SS8だけ第2章後の話なので、お気を付けください。
二つの現場
瀬戸内シーライオンの買収が済んで間もない頃のことである。
村上一鉄は、久しぶりに潮の匂いの濃い場所に立っていた。因島の造船所。錆と塩と油の混じったこの匂いを、一鉄の体は右腕を失う前から覚えている。義手の指先が、無意識にぴくりと動いた。
「村上工場長。わざわざすみません。親会社の工場長が出張ってくるなんて」
迎えに出たのはシーライオンの整備主任だった。悪気はない。ただ、造船所の人間がよその工場長を見る目には、どこか値踏みの色があった。畑違いの男に何が分かる、という顔だ。一鉄はその視線に慣れていた。義手を見る目とよく似ている。
「忙しいところ、時間を取らせてすまんな。ただ、こっちも社長命令なんでね。船と塗料、両方の現場が分かる人間が要る、と」
「両方……ですか」
「ああ。おたくらの船に、うちの第二世代塗料を塗る。その話だ」
整備主任の眉が寄った。よそ者が縄張りに口を出しに来た、という顔だ。
「悪いが工場長さん。船のことは船屋が一番分かってる。よそ様の流儀を持ち込まれても困るんですわ」
「同感だ」
一鉄があっさり頷いたので、主任は拍子抜けした顔をした。
「俺も三十年、船の現場にいた男でな。本職は溶接で特級持ち。塗装も艤装も一通りやった。造船所を追われるまではな。だから、船屋に研究室の理屈を押し付けても、現場は動かんのは重々承知だ。……だが、研究室の理屈を船屋の言葉に翻訳できたら、どうだ」
「翻訳、ですか」
「そのために俺が来た。どっちの現場も知ってる人間は、そう多くない」
一鉄は義手で船体をひと撫でした。冷たい鋼の感触が、義手越しにも伝わってくる気がした。
◇ ◇ ◇
瀬戸内シーライオンの船は止められない。瀬戸内海の物流の生命線だ。素材も純水も加工品も、この船団がその大半を運んでいる。一隻でも欠ければ、どこかの現場で物が滞る。だから船の修理は、運航を止めずに回さねばならない。
そして、タイムリミットも近づいていた。フジツボの影響は日を追うごとに増えていく。早く修理しなければ、致命的な事故が起こる可能性が高い。可及的速やかに修理を完了する必要があった。
直しては出し、また次を入れる。綱渡りのローテーションだった。
そのローテーションで問題が発生したのは、ウォーター・ベイン社の第二世代塗料の仕様が原因だった。船体を保護し、燃費を改善し、フジツボの付着を防ぐ。数字の上では夢のような塗料だが、問題は単純で、そして根が深かった。
「乾かねえんだよ、これが」
整備主任が塗装済みの船体を叩いた。
「おたくの塗料は、塗装全部が完了するまでに丸二日かかる。うちのドックの回転は一隻あたり一週間だ。フジツボの侵食が酷いやつは溶接だけで五日食う。塗装に二日取られたら、船を出せねえ。ローテーションが崩れる」
一鉄はドックを端から端まで歩いた。塗装待ちの船。修理待ちの船。順番を待つ船が数珠つなぎになっている。まるで、心臓の動きに血の巡りが追いつかない体のようだった。
一鉄は塗膜に義手の指を這わせた。まだ湿っている。工員の技量が悪いから、塗料の乾きが甘いのではない。工程の噛み合わせが悪いのだ。
(船屋は塗料を待ってる。塗料屋は船の都合を知らねえ。誰も悪くねえ。ただ、間に立つ者がいねえだけだ)
「主任さん。一層目の塗料が完全乾燥してから、二層目を塗布しているよな」
「……当たり前だ。手順書通りにやるんだから」
「そこだ」
一鉄の目に、造船所にいた頃の光が戻っていた。
◇ ◇ ◇
その夜。一鉄は尾道の第二工場に戻り、開発室に来ていた五十嵐紬を捕まえた。紬は広島大学の研究室で得たデータを、工場で実証している最中だった。
核の工程で毎日スライムを相手にしていると、研究側との行き来は日常になる。研究者の言葉を現場の言葉に直し、現場の困りごとを研究者の言葉に直す。紬とのそういうやり取りには、とうに慣れていた。
「この塗料、手順書には下地が完全に乾いてから塗れと書いてある。なぜか教えてくれ」
「実験で、水分が残っていると密着が悪くなったんです。二度塗りの一層目も、完全乾燥が前提で」
