選択肢は三つあると凪は整理した。
「一つ。拒否する。欧州の市場を失うけど独立は守れる。鎖国ね。二つ。受け入れる。世界で売れるようになるけど等級の決定権を外に渡す。植民地ね。そして三つ──」
「第三の道。対等の相互承認だ。うちの規格とあちらの規格を互いに認め合う」
「言うのは簡単よ。相互承認は規格同士の条約。こちらに文書化された規格がなければ土俵にすら上がれない。今あるのはあなたのスキルと栗山さんの帳面だけ」
「規格はこれから作る」
「二週間で? 欧州が百年かけたものを?」
凪の声には呆れと、それを上回る何かが混じっていた。
「百年かけたのは、ゼロから手探りしたからだ。俺たちには答えがある。栗山さんの四年分の帳面と、俺の目だ。あとは翻訳するだけだ」
「翻訳」
「そうだ。ないものを作るんじゃない。あるものを、誰にでも読める言葉に置き換える。それなら二週間でできる」
凪はしばらく陽太を見て、それから机の日程表を引き寄せた。もう反論はしなかった。
「わかった。なら二週間で作りましょう。私たちならできる」
回答の期限まで十四日。事務所の壁に日めくりが貼られ、毎朝一枚ずつ剥がされていった。
プロジェクトは三本立てで走り出した。
一本目は藤岡の研究室が担った。栗山ら目利き三人の判定と
二本目は機器だった。つむつむの事前実験で
「ちゃっかりしてるわね」
「大企業はこうでなくちゃ困る。共犯者は多いほどいい」
陽太は納品書の一筆を眺めて笑った。かつて自分に首を持っていかれかけた男が、今は自ら共犯者の席を求めてくる。
三日で計測器を仕上げてきたのも、恩でも義理でもないだろう。この規格が世界標準になれば、計測器を作った東朋が最初に儲かる。木崎はそう計算している。
(それでいい。善意より計算の方が長持ちする)
東朋の計測器は
三本目は文書化である。栗山の四年分の帳面から判定の基準を条文に起こす作業だ。色艶の基準は色見本の番号に。手触りは器具の目盛りに。匂いは成分の数値に。目利きの言葉が一つずつ、誰にでも読める規格の言葉へ翻訳されていった。
「妙な気分でございますなあ」
深夜の作業場で栗山が呟いた。
「目利きの技は盗んで覚えろと言われて育ちました。それを世界中の誰でも読める紙にしとる。師匠が見たら卒倒しますわ」
「公開を取りやめますか?」
「まさか。技を隠して守れるのは技だけです。紙にして開けば市場ごと守れる。……娘にも言えますしな。父ちゃんの目は世界の物差しになったと」
陽太は帳面を繰る栗山の手を見ていた。四年間、歪んだ秤に判を押し続けた手だ。その同じ手が、今は世界の物差しを刻んでいる。
「栗山さん。一つだけ聞かせてください」
「なんでございましょう」
「悔しくないですか。この規格が完成すれば、あなたの技を、経験の浅い若い連中でも使えるようになる。四年かけて磨いた目が、紙一枚に化ける」
栗山は手を止め、それからゆっくりと笑った。
「湊社長。目利きの誇りというのはですな、自分だけが分かることではございません。……良い品に、正しい値が付くことでございます」
その一言に、陽太は言葉を失った。
「若い衆が私の紙を読んで、良い品に正しい値を付ける。それを見て死ねるなら、目利き冥利に尽きますわ」
検証の現場は静かな熱気に包まれた。番号だけを振られた素材が台に並び、栗山たちが一点ずつ判を置いていく。別室では陽太が同じ素材に視線を走らせた。
【
双方の判定は封をして藤岡の研究室へ運ばれる。突き合わせの瞬間だけは、部屋の全員が息を止めた。
検証用の素材集めには羽山や椎名たちが走り回った。等級の分布に偏りが出ないよう、上物からくず物まで満遍なく揃える。くず物の調達は任せてくれと椎名は苦笑いした。昔の俺の隣にいくらでも積んである。
◇ ◇ ◇
検証の結果は五日目に出た。藤岡の声は電話越しでも上ずっていた。
「一致率97%です。しかも不一致だった3%を精査したら、全て目視側の誤りでした。湊さん、あなたのスキルは基準器になります。規格の世界で言う原器です。個人の技ではなく、規格全体を校正する物差しとして位置づけられる」
属人だから駄目なのではない。属人のままにしておくから駄目なのだ。
受話器を握ったまま、陽太はしばらく動けなかった。
原器。世界のどこかに一つだけ置かれ、他の全ての物差しがそれに合わせて校正される、基準の中の基準。
自分の目がそれになる。原器は日々の計測には使われない。倉庫の奥で静かに眠り、時折、他の物差しの狂いを正すためだけに取り出される。
