IR情報で読み解くダンジョン経済学   作:カトーユキヒロ

63 / 64
第17話:切り札を切る日

 深夜の第二工場に栗山は再び現れた。初めて来た夜と同じ雨だった。

 

 机に置かれたのは分厚い綴りだった。簿外の裏台帳の写し。四年分の転送記録と金額の集計。そして符牒の対応表。

 

「仲間が三人がかりで照らし合わせました。査定場の古株は皆、目と記憶だけは達者でしてな」

 

 栗山の指が対応表の一点で止まった。

 

「先生の取り分と呼ばれてきた符牒の宛先。送金の受け皿は政経懇話会の関連口座。管理しとるのは元公設秘書の事務所です。四年間で総額は──ここに」

 

 書かれた数字を凪が二度読み直した。中抜きの規模は想像を一桁超えていた。

 

「栗山さん。これを出せばあなたは特定されます」

 

 陽太は綴りから目を上げた。この紙束を受け取れば、この男の人生は変わる。守ると約束はできる。だが、失うものをゼロにはできない。

 

「まだ、引き返せます」

 

「湊社長」

 

 栗山は静かに首を振った。

 

「承知の上です。娘に話しました。父ちゃんは悪い秤に判を押してきた。最後に一度だけ正しい判を押してくると。……そしたら娘が笑いましてな。行ってらっしゃいと」

 

 目利きの目が濡れていた。

 

 あの夜、傘の下で震えていた手を陽太は覚えている。あの震えは恐怖だった。今、この男の手は震えていない。

 

 陽太は深く頭を下げた。

 

「協力してくれた方々はどうしますか」

 

「三人とも同じ覚悟です。ですが表に立つのは私一人と決めました。査定場の筆頭が判を押した記録です。真贋の保証には私の名前で十分でございましょう」

 

「保護の段取りは全部こちらで組みます。公益通報の要件は凪が固めました。書類は鷹司議員を通じて然るべき場所へ。あなたと家族の安全が最優先です。それだけは譲りません」

 

「……ありがたいことで」

 

 栗山が帰った後、事務所に残ったのは重い沈黙だった。

 

「陽太。撃つのね」

 

「ああ」

 

「城島さんの傷を見た後でも」

 

 凪の問いに、陽太はしばらく答えなかった。議員会館の机の上の、擦り切れた写真立てが浮かぶ。

 

「傷は本物だった。だが、傷が本物だからといって、栗山さんの四年が帳消しになるわけじゃない。……あの人が救った命と、あの人が奪ったものは、別々に数えなきゃならない」

 

 金庫が開かれた。半年眠っていた最初の紙束の上に、四年分の重みが重ねられた。切り札は完成した。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 臨時会の朝、傍聴の列は建物を半周した。市場が止まるかもしれないという報せは、開場の日にセリ台を囲んだ人々をもう一度集めていた。羽山も本田も藤岡も、それぞれの席でそれぞれの持ち場に就いている。

 

 列の中に、椎名の姿もあった。目が合うと、いつものように顔を背けた。だが今日は、そこに立っていることそのものが答えだった。

 

 陽太は資料の束を握り直した。開場の日、この市場は誰のものでもないと藤岡は言った。ならば今日、この市場を守るのは自分一人の仕事ではない。

 

 評価会議の臨時会は満席の傍聴人の前で開かれた。議題は実証区域の停止の可否。城島の意を受けた委員が口火を切った。

 

「医療素材の混乱は市場の構造的欠陥である。認定時の停止条項に基づき、実証の中断を求める」

 

「湊参考人。反論を」

 

 陽太は三枚のパネルを立てた。

 

「第一に、混乱は既に収束しています。医療優先枠と供給の増加で薬草の在庫警報は全て解除されました。数字はお手元の資料のとおりです。第二に、混乱の原因です。品薄は需要の急増でも供給の不足でもない。五つの名義による組織的な買い占めでした。買い付けの記録、名義間の資本関係、国外への搬出経路。すべて台帳と登記から再構成できます」

 

 資本関係図が示されるたび、場内のざわめきが大きくなった。五つの箱が東洋振興投資に束ねられ、その資金が海の向こうの壁に消える図である。

 

「第三に。この買い占めを止める法がこの国にないことこそが、本日ただ一つの構造的欠陥です。市場は異常を見つけました。見つけた異常を止める手足がない。ならば作るべきは停止ではなく法律です」

 

 停止派の委員が食い下がった。

 

「買い占めが事実だとしても、それを許したのは市場の脆弱性ではないのか」

 

「固定価格の四年間も同じ素材は闇で動いていました。見えなかっただけです。脆弱なのは市場ではなく、見えても止められない法の方です。泥棒が映ったからといって防犯カメラを壊す家はありません」

 

 議決は挙手だった。停止の否決、賛成多数。市場は生き延びた。

 

 だが本当の爆発はその日の午後に起きた。

 

 衆議院の委員会質疑。鷹司は静かに切り出した。

 

「先般、ギルド内部の公益通報者から四年分の会計記録の提供を受けた。しかるべき機関には既に提出済みである。その上で政府に伺う──」

 

 買い叩いた素材の転売差益。簿外への抜き取り。そして特定の政治団体への資金の流れ。パネルが一枚めくられるたび議場の空気が凍っていった。名指しはしない。だが誰の話かは全員が分かっていた。

 

 英雄の転落を世間は騒ぎ立てた。だが鷹司は一度も勝ち誇らなかった。

 

「あの人を裁くのは司法と選挙区の仕事だ。俺たちは制度の続きを書くだけです」

 

