第1話:良い話
瀬戸内素材取引所の朝は鐘の音で始まる。
開場の鐘が鳴ると同時に、セリ場の電光掲示板へ今日の上場素材が流れ始めた。魔石に獣皮、甲殻に薬草。産地は尾道に今治、呉に松山。買い手の指が上がるたびに数字が跳ね、場内のざわめきが波のようにうねった。
陽太は二階の見学通路からその光景を見下ろしていた。
(取扱高は月間42億円。開設した年の三倍か)
手すりに肘を置いて目を細める。セリ台の脇では鑑定人の腕章を着けた栗山が若い査定人に手元の甲殻を示していた。運営委員会の朝会を終えた藤岡が書類の束を抱えて事務局へ歩いていく。搬入口では探索者代表の羽山が、初めて出品に来たらしい若い探索者に受付の場所を教えていた。
この場所は陽太のものではない。誰のものでもない。それが正しい姿だった。
大災害12.11から五年目の春。日本のダンジョン産業は誰も予想しなかった好況の中にいた。
陽太が切り開いた規制改革実証区域の認定。他の特区も尾道特区に負けじと国に働きかけ、20を超える特区が実証区域に認定されていた。
瀬戸内等級規格は国内はもちろんのこと、海の向こうの購買基準に採用され、等級印の押された素材は港から次々と船に積まれていく。探索者の稼ぎは増え、加工会社は工場を増設し、新聞は連日この国のダンジョン経済を褒めそやしていた。
「社長。やっぱりここだったか」
背後から声がした。振り返ると瀬戸内シーライオンの大西が階段を上がってくるところだった。特別顧問の肩書きに似合わず、今日も現場の作業着姿だ。
「大西さん。船の方はいいんですか」
「船は若いのに任せてきた。それより耳に入れておきたい話がある」
大西は陽太の隣に並び、セリ場を見下ろしながら声を落とした。
「今治特区の浜岡工業。知っとるだろう」
「甲殻素材の一次加工では瀬戸内地域の最大手ですね。確か、うちの塗料の原料も三割はあそこの加工品だったかと」
「その浜岡に買収の話が来た。欧州系の投資会社から、時価の三倍で」
陽太の指が手すりの上で止まった。
「三倍」
「浜岡の親父は乗り気だ。従業員の雇用は全員保証で設備投資も約束、経営陣も続投でええと言われとる。断る理由がどこにもない」
「……いい話ですね」
「ああ。いい話だ」
大西はそこで一度言葉を切り、苦いものを噛むような顔をした。
「浜岡の親父とは、わしが船に乗り始めた頃からの付き合いでな。あの男は技術と突拍子もないアイデアだけは一流だが、金勘定はからきしだ。息子は継ぐ気がない。工場を残すためなら魂でも売る、と本気で思っとる」
「経営者としては責められない判断です」
「分かっとる。だからわしも面と向かっては止められん。ただな、社長」
大西は分厚い掌でセリ場の手すりを撫でた。長年舵輪を握ってきた海運人の掌だった。
「三十年、瀬戸内の海で荷を運んできた。港の風向きが変わる前には、決まって妙な凪が来る。海が静かすぎる時ほど、腹の底が冷える。今がその凪だ」
陽太は黙って先を促した。
大西は懐から折り畳んだ紙を取り出した。手書きの一覧だった。
「ただな、社長。わしの古い伝手で聞いた範囲だけでも、この一ヶ月で似た話が五件ある」
陽太は紙を受け取り、上から順に目を走らせた。
今治の素材加工会社に欧州系ファンド。大学発の計測機器ベンチャーにシンガポール籍の商社。船舶塗料の原料商社に米国系の投資組合。認定端末の保守会社にカナダの年金基金。物流保険の代理店にタイの金融資本。
「買い手は全部ばらばらだ。国も業種も資本系統も違う。名義を洗ったが繋がりは出てこん。海運仲間の情報網でもだ」
「大西さんの情報網でも繋がらない、ですか」
「そこが気に食わん。船の荷は必ずどこかで繋がる。荷主が違っても、行き先が同じなら港で顔を合わせる。だがこの五件はまるで、示し合わせて別々の港から入ってきたみたいだ」
「示し合わせて、別々に」
陽太はその言葉を口の中で繰り返した。ばらばらであることそのものが、一つの意思を隠す衣装なのかもしれない。
「条件は」
「どれも破格。そしてどれも友好的だ。脅しも圧力も一切ない。相手は皆にこにこ笑って、あんたの会社を世界に連れて行きたいと言うとるそうだ」
陽太は紙から顔を上げなかった。
(名義分散の買い占めなら見たことがある。ダミー会社を並べて素材を攫っていく手口だ。だがこれは違う。全部が表口から来ている。登記も開示も真っ当で、隠す気配すらない)
脳裏で五つの社名を並べ替える。業種はばらばらだ。だが視点を変えると別の並びが浮かんだ。
原料。計測。保守。保険。物流。
(……周辺だ)
どの会社も中核技術そのものではない。純水フィルターでも等級規格でも船でもない。だがそのすべてに隣接している。
「大西さん。この五社に共通点があるとしたら何だと思いますか」
「わしも考えた。全部が儲かっとる優良企業、というだけなら好況の今どこでも同じだ」
「それもありますが、違います」
陽太は紙を畳み、静かに言った。
「五社とも、うちと取引所の取引先です」
◇ ◇ ◇
夕方。自宅の台所には出汁の匂いが満ちていた。
「おかえり、お兄ちゃん。今日は肉じゃがだよ」