(これで、完全に俺の手から市場が離れるんだな)
寂しさはあった。だがそれ以上に、正しさがあった。市場が自分を必要としなくなる日。それこそが、この半年間目指してきた場所だったはずだ。
設計は一気に固まった。
瀬戸内等級規格。委員会の議決でそう名付けられた。制定の主体は湊陽太ではない。運営委員会である。
鑑定人資格の一期生には栗山の推す目利き二人に加え、若手の探索者や仲買人の名が並んだ。技が資格になり、資格が職になる。市場は値段だけでなく仕事まで生み始めていた。
「これでいい」
規格書の表紙に委員会の印が押されるのを見届けて、陽太は静かに言った。
「取引所を作ったとき、価格と運営を手放した。今日、等級を手放した。これで本当にこの市場は誰のものでもなくなった」
「寂しい?」
「多少はある。でも、軽くなった」
陽太は規格書の表紙を撫でた。制定者の欄に自分の名はない。運営委員会とだけある。
「この四年間、俺は手札を隠すのが仕事だった。誰も知らない情報を握って、握っている間だけ勝てた。……握るのをやめたのは、これが初めてだ」
「怖くないの? 手札がなくなるのよ」
「問題ない。手札を配ってしまえば、盤ごと自分のものになる」
凪は少し目を見開き、それから笑った。
「やっぱり相場師ね、あなた」
◇ ◇ ◇
公開協議の三日前、陽太は一本の国際電話をかけた。
「ハワードさん。貸しを返す機会と新しい貸しを作る機会、どちらの話がお好みですか」
「両方に決まっているでしょう」
事情を聞き終えたハワードは受話器の向こうで笑った。
「クローネ卿ですか。よく知っていますよ。規格で大陸と大陸で商売する部外者を締め上げてきた古狸だ。……いいでしょう。協議の当日、公開の席でうちの購買方針を発表しましょう。瀬戸内等級規格をサンダーソンは自社の購買基準として採用する。欧州が扉を閉めるならうちが全部買う。それだけで卿の椅子は半分燃えます」
「恩に着ます」
「なに、良い市場への投資です。それにねミナトさん。権威と権威をぶつけて漁夫の利を取る。あなたもだいぶ悪い顔になってきましたね」
「相場師の顔に戻っただけですよ」
「結構。……ミナトさん。一つだけ確認しても? あなたの規格、本当に誰でも使えるのですか」
「使えます。試験に受かれば、明日からでも」
「では、うちの検査員にも受けさせましょう」
ハワードの声から、笑いが消えていた。
「我々は世界中の市場で規格を押し付けられ、そのたびに金を払ってきました。……初めてです。金を払わずに受け取れる規格は」
「うちは通行料を取らない主義でして」
「その主義で世界が回るなら、私は喜んで失業しますよ」
通話を切ると凪が呆れ顔で言った。
「借りがまた増えたわね。あの人に」
「ああ。だが金の借りじゃない。市場の借りだ。市場の借りは市場で返せる。良い品を出し続ければいい」
「緊張してる?」
「してる。だが良い緊張だ。負けても俺一人の負けじゃない代わりに、勝てば全員の勝ちになる」
◇ ◇ ◇
協議の前夜。閉場後の取引所の黒板の前に、委員たちが自然と集まっていた。
誰が呼んだわけでもない。ただ、明日を前にして、この場所に来ずにいられなかった。
藤岡は規格書を抱えている。栗山は四年分の帳面を。羽山は現場の探索者百人分の署名を。本田は買い手側の賛同書を。それぞれの紙が、それぞれの四年間だった。
「一つだけ、確認させてください」
藤岡が口を開いた。委員長としてではなく、一人の研究者としての顔だった。
「明日、もし負けたら。この規格はどうなりますか」
「規格は残ります」
陽太は即答した。
「欧州が認めなくてもこの規格は正しい。正しいものはいつか必ず認められる。……時間はかかるでしょうが」
陽太は周りを見渡して、一人一人の顔を見た。
「時間がかかっても待てますか」
「待ちます。四年待ったんだ。あと少しくらい、どーってこたないっすよ。」
羽山が笑った。田中も笑った。栗山が静かに頷いた。
「明日は俺一人が戦うんじゃありません」
陽太は黒板を背に全員を見渡した。
この場所に立つ一人ひとりに、四年間があった。値が付かない毛皮を担いだ日々。誰にも読まれない論文。査定台の内側の孤独。畳みかけた会社。腕を捨てた男。全部が、明日、一枚の規格書になって世界と向き合う。
「規格書が戦う。帳面が戦う。署名が戦う。──この市場が、市場ごと戦う。全員で行きましょう」
バベル 様 Noir15 様 YTM 様
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