「一層目が半乾きのうちに二層目を重ねたら、どうなる」
紬は眉をひそめた。
「……理屈の上では、密着はむしろ良くなるかもです。同じ樹脂系ですから、半乾きなら界面で混ざり合う。ただ、そういう塗り方は想定していませんし、想定外ですから実験もしてません」
「嫌味を言う訳じゃねぇが、この手順書は研究室の理想が書かれてる。ドックの都合は入ってない」
「……確かに、手順書は理想的な条件を前提にしています。乾燥時間も、余裕を持たせた数字です」
「余裕ってのはな、現場じゃ無駄って意味になることもある」
一鉄は義手をゆっくりと握った。造船所で三十年、溶接を本職にしながら塗装の現場も踏んできた。多能工というのは、そういうものだ。塗料の中身の理屈は研究室のものだ。だが、塗料を塗る現場の理屈は、船屋のものだ。二つの理屈は、今まで一度も同じ机に載ったことがなかった。それぞれの現場が、それぞれの正しさの中で完結し、隣の現場を知らずにいた。
「あんたらは優秀だ。数字に嘘がねえ。だが、その数字が船のドックでどう動くかは、船屋に聞かねえと分からん。俺は、その通訳をやろうと思う」
一鉄は紬に頭を下げた。
「試させてくれ。半乾きの重ね塗り。乾燥を一工程に縮める」
「もし失敗したら、塗膜ごと剥がれます。船一隻分の塗料が無駄に」
「無駄にはせん。俺が立ち会う」
◇ ◇ ◇
試験は三日後、因島のドックで行われた。
一鉄は義手に軍手をはめ、自ら刷毛を握った。若い工員が驚いた顔をした。工場長が現場で刷毛を持つとは思っていなかったのだろう。
「よし、この辺は一層目の塗布からだいたい二時間くらいか。見てろ。一層目を指で触れて、糸を引くくらいの半乾きで二層目に入る。乾ききる前だ。タイミングは──」
一鉄は塗膜に義手の指先を当てた。感覚のない指だ。だが、義手の関節に伝わるわずかな抵抗で、塗膜の粘りが読める。健常な指では分からない、微細な引っかかり。皮肉なことに、失った腕が、この仕事には向いていた。
義手を掴まされた詐欺師を、一鉄は今でも許してはいない。だがこの粗悪品まがいだった義手も、いつしか自分の体の一部になっていた。感覚のない指の先で、それでも塗膜の声を聞こうとする。失ったものを嘆く時期は、とうに過ぎていた。
「今だ。二層目、いけ」
工員たちが一斉にローラーや刷毛を走らせた。
二日かかっていた塗装工程が、半日に縮んだ。塗装と修理を並行させれば、ドックの回転を止めずに塗料を塗れる。ローテーションは崩れない。
整備主任が、乾いた塗膜を拳で叩いた。硬い、澄んだ音がした。
「……剥がれねえ。むしろ前より硬えぞ、これ」
「界面で混ざったからだ。研究室の言うとおりさ。ただ、いつ混ぜるかは、船屋にしか分からなかった」
整備主任は、塗膜と一鉄の義手を交互に見た。それから、ばつが悪そうに頭を掻いた。
「工場長さん。さっきは畑違いだなんだと、悪かった。あんた、正真正銘の船屋だったんだな。それでいて研究屋の言葉まで分かるときてる」
「船屋としちゃ、腕を一本置いてきた身だ。ただな、多能工ってのは、隣の持ち場との繋ぎ目を見るのが仕事なんだ。溶接と塗装の繋ぎ目も、船と塗料の繋ぎ目も、見方は同じさ」
一鉄は軍手を外し、義手の指をゆっくりと開いた。感覚のない指の関節に、塗料がわずかにこびりついている。悪くない感触だった。
◇ ◇ ◇
工程が固まると、二つの現場の空気が変わった。
造船所の工員が、塗料の性質を尋ねに尾道の工場へ来るようになった。紬たち研究側の人間が、実際の船のドックへ足を運ぶようになった。今まで顔も合わせなかった二つの現場が、一鉄という一本の橋を渡って行き来を始めた。
「親方。この前の重ね塗り、他の樹脂系でも使えますかね」
整備主任は、いつのまにか一鉄を「工場長」ではなく「親方」と呼ぶようになっていた。造船所で腕の立つ職人に贈られる、あの呼び名だった。
「使える。ただし樹脂ごとに半乾きのタイミングが違う。そこは一つずつ、体で覚えるしかねえ」
「体で、ですか」
「ああ。手順書には書けねえ領域だ。……職人の勘ってヤツだ」
一鉄は義手を見た。造船所を追われた日、この腕とともに、職人の誇りも失ったつもりでいた。だが、失われていなかった。腕が変わっても、二つの現場を見る目と塗膜の粘りを読む感覚は、まだこの身に残っていた。
