翌週の午後。研究棟の会議室で、五十嵐紬は珍しく困った顔をしていた。
机の上には英文の書類が置かれている。厚みのある封筒と、丁寧に折り目のついた便箋。紬はそれを指先で押さえたまま、陽太の方へ滑らせた。
「社長。これ、どう思います」
陽太は書類を手に取った。差出人は欧州の研究財団である。基礎研究への助成で知られる、実績も歴史もある団体だ。
「招聘状だな」
「はい。断るつもりなんですけど、一応お見せしておこうと思って。……条件に現実味がなくて」
紬は苦笑した。
「研究資金は今と桁が一つ違います。設備も人員も自由。しかも常勤で来いとは言っていないんです。日本に籍を置いたまま、共同研究の形で構わないと」
「日本に籍を置いたまま」
「ええ。行かなくていいんです。ここにいたままで、お金と設備だけ出しますって話で」
陽太は便箋の文面を読んだ。丁重で、押しつけがましさが一切ない。研究者の自主性を尊重するという趣旨の言葉が繰り返されている。
「向こうが欲しがっているのは、どの研究だ?」
「そこが引っかかってて」
紬は前髪を掻き上げた。本気で考え込んでいるときの癖だ。
「純水フィルターの製法じゃないんです。それは一言も書いてない。そもそも、製法は泥スライムの核を無傷で取り出せるかが鍵で、そこは研究してどうにかするものではありません」
「それはそうだ。泥スライムの核の性質を利用してるだけで、工業製品というのは建前だからな」
「共同研究したいと言っているのは、その手前の話でして」
「手前」
「魔素と水が、そもそもどうやって作用し合っているのか。分子の水準で何が起きているのか。魔物素材を利用した製品全般に言えることではありますが……うちのフィルターって、効くことは分かっているけど、なぜ効くのかはまだ分かっていないじゃないですか」
陽太の指が便箋の上で止まった。
「なぜ効くのかの、その手前か……」
「はい。土台の話です。そこが解ければ、うちのフィルターの理屈も分かる。でも同時に、別の方式のフィルターだって設計できるはずです」
紬は少し声を落とした。
「うちの製法は特許で守られていますけど、土台の理屈に特許はありません。まだ誰も辿り着いていない場所ですから」
(技術そのものは獲りに来ていない。技術が立っている地面を獲りに来ている)
浜岡工業の甲殻加工と同じだった。純水フィルターでも等級規格でもない。だが全部に隣接している場所。今度は会社ではなく、まだ誰のものでもない知識の側から手が伸びていた。
「つむつむ。断ると言ったな」
「はい。今の研究室が楽しいので。それにこれ、話がうますぎます」
「その判断は正しい。ただ、一つ聞かせてくれ」
陽太は書類を机に戻した。
「もし大学の研究室にいて予算に困っていたままなら、この話を断れたか?」
紬は口を開きかけ、そのまま数秒黙った。
「……無理だと思います。研究室の予算なんて、いつも足りませんから。これだけ出すと言われたら、飛びついてました」
「だろうな」
陽太は静かに言った。
「この国のダンジョン研究をやっている人間は、つむつむを含めて何人いる?」
「まともに続けている人なら、多く見積もっても百人くらいかと。分野が新しすぎて、研究者そのものが育っていないんです。結果が出せずに辞めた人も多いですし」
「その百人に、同じ手紙が届いていたら」
紬の顔から表情が抜けた。
「……ほとんど断らないですね」
◇ ◇ ◇
その日の夕方、話は二つ増えた。
一つは凪からだった。国際的に名の通った法律事務所から業務提携の打診が来ているという。凪の事務所と提携して資本も入れ、国際案件を回す拠点として瀬戸内に事務所を構えたいという申し出だった。
「破格よ。私の事務所ごと、格が三段階上がる話」
凪は書面を陽太の机に置き、腕を組んだ。
