三日後の朝。ウォーター・ベイン本社の会議室に、笹本が分厚い紙束を抱えて現れた。
徹夜明けの目をしていた。財務担当役員の顔には、数字と格闘した人間特有の疲労が滲んでいる。だがその奥に、腑に落ちないものを噛み続けているような硬さがあった。
「湊社長。ご指示のあった五社の買い手を、遡れるところまで遡りました」
陽太は差し出された束を受け取った。五社それぞれに一冊ずつ、資本関係を図にした資料が綴じられている。
「結論から言うと、全部途切れました」
「途切れた」
「ええ。行き止まりまで、というご指示でしたが。行き止まりの前に壁がありました」
笹本は一冊目を開いた。米国系の投資組合。その上に線が伸び、別の社名に繋がる。
「今治の浜岡工業を買う米国系の投資組合。この上に、タックスヘイブンの島国に籍を置く持株会社がありました。さらにその上に、欧州の小国の資産管理会社。そこまでは登記で追えます。ですがその先が、外から一切見えない法域の信託でした」
「他の四社は」
「同じです。国も経由地もばらばらですが、辿り着く先はどれも似ています。名前を出さなくていい国の、名前を出さなくていい器。五本の糸が、五つの別々の霧の中に消えました」
陽太は五冊を机に並べ、終点だけを順に見比べた。経由する国はどれも違う。使う器の種類も違う。だが、どれも同じ性質の場所で途切れている。追う者の手が届かない一線の、少し向こう側で。
「笹本さん。ここから先を追うには、何が要りますか」
「各国の司法当局が動く理由が要ります。犯罪の疑いがあって、国際的な捜査共助が組まれて、ようやく信託の中身が見えるかどうか。民間企業の財務役員が登記簿を睨んで届く場所じゃありません」
「つまり、真っ当な手段では届かない」
「届きません。……ですが」
笹本は言葉を切り、束の一番上に置いた自分の手を見た。
「三十年、数字を見てきた人間として、一つだけ申し上げます。この五件、途切れ方が、揃いすぎています」
陽太の目が上がった。
「揃いすぎている」
「別々の人間が別々に会社を買うなら、隠し方もばらけるはずなんです。雑に登記して足がつく買い手もいれば、丁寧に隠す買い手もいる。ところがこの五件は、五件とも同じ丁寧さで、同じ深さまで隠している。まるで同じ設計図から起こしたみたいに」
陽太は五冊の終点をもう一度見た。笹本の言うとおりだった。ばらばらの経路が、示し合わせたように同じ場所で霧に沈んでいる。
(ばらばらであることが、雑なんじゃない。ばらばらであることが、揃っている)
それは意思の痕跡だった。だが痕跡が指す先は、どこにも見えない。
「よく分かりました。ここまでで十分です」
「……追えなくて、申し訳ありません」
「いえ。壁の形が分かった。壁があると分かることも、十分な収穫です」
笹本は少しだけ表情を緩め、それからまた硬い顔に戻って会議室を出ていった。
残された五冊の霧を、陽太はしばらく眺めていた。
◇ ◇ ◇
昼過ぎ。凪が条文の印刷物を手に、社長室へ入ってきた。
付箋が何十枚も貼られ、余白は書き込みで真っ黒になっている。法律を隅々まで解剖した跡だった。
「資源取引適正化法、条文を全部あたったわ。結論を言う。この五件、この法律では一ミリも止められない」
凪は印刷物を机に置き、条文の一つを指で示した。
「この法律が縛るのは二つだけ。ダンジョン素材の現物を、誰がどれだけ取得するか。そして、その現物を国の外へ移すとき、届け出させること。名義を分けて素材を攫っていく手口を潰すために作った法律だから、当然そうなる」
「素材の現物だけ、か」
「ええ。会社を買うのは素材の取得じゃない。特許を一緒に出願するのも研究者を引き抜くのも、保険や物流を押さえるのも、全部この法律の外側。素材が一枚も動かないから、届け出の義務すら発生しない」