あの社長は、日給五万で自分を雇い、家族を取り戻させてくれた。麻衣は高校へ進み、教師になる夢をもう一度追い始めた。佐代子の顔から、あの頃の翳りが消えた。その恩は、金では返しきれない。
だからこそ、と一鉄は思う。恩を返す方法は、頭を下げることではない。この身に残った腕で、あの坊主の会社を、少しでも前へ動かすことだ。船と塗料の間に立ち、二つの現場を噛み合わせる。それが、村上一鉄にしかできない恩返しだった。
◇ ◇ ◇
報告に行くと、陽太は数字だけを見ていた。
「塗装工程が四分の一。ドックの回転は落ちない。……一鉄さん。これは、俺が机の上で引いた線を、あなたが現場で繋いでくれたお陰だ」
「坊主が無茶な線を引くからだ。ギリギリのローテーション組みやがって」
「無茶でしたか」
「そりゃあ無茶だぜ。だが、面白かった」
一鉄は正直に言った。泥スライムの核工場の工場長として、日給五万で雇われ、家族を取り戻した。その恩は生涯忘れない。だが、今日の面白さは、恩とは別のものだった。造船所を追われて以来、久しく忘れていた、二つの現場が噛み合う瞬間の手応え。それがこの若い社長のもとには、いくらでも転がっている。
「坊主。一つ頼みがある」
「なんです」
一鉄は少し迷ってから、口を開いた。第一工場の工場長という肩書きは、家族を養う何よりの証だ。それを手放すような申し出を、恩人に切り出すのは勇気が要った。だが、現場を噛み合わせる手応えを一度知ってしまえば、もう黙ってはいられなかった。
「第一工場の核の生産は、もう若いのに任せても回る。仕組みは作った。あとは回すだけだ。……だから俺を、もう少し船に関わらせてくれ。造船所と工場の橋渡しなら、俺が一番うまくやれる」
陽太はしばらく一鉄を見て、それから小さく笑った。
「断る理由がありません。むしろ、こちらから頼みたかった」
「決まりだな」
一鉄は義手を差し出した。陽太がその冷たい金属の手を、迷いなく握った。
「一鉄さん。あなたは腕を一本失って、代わりに二つの現場を手に入れた」
「……坊主。それは慰めか」
「事実です。俺は事実しか言わない主義ですよ。一鉄さんもご存知でしょう?」
窓の外では、塗装を終えたばかりの船が、夕暮れの瀬戸内へ静かに滑り出していくところだった。船体は、フジツボ一つ付いていない。二つの現場が初めて噛み合った、その証のように光っていた。
最初の判
朝の食卓に味噌汁の湯気が立っていた。
栗山は箸を置き、湯呑みの茶をゆっくり飲み干した。向かいの席で娘が弁当の包みを差し出してくる。
「今日は大口の競りでしょう。早く行かないと」
「よく知ってるな」
「新聞に出てたもの。瀬戸内素材取引所、本日今年最大の競りって」
娘は少し得意げに笑った。この食卓で職場の名前が出るようになったのは、ここ数ヶ月のことである。
査定場に勤めた四年間、栗山は家で仕事の話をしたことがなかった。どんな素材を検めたのか。どんな判を押したのか。話せば嘘を混ぜることになるからだ。娘も母親も、いつからか職場のことを聞かなくなっていた。あの沈黙は気遣いだったのだと、今は分かる。
「そういえばね。学校の友達のお父さんが探索者なんだけど」
娘は箸の先を軽く振りながら続けた。
「取引所の査定は理由を教えてくれるから助かるって、家で言ってたんだって。前は判子の数字を黙って渡されるだけだったって」
「……そうか」
「その査定してるのがうちのお父さんだって言ったら、驚いてた」
栗山は湯呑みを置いた。四年間押し続けた判のことを、娘は知っている。全部話した上で送り出してくれた。だからこそ今の言葉は、娘なりの精一杯の言い方なのだと分かった。あの判は、もう恥ではないのだと。
「お父さん」
玄関で靴紐を結ぶ背中に、娘の声がかかった。
「お仕事、楽しい?」
栗山は少しだけ考え、それから答えた。
「ああ。楽しい」
「ふうん。そう」
娘は満足そうに頷き、それからいつもの調子で言った。
「行ってらっしゃい」
軽い声だった。