「向こうの狙いは分かりやすいわ。取引所の規約も資源取引適正化法の骨格も、瀬戸内等級規格の法的な組み立ても私がやってる。この国のダンジョン法務は、まだ私しか土地勘のある人間がいないの」
「その土地勘ごと、傘の下に入れたいわけか」
「そういうことね。断るわ。でも断り方は考える。角を立てて相手を怒らせても得はないから」
もう一つは大西からだった。夜に本社へ上がってきた海運人は、いつになく渋い顔だった。
「社長。シーライオンに妙な誘いが来とる」
「妙な、というと」
「国際物流連合とかいう組織だ。世界の外航大手が名を連ねとるところで、うちみたいな地域の内航会社に声がかかる団体じゃない」
大西は書類を広げた。
「加盟すれば太平洋航路の枠が優先的に回ってくる。保険料も下がるし、港の使用権も融通してくれるそうだ。……悪い話じゃない。うちの船を世界に出す近道だ」
「条件は」
「加盟社は、荷の情報を連合の共通システムに載せる。何をどこから運んで、どこへ届けたか。安全と効率のためだと書いてある」
陽太は該当箇所を読んだ。文言に不自然なところはない。物流の効率化を謳う団体として当然の要求に見える。
「大西さん。この共通システムに、うちの荷を載せるとどうなりますか」
「瀬戸内から出ていく素材の量も行き先も時期も、全部向こうの画面に映る」
大西は太い指で書類を叩いた。
「三十年海運をやってきた勘で言わせてもらう。荷の中身を知られるのは、腹の中を見せるのと同じだ。どこが儲かっとるか、どこが細っとるか、荷を見りゃ一目で分かる。ただの海運会社なら関係ないが、ウチは色々と抱えとるから影響が読み切れん」
「断れますか」
「断れる。だが、断ったらうちの船で世界に出る時は太平洋の外側で回すしかなくなる。……いずれ細るな。緩やかに、確実に」
三人が帰った後、陽太は会議室のホワイトボードの前に立った。
昨日まで五つだった社名の隣に、三つの点を書き加える。
研究。法務。物流網。
地図の関所が、八つになった。
◇ ◇ ◇
夜。会議室には凪と笹本と紬が残っていた。
陽太はマーカーを持ったまま長いこと黙っていた。八つの点を順番を変えては並べ直し、何度か線を引いては消す。
やがて手が止まった。
「分かった」
三人が顔を上げた。
「共通点は、業種でも国でもない。全部が、中核の一歩手前で止まっていることだ」
陽太は地図の中央に、大きく円を描いた。
「この円の中に入るのが中核技術。純水フィルターの製法。瀬戸内等級規格。第二世代塗料のレシピ。取引所の設計。……この五年で俺たちが作ってきたものの、いちばん柔らかい部分だ」
円の外側に、八つの点を打ち直す。
「そして狙われているのは、全部この円の外側。原料の加工に計測機器、認定端末の保守に物流保険、それから船。研究の土台、法務、物流の情報網。一つも円の中に入っていない」
「なぜ中に入らないの」
凪が尋ねた。陽太は円の線を指でなぞった。
「入れば止められるからだ。純水フィルターの製法を買いたいと言えば資源取引適正化法が動く。等級規格の権利を寄越せと言えば運営委員会が拒否する。世論も政府も騒ぐ。……中核に手をかけた瞬間、この国の全部が敵になる」
「だから、周りだけを合法的に」
「そうだ。円の外側は誰も守っていない。守る理屈がない。浜岡さんの工場が売れても五十嵐さんが海外の金で研究しても、船が連合に入っても誰も損しない。……一件ずつ見れば全部いい話だ」
陽太は円の外側の点を、一つずつ線で繋いでいった。八つの点が輪になり、円を取り囲む。
「だが全部が同じ手に渡ったら、どうなるか」
線を引き終えた陽太の手が、円の中央を指した。
「中核は無傷のまま、丸ごと孤立する」
笹本が息を呑んだ。
「……原料が来ない。計測ができない。認定が止まる。保険が下りない。船が出ない。研究が進まない。法務が回らない」
「そのどれ一つとして、こちらから文句を言う筋合いがない。全部よそ様の会社の、正当な経営判断だからな」
陽太はマーカーを置いた。