 夕方、速報が流れた。東京地検特捜部、東洋振興投資および関連政治団体の関係先を捜索。

 

 三日後、城島は離党を表明した。会見はわずか四分だった。老人は原稿を読み上げ、質問を受けずに席を立った。去り際にカメラが捉えた横顔は怒りでも恐怖でもなく、ただ酷く疲れて見えた。

 

 中継を、陽太は事務所で一人見ていた。誰も歓声を上げなかった。田中も、羽山も、この日ばかりは静かだった。

 

「勝った気がしないっすね」

 

 田中がぽつりと言った。

 

「ああ」

 

 陽太は議員会館の写真立てを思い出していた。端が擦り切れるほど触られていた、あの避難所の子供たちの写真。英雄の傷は最後まで本物だったのだと思う。本物の傷に利権が巣食ったとき、人はどこか引き返せなくなるのだろう。

 

(俺は、引き返せる場所にいるのか)

 

 秤を作った者が、いつか秤に取り込まれる。それを見た後で、自分だけは違うと言い切れる自信は、陽太にはなかった。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 崩れなかった男が一人だけいた。

 

 裏台帳のどこにも鬼頭の名はなかった。決裁は全て広島本部止まり。指示は口頭。金は先生の取り分という符牒の向こうへ消え、その先の帳簿を書いたのは城島の秘書だった。設計者は図面に署名しない。

 

 ギルドは捜査開始の当日に全面協力を表明した。会見に立った鬼頭は内部調査の資料を自ら差し出し、広島本部の幹部の更迭と査定制度の全国的な見直しを発表した。潔さは称賛すらされた。

 

「よろしいのですか」

 

 会見の後、黒崎が初めて問うた。

 

「城島先生は、四年間ギルドを支えてこられた方です。あの方を切り捨てて、我々に痛みはないのですか」

 

「痛み、ですか」

 

 鬼頭は手帳を閉じて答えた。

 

「腐った枝は切る。木は残る。それだけのことです」

 

 黒崎は言葉を失った。この男は、四年連れ添った後ろ盾を、枝と呼んだ。

 

 老人はただ静かに手帳の次の頁を開いた。新しい頁には既に幾行かの文字が並んでいた。最初の二文字は──欧州。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 一月後。特定迷宮資源の対外取引の適正化に関する法律が超党派の賛成で成立した。通称は資源取引適正化法。採決の日、参議院の傍聴席には尾道から渡ってきた顔がいくつも並んでいた。大量取得の届出。外国資本の審査。そして輸出の管理。取引所の台帳は、法律の目として正式に組み込まれた。

 

 採決の後、鷹司が傍聴席に短い一礼をした。

 

 党内での鷹司の立場は、奇妙なものになっていた。

 

 党の英雄でもあった城島。英雄を撃った男を、党は本来なら切りたかったはずである。だが切れなかった。不正を暴いた議員を党が処分すれば、次の選挙でどうなるか。誰にでも分かる算数だった。中継の再生数はうなぎ登り、事務所には全国から激励が届く。世論が鷹司を守っていた。

 

 もう一つ、切れない理由があった。切ろうとした者たちが、先に消えたのである。城島の離党とともにその周辺は崩れ、鷹司を部会で吊るし上げた面々は自らの潔白の証明に忙しい。鷹司を干すはずだった手が、根こそぎ落ちていた。

 

 結果、この男は党内で孤立したまま党籍を保った。派閥もなく、後ろ盾もなく、ただ世論という不確かなものだけを背にして。

 

「湊さん。ボールは繋ぎました」

 

「受け取りました」

 

「なら、俺の仕事は一旦ここまでです。……次はあなたが走る番だ」

 

 東洋振興投資は届出義務違反で告発され、五つの名義は登録を抹消された。静かな買い手は市場から姿を消した。少なくとも、この五つの顔は。

 

 同じ月、取引所の鑑定室に新しい査定人が着任した。

 

「表の秤で目利きがしたいと、ずっと思うとりました」

 

 栗山は真新しい等級印を娘からの贈り物のように撫でた。ギルドを辞めた男を、市場は経歴ではなく腕で迎えた。

 

 着任の初日、鑑定室に羽山が毛皮を持ち込んだ。

 

 二人は互いを知っていた。査定台の窓口の内と外で、四年間、幾度も向き合ってきた顔だった。だが名前を交わしたことは一度もない。

 

 栗山は一目で特級の判を押し、それから深々と頭を下げた。

 

「四年間、あなた方の仕事に安値を付け続けた側の人間です」

 

 羽山はしばらく黙っていた。あの窓口で何度も伝票を折り畳んだ手が、今、拳を握っている。

 

 それから、その手をゆっくりと開いた。

 

「……なら今日からは、正しい値を付けてください」

 

 二人の男の間で、歪んだ秤の時代が静かに終わった。

 

 ◇ ◇ ◇

 

「陽太。見て」

 

 夕方の事務所で凪が一通の封書を差し出した。差出人は欧州国際資源評議会。重厚な紋章の下に、流麗な日本語でこう書かれていた。

 

 貴取引所の規格は国際標準との適合性に疑義がある。協議の席に着かれたい──。

 

「……次は欧州か」

 

 陽太は封書を窓の光にかざした。国際標準との適合性に疑義がある。丁寧な言葉で書かれた、要するにお前たちの秤は正しくないという通告だった。

 

 自由の国が来た。名乗らない国が来た。今度は古い規則の大陸が来る。開かれた市場に、世界は次々と試練の顔で訪れる。

 

「世界は忙しいわね」

 

「望むところだ。市場は開けたまま迎える」

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。