あの朝は違った。四年分の帳簿の写しを鞄に収めた朝。娘は同じ言葉を同じ調子で言ってくれたが、あれは送り出す挨拶ではなく覚悟を確かめる言葉だった。
今は違う。ただの朝の挨拶だ。
その軽さが、何よりありがたかった。
◇ ◇ ◇
瀬戸内素材取引所の鑑定室は、競り場を見下ろす倉庫の二階にある。
窓の下では今日も競り台が人で埋まりつつあった。造船所の職人たちが組み上げた台は百年もつと豪語されたが、一年経たぬうちに早くも市場の顔になっている。
栗山の仕事は競りに掛かる前の査定である。持ち込まれた素材を瀬戸内等級規格に照らし、劣化率を測り、等級を定めて台帳に記す。判を押せば素材は等級の名札を下げて競り台へ運ばれていく。
「栗山さん。この薬草なんですが」
隣の机から若い査定人が声をかけてきた。鑑定人の試験を控えた青年で、このところ毎日何かしら聞いてくる。
「乾燥の具合が規格の文言と合わない気がして。基準の写真より色が浅いんです」
栗山は薬草を受け取り、葉を一枚裏返した。
「色は産地で変わる。見るのは葉脈です。ここの筋が透けていれば乾燥は足りている。写真は入口で、決め手は素材の側にある」
「葉脈……。ああ、確かに透けてます」
「規格は物差しです。ただ物差しを当てる場所を知るのが目利きの仕事でしてな。試験に出るかは知りませんが」
「栗山さんは受けないんですか。鑑定人の試験」
「私ですか」
「筆記なんて満点でしょうに」
栗山は薬草を青年に返しながら、少し考えた。
「……順番というものがあります。私はまだ、判で返すべきものが残っておりますから」
青年は意味を測りかねた顔をしたが、それ以上は聞かずに礼を言って自分の机に戻っていった。
四年分の判の借りは、四年かけて返すしかない。資格はそれからの話だ。
朝一番の獣皮を検めながら、栗山はふと自分の手を見た。
震えていない。
当たり前のことだ。だがその当たり前が、長い勤めのあいだ当たり前ではなかった。
査定場の筆頭だった頃、判を押す手は素材ではなく空気を読んでいた。本部の顔色。今月の数字。判の重さは素材の価値ではなく押す側の都合で決まっていた。
今は目の前の毛並みと、計測器の示す数字。読むべきものはそれだけだ。
東朋の計測器が示した劣化率を台帳に写す。数字に迷いはなく、判にも迷いはなかった。
◇ ◇ ◇
昼。港の近くの食堂で、見知った顔と隣り合わせた。
ギルド査定場の後輩だった男である。告発の後も窓口に残った七人のうちの一人だ。
「……ご無沙汰しております。筆頭」
「よしなさい。もう筆頭じゃありません」
男は薄く笑い、うどんの丼に目を落とした。
「窓口は今、静かなもんですよ。素材はみんな競り台に行っちまう。うちに来るのは討伐報告と、昔ながらの付き合いの分くらいで」
「そうですか」
「本部の見直しとやらで上の人らは総入れ替えです。残された俺たちは、まあ、宙ぶらりんです」
愚痴の調子ではなかった。ただ事実を述べるだけの声だった。それが却って栗山の胸に刺さった。
「……申し訳ないことです」
「何がです」
「私一人だけ、明るい場所に出た」
男は箸を止めた。それからゆっくり首を振った。
「筆頭があの判を押してくれたから、査定場の人間は初めて胸を張れたんですよ。うちの秤は狂ってた。狂ってると言った人間が、うちの中から出た。……残る理由には、それで十分です」
「……」
「それに」
男は少しだけ笑った。
「あの等級規格、窓口でもこっそり使ってるんです。物差しがあると査定は楽でいけませんな。癖になります」
「……こっそり、ですか」
「上には内緒です。窓口の判に規格の根拠は要らないってのが、まだ建前ですから。それでも書き添えとくんですよ。台帳の隅にちいさく、根拠の数字を」
誰に見せるためでもない数字を、七人は毎日書き続けている。いつか誰かが見る日のために。
冗談の顔をしていたが、冗談ではなかった。正しい秤で働きたい。四年間誰にも言えなかった本音が、物差しという言葉の後ろに透けていた。
伝票を掴んで先に席を立った男の背中を、栗山は見送った。
窓口の中にも秤を直したい人間はいる。ずっといたのだ。
◇ ◇ ◇
午後。競りの締め切り間際に、若い探索者が鑑定室へ駆け込んできた。
