一ヶ月が過ぎた。
笹本が告げていた完了予定の月に、五件の買収は予定どおり片づいた。今治の浜岡工業も、他の四社も、契約書に記された日付のとおりに持ち主を変えた。
そして、何も起きなかった。
浜岡工業は翌日も同じ