陽太は条文に目を落とした。見覚えのある条文だった。仮設庁舎の一室で、この法律の骨格を凪と組み上げた夜のことを、まだはっきりと覚えている。素材が安く買い叩かれる歪みを、二度と起こさせないための鎧だった。あのときは、これで守れると思っていた。
「あの法律を作ったとき、俺たちは素材のことしか考えていなかった」
「そうね。素材の道を守れば産業が守れると思ってた。実際、素材の道は守れた。……でも」
「道を守っても、道の両脇に立っている会社は守れない」
凪は頷いた。
「前の戦いで、私たちは大きな穴を一つ塞いだ。名義分散の買い占めっていう穴を。塞いだのは間違いじゃない。あれは塞ぐべき穴だった」
「だが、塞いだ穴のすぐ隣に」
「もっと大きな穴が、最初から空いてた。誰も気づかなかっただけで」
二人はしばらく黙った。窓の外で、港のクレーンがゆっくりと荷を吊り上げている。
「法律家として、正直に言うわ」
凪の声には、めったに聞かない苦さがあった。
「私は法律で戦う人間よ。相手が法を破ってくれれば、いくらでも戦える。証拠を集めて、条文を突きつけて勝てる。でも今回、相手は一行も破っていない。買収は合法。開示も適正。私の武器が、全部空を切るの」
「凪」
「なによ」
「法律で止められないと分かったのも、収穫だ」
陽太は条文の束を手に取った。
「どこで戦えないかが分かれば、どこで戦えるかを探せる。法の外で来る相手には、法の外に土俵を作るしかない。まだ土俵の場所は分からないが、少なくとも、この条文の内側じゃないことは分かった」
凪は陽太を見て、それから小さく息を吐いた。
「……相変わらず、負けを収穫って言い張るのね」
「相場師の癖だ。損した理由が分かれば、次は損しない」
◇ ◇ ◇
翌日。陽太は大西とともに、今治特区の浜岡工業を訪ねた。
海沿いの工場は活気に満ちていた。甲殻素材を洗う水音、乾燥棚に並ぶ加工品、フォークリフトの警告音。どれも景気の良い現場の音だった。
応接室で迎えた浜岡社長は、日に焼けた大柄な男だった。大西とは古い付き合いだと聞いている。二人が握手を交わす様子には、長い時間を分け合った者同士の気安さがあった。
「大西さんが若いのを連れてくるとはな。噂の湊社長か。うちの売上の10%も買ってくれとる上客のとこの」
「お世話になっています」
「世話んなっとるのはこっちの方よ。あんたんとこの塗料のおかげで、うちの甲殻の売り先が一つ増えた」
浜岡は豪快に笑い、それから少しだけ声を落とした。
「で、大西さんから聞いた。例の買収の話が気になっとるんやろ」
「差し出がましいのは承知しています」
「ええよ。心配してくれとるんはありがたい。……だがな、社長さん」
浜岡は湯呑みを両手で包んだ。
「うちには従業員が三千人おる。その家族を入れたら一万人だ。この工場が、あの連中の暮らしを支えとる。俺はな、この工場を俺が死んだ後も残さにゃいかん」
「息子さんは」
「継がん。都会で好きなことやっとる。それでええと思うとる。無理に継がせて潰すより、他人に渡してでも残す方がええ」
浜岡の言葉に嘘はなかった。工場を我が身より大事に思う、その一心だけがあった。
「相手の条件はな、社長さん。時価の三倍だ。従業員は一人も切らん、設備投資もする、俺も会長で残してくれると言う。……この歳で、こんな話がもう一度来ると思うか」
「来ないでしょうね」
「来ん。一度きりの話だ。断る理由が、どこにあるんだ」
陽太は答えられなかった。
浜岡は悪人ではない。むしろ、従業員を守ろうとする実直な経営者だった。その実直さが、そのまま買収を受ける理由になっている。相手はその実直さに、一点の非もない好条件を差し出しているだけだ。脅しも圧力もない。ただ、断れない話を、笑顔で置いていく。
「あんた、何が気に入らんのだ」
浜岡が、まっすぐに陽太を見た。
