この論法で全ての改革を叩き潰してきたのだろうと分かった。

 

 だが陽太には、答えがあった。数字という答えが。

 

「今回の品薄を二週間で潰したのは配給ではなく値段でした。数字は委員会の議事録に残っています。市場は間に合います。先生の制度がそうだったように、正しく設計すれば」

 

「……」

 

「腹が膨れた後の人間は希望で生きるんです。それに先生。今の品薄は市場が生んだものではありません。あなたの制度の下でも見えなかっただけで、素材はずっと闇で動いていた。市場はそれを見えるようにした。見えたものから目を逸らすために市場を止めるなら、それはあの冬の判断とは別のものです」

 

 沈黙が落ちた。老人は長いこと窓の外を見ていた。

 

「……五分は過ぎた。帰れ」

 

 退出の間際、陽太は机の上の写真立てに気づいた。古い集合写真だ。避難所の前で、老人が幼い子供たちに囲まれて笑っている。写真の端が擦り切れるほど触られた跡があった。

 

 毎日、この写真に触れているのだ。何度も、何度も。

 

 この中に、死んだ四人はいるのだろうか。それとも、救えた子供たちだけが写っているのだろうか。どちらにせよ、この老人は四年間、毎日この写真を撫でながら生きてきた。

 

(この人は、悪人になった英雄だ)

 

「城島先生」

 

 戸口で陽太は振り返った。

 

「あの冬に四人を看取ったあなたなら、今の査定場で目の光を失っていく若い連中のことも見れば分かるはずです」

 

 返事はなかった。だが書き物の筆の音も、しばらく戻らなかった。

 

 廊下で鷹司が待っていた。

 

「どうでした」

 

「傷を見ました。深くて古くて、多分もう本人にも触れない場所にある」

 

「四人の子供、ですか」

 

「聞いていたんですか」

 

「先生が酔うと、たまに漏らすんです。……あの人は四年間、あの冬から一歩も動いていない」

 

 鷹司の声には、政敵に向けるものとは違う響きがあった。

 

「傷は人を強くもすれば、握られれば急所にもなる。……鬼頭はあの傷を握って先生を動かしてるんでしょうな」

 

「あの人を、救えますか」

 

 陽太の問いに、鷹司はしばらく答えなかった。

 

「……分かりません。ただ、救うのと、止めるのは別の話です。俺たちがやるのは、止めることだ」

 

 ◇ ◇ ◇

 

 夜。事務所に二本の連絡が相次いだ。

 

 一本は行政局から。停止条項の適用を検討する評価会議の臨時会が二週間後に招集される。議題は実証区域の継続の可否。

 

 二週間後。それが猶予の全てだった。

 

 もう一本は公衆電話から。受話器の向こうで栗山の声は静かに震えていた。

 

「湊社長。──揃いました。四年分、全部」

 

 陽太は受話器を握りしめた。

 

 金庫の中で眠り続けた紙が、ようやく武器になる日が来たのかもしれない。だが同時に、あの老人の机の上の、擦り切れた写真立てが頭をよぎった。

 

 撃つべき相手の傷を、知ってしまった後だった。




シナリオP91_4_◆イベント 様 盆凡 様 dai3 様
お気に入りに登録いただきありがとうございます。
また、BD3rd様は評価いただきまして、大変嬉しいです。

今後も頑張りますので、よろしくお願いします。
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