「そうなったとき、俺たちに残る選択肢は一つだけだ。円の中身を、向こうの言い値で売ること。中核技術は最後まで無傷で、最後に自分から出ていくことになる」
会議室が静まり返った。
凪が乾いた声で言った。
「……包囲戦ね。城壁は一枚も崩さずに、井戸と畑と道だけを押さえる」
「近いが、少し違う」
陽太はホワイトボードの八つの点を見た。
「城を落とすのが目的なら、あとで城を使うはずだ。だが向こうは城を使う気がない。買っているのは全部、部品として使える形のものだけだ。加工に計測、認証に保険、輸送と研究と法務。……これは、この国のダンジョン産業を部品単位に切り分けて、自分の側で組み立て直すための買い物だ」
「部品単位に、切り分ける」
紬が呟いた。陽太は頷いた。
「投資じゃない。うちの会社を買いたいわけでもない。この国の産業そのものを分解して、必要な部品だけを自分の国の産業に組み込む。残された抜け殻が日本に残る」
「……それ、証明できるの」
凪が静かに問うた。
「無理だ」
陽太は即答した。
「八件とも別々の会社が別々の理由で動いている。繋がりの証拠は一つもない。俺が今言ったことは、地図を見た人間の絵解きにすぎない」
◇ ◇ ◇
三人が帰った後も、陽太は会議室に残っていた。
ホワイトボードの円と八つの点を、椅子に座ったまま眺める。答えは出た。だが答えが出たところで、打てる手が一つもないことも同時に分かってしまった。
法は届かない。凪が条文を全部あたって確認した。世論に訴えても、好況に水を差す被害妄想と取られるのが落ちだろう。海外資本が金を持って来てくれるという話が、連日褒めそやされている今の空気で悪い話になるはずがない。政府に持ち込むにも、証拠が絵解き一枚では相手にされない。
何より、当事者が誰も困っていない。
浜岡は工場を残せて喜び、研究者は予算がもらえて喜ぶ。困っている人間が一人もいないところで、いずれ困ると叫ぶ人間は、ただの不吉な男でしかない。
(それに)
陽太はホワイトボードから目を逸らした。
この構図が読めた理由を、自分でよく分かっている。読めたのは頭が良いからではない。同じことを思いつける側の人間だからだ。
安く見られている急所を先に押さえる。表から見えない場所に金の流れる関所を作る。相場師の頃から数え切れないほど考えてきた手口だ。今も、この八つを買う順番なら三十秒で組み立てられる。
相手を軽蔑できないことが、いちばん苦かった。
扉が開いて、笹本が戻ってきた。鞄を提げたまま、廊下に立っている。
「湊社長。帰り際に思い出したことが一つ」
「なんですか」
「八件の案件に、それぞれ助言している法律事務所と会計事務所を調べたんです。買収の実務には必ず外部の専門家が付きますから」
笹本は手帳を開いた。
「事務所も全部ばらばらです。国も規模も違う。共通点はありません。……ただ一つだけ」
「一つだけ」
「浜岡工業に助言している事務所と、五十嵐さんに手紙を出した財団の顧問事務所が、五年前に一度だけ同じ国際案件で名前を並べていました。それ以外の接点はありません。案件そのものも、ダンジョンとは何の関係もない古い話です」
陽太は手帳の文字を見た。二つの事務所名だけが並んでいる。それ以上は何もない。
「ただの偶然かもしれません」
笹本は正直に言った。
「専門家の世界は狭いですから、大きな案件で顔を合わせるのは珍しくない。私も何度も経験があります。……ですが、ご報告だけはしておこうと」
「ありがとうございます。助かります」
笹本が去り、また静けさが戻った。
陽太は手帳の写しを地図の脇に貼った。八つの点と、円と、その隅に貼られた小さな紙切れ。
霧の向こうには、まだ何の姿も見えない。名前もない。国も分からない。
ただ、五年前の一枚の名簿の上で、二つの名前が一度だけ隣り合っていた。
それだけが、この夜に手に入った唯一の手がかりだった。