「言うてみい。うちの工場が他人の手に渡るのが、そんなにまずいか。誰か困るんか。従業員は喜んどる。俺も安心して死ねる。あんたの会社への納品も続く。……誰も損せん話に、なんであんたはそんな顔をしとる」
陽太は、すぐには言葉が出なかった。
困る者はいない。損する者もいない。浜岡の言うとおりだった。だが、この工場が霧の向こうの誰かの手に渡って隣の会社もその隣も渡っていったとき、五年かけて作った素材の道がまるごと知らない誰かの持ち物になる。その絵が見えている。見えているのに、今この場で、誰か一人でも困ると証明することができない。
「……まだ、うまく言えません」
陽太は正直に言った。
「気に入らない理由が、自分でもまだ言葉になっていない。ただ、この話には、置いていく側にとっての得がどこにも見えないんです。三倍の値をつけて、雇用も守って、それでも欲しがる。その理由が見えない買い物は、俺の商売の経験では、たいてい別の狙いがある」
「別の狙い、な」
浜岡は少し考え、それから笑った。
「面白い若いのだな。だが、狙いがあろうとなかろうと、俺には三千人がおる。見えん狙いより、見える給料だ」
反論はできなかった。
帰り際、浜岡は玄関まで見送りに出た。大西の肩を叩き、陽太にも手を差し出した。分厚い、加工現場で生きてきた男の手だった。
「社長さん。今日は話せて良かった。あんたの心配が当たらんことを祈っとるよ。当たったら、そんときはあんたを頼るかもしれん」
陽太はその手を握った。握り返す力は、まだ何も守れていない自分への、静かな戒めのようだった。
◇ ◇ ◇
その夜。陽太は一人、本社の会議室に残っていた。
ホワイトボードには、昨日引いた素材の道の地図がまだ残っている。ダンジョンから港まで、素材が辿る一本の流れ。その道の関所に等間隔で並んだ、五つの社名。
陽太はマーカーを手に取り、五社の終点に「霧」と書き込んだ。どれも同じ場所で消える五本の糸。ばらばらを装って、揃っている意思。
浜岡の言葉が耳に残っていた。誰も損せん話に、なんでそんな顔をしとる。
答えは分かっている。この地図の全部が同じ手に渡れば、素材の道は道ごと誰かのものになる。だがそれは、まだ起きていない。起きる前に止める理由を、法も持たず、現場も持たない。困っている者が一人もいないうちに動くことを、この世界はまだ許していない。
(昔の俺なら)
陽太はマーカーを置いた。
昔の俺なら、この地図を見て真っ先に別の手を打った。関所を先に買い占める。道全体を握る。安く見られている急所を、誰より早く押さえる。相場師の計算なら、それが唯一の正解だ。そして今も、その計算は頭の中で正しく動いている。どの関所から買えばいいか、順番まで見えている。
見えているのに、しない。
その理由を、陽太はまだ、自分の言葉で言い切れなかった。壊す側にいた頃の自分と、守りたいと思っている今の自分の間に、細い亀裂のようなものが走っている。その亀裂の正体を、まだ掴めていない。
会議室の扉が薄く開いた。帰り支度をした笹本が、顔を覗かせた。
「湊社長。まだいらしたんですね。……一つ、言い忘れたことが」
「なんですか」
「五件の買収、完了予定の時期を調べたんです。契約書の公開情報から拾える範囲で」
笹本は少し言い淀んでから、続けた。
「五件とも、来月中の同じ月に完了予定が揃っていました。買い手も経由地も業種も、あれだけばらばらなのに。……時期だけが、揃っているんです」
陽太はホワイトボードの「霧」の文字を見た。
示し合わせていないはずのものが、隠し方も幕を下ろす日も、綺麗に揃っている。姿を見せない一つの意思が、五つの別々の仮面の裏で、同じ時計を見ている。
「……ありがとうございます。よく気づいてくれました」
笹本が去り、会議室に静けさが戻った。
陽太は地図の前に立ったまま、まだ見えない相手の輪郭を、霧の向こうに探していた。姿はない。名もない。ただ、同じ時計を見る一つの意思の影だけが、夜ごと濃くなっていく。