「頼んます。今日の競りに、どうしても間に合わせたくて」
抱えてきたのは獣皮が三枚。息を切らし、額の汗も拭わずに検分台へ皮を広げる。
検めた瞬間、栗山の目が止まった。
際どい皮だった。毛並みは上物である。だが腹の側に処理の遅れによる変色が出ている。上の等級と下の等級の、ちょうど境目に立つ品だ。
若者の顔には焦りが浮かんでいた。防具は使い込まれ、靴は擦り切れている。この判ひとつで今月の実入りが大きく変わる立場なのだろう。
顔色を読む癖が、ふと首をもたげた。
査定場の四年間で染みついた癖だ。持ち込む者の顔を見て、場の空気を見て、判の重さを変える。安く叩く側に狂わせるのも、情で甘くする側に狂わせるのも、秤を狂わせるという一点では同じことだ。
栗山は一度目を閉じ、開いた。
見るべきは皮である。
計測器を当て、変色の広がりを測り、規格の条文と照らす。数値はわずかに下の等級へ触れていた。ほんのわずかに。だが触れていた。
「……下の等級ですな。腹の変色が基準を超えております」
若者の肩が落ちた。栗山は台帳を若者の方へ回し、数字を指で示した。
「ご覧なさい。これが基準で、これがあなたの皮の数値です。討伐から皮剥ぎまでの時間が長すぎる。次から現場で腹側から先に処理なさい。それだけでひと等級は上がります」
「……時間、ですか」
「皮は腹から傷みます。腕の問題じゃない。段取りの問題です」
「初めて聞きました。そんな理由」
若者はぽつりと言った。
「前はギルドの窓口に持って行ってたんですけど。数字の書かれた紙を渡されるだけで、どうして安いのかは教えてもらえなかったんで」
栗山は一瞬だけ言葉に詰まった。その窓口で判を押していたのは、他ならぬ自分たちだ。
「……ここでは理由ごとお渡しします。それが競り台に並べる条件ですから」
若者は台帳の数字をじっと見つめた。悔しさを噛み殺す顔が、やがて何かを覚え込む顔に変わった。
「……次は、上げられますか」
「あなたの段取り次第です。秤は嘘をつきませんよ」
若者は深く頭を下げ、皮を抱えて競り場へ降りていった。
押したのは安い判である。だが若者は納得して降りていった。理由の見える秤は、低い目方を告げても人を腐らせない。
査定場で押し続けた判との違いはそれだけだ。そして、その違いが全てだった。
◇ ◇ ◇
夕方。競りの声が止んだ倉庫を出ると、海が茜色に染まっていた。
坂道の途中で足を止め、栗山は西日の海を眺めた。競り場から流れてきた男たちが荷を提げて船着き場へ歩いていく。今日の高値の話をする声が風に乗って届いた。
市場は勝った。競り台は毎日人で埋まり、素材には理由のある値が付く。あの若者のように、次はどう上げるかを考えて帰る者が増えた。
だが窓口の中は、まだ静かなままだ。
昼の後輩の顔を思い出す。宙ぶらりんと言った時の、事実だけを述べる声。あの七人は正しい秤を望みながら、狂った秤の残り香の中で今日も判を押している。
市場の勝ちは、まだ窓口の中まで届いていない。
台帳の隅に書き続けられる小さな数字のことを思う。誰にも求められていない根拠を、それでも書く。あれは判子の形をした祈りだ。
ならば表に出た人間の役目は決まっている。あの祈りが無駄にならなかったと、いつか証明することだ。
いつか、と栗山は思う。いつかあの七人も明るい場所で判を押せる日が来る。それまで自分にできるのは、ここで正しい判を押し続けることだけだ。狂っていない秤がここにあると、毎日ひとつずつ証明し続けることだけだ。
家に帰ると、娘が夕刊を広げていた。
「おかえりなさい。今日の競り、すごい高値が付いたって出てるよ」
「ああ。良い物が並びました」
「お父さん。家でまで敬語」
娘が笑い、栗山も釣られて頬を緩めた。長年の窓口勤めで染みついた物言いは、家の中でもなかなか抜けない。
上着を脱ぎ、食卓に着く。味噌汁の湯気の向こうで娘がまだ笑っている。
正しい判を押して帰る家に、湯気が立っている。
長い勤めの果てに手に入れたのは、たったそれだけの贅沢だった。
石金 様 gu 様
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