エプロン姿の小春が鍋の蓋を開けて見せる。この春から中学生になった妹は、いつの間にか台所を自分の城にしていた。使っている水はもちろん自社の純水だ。五年前には考えられなかった贅沢が、今はこの家の当たり前になっている。
「凪お姉ちゃんのレシピなの。味見して」
差し出された小皿を受け取る。じゃがいもは芯まで味が染みて、確かに凪の煮物の味がした。
「うまい」
「でしょ。あのね、お兄ちゃん。今日学校で進路希望の紙をもらったんだ」
「中学に入ったばかりだろう」
「将来の夢を書く欄があるの。わたし、決めてるんだ」
小春は少し得意げに胸を張った。
「水の研究をする人になる。わたしみたいな子が、どこの町でも安心して暮らせるように」
陽太は小皿を持ったまま、一瞬だけ言葉を失った。
五年前、避難所の隅で毛布にくるまっていた妹は、飲み水一杯のために兄の帰りを待つだけの存在だった。魔素不適応症の体は薬と純水がなければ保たない。あの頃の小春にとって、水とは与えられるのを待つものだった。
その妹が今、水を誰かに与える側に回ると言っている。
「……いい夢だ」
声が少しかすれた。小春は気づかず、鍋の火を弱めながら続ける。
「ね、お兄ちゃんの会社のフィルターで作る純水って、世界で一番おいしいんでしょ。みんなそう言ってるよ」
「そうだといいな」
「わたし知ってるもん。世界で一番つよくてやさしいお兄ちゃんが作ってるんだから、一番に決まってる」
屈託のない言葉が、胸の奥に静かに刺さった。
陽太は昼間の紙の感触を思い出していた。原料と計測と保険と物流。あの道の先には、この台所が繋がっている。純水フィルターは会社の根であり、同時にこの妹の命綱でもある。もし誰かがあの道を握れば、握られるのは会社だけではない。
(会社と、小春の命は……同じ線の上にある)
初めて泥スライムの核から一滴の純水を絞り出した日から、その二つは片時も離れたことがなかった。
◇ ◇ ◇
その夜。ウォーター・ベイン本社の会議室で、陽太はホワイトボードに五つの社名を書き並べていた。
部屋には凪と笹本がいる。笹本は財務資料の束をめくりながら眉間の皺を深くしていた。
「五社の直近の決算を洗いました。どこも健全です。買収される側に売り急ぐ事情はありません」
「探索者の側はどうですか」
「むしろ喜んでいます。買収先はどこも買付を増やすと言っていますから、出品者にとっては上客が増える話です」
「買う側は」
「それが妙なんです。米国系の投資組合は本来資源の川上にしか投資しない方針を開示している。シンガポールの商社は計測機器なんて扱ったことがない。皆それぞれ、自分の本業から半歩外れた買い物をしている」
「弁護士としての意見を言うわね」
凪がホワイトボードの前に立ち、腕を組んだ。
「この五件、法的には一片の隙もない。買収は合法。開示も適正。独占禁止に触れるほどの規模でもない。相手が悪事を働いてくれれば私の出番だけど、今回は誰も法を破っていない。むしろ模範的すぎるくらい」
「模範的すぎる、か」
「ええ。仕事で嫌というほど見てきた。本当に危ない契約書ほど、一行の瑕疵もなく美しく整っているの」
凪は五つの社名を順に指でなぞり、ふと手を止めた。
「陽太。これ、地図に置き換えてみて」
「地図?」
「取引の地図よ。素材が探索者の手を離れてから海外の買い手に届くまでの経路。原料がどこを通るのか。誰が測って誰が認定するのか。何の保険をかけてどの船で運ぶのか」
陽太はペンを取り、社名と社名の間に線を引いた。
線は一本の流れになった。ダンジョンから港まで、素材が辿る道筋そのものだった。そして五つの社名はその道の関所のような位置に、等間隔で並んでいた。
(買われているのは会社じゃない。……道だ)
ペンを持つ手が止まる。凪が陽太の横顔を見上げた。
「ねえ。悪い話なら戦い方は分かる。でもこれは全部いい話よ。雇用も守られる、金も入る、誰も泣かない。私たちに止める権利なんてない」
「ああ。権利はない」
陽太はホワイトボードを見つめたまま答えた。
「昔の俺なら、この地図を見て別のことを考えた」
「別のこと?」
「関所を先に買い占めて、道全体を握る。相場師の計算ならそれが正解だ。安く見られている場所を先に押さえた者が勝つ」
凪は驚かなかった。ただ静かに陽太の横顔を見た。
「でも、しないのね」
「しない。この道は俺一人のものじゃない。浜岡の社長も羽山も、セリ場に来る探索者も、みんなこの道の上で飯を食っている。俺が握れば、俺がこれまで見た連中と同じことをする側になる」
良い話ばかりが来る春だった。悪意はどこにも見当たらない。誰も脅されず、誰も泣いていない。
だからこそ、背筋を冷たいものが伝った。
「──笹本さん。五社の買い手の、さらに親会社を調べてください。登記の国が違っても構わない。金の出所まで遡って」
「どこまで遡りますか」
「無論、行き止まりまで」
窓の外では港の灯りが穏やかに瞬いていた。五年かけて作り上げた素材の道の上を、今夜も船が滑っていく。
その道の関所に、見知らぬ誰かが静かに旗を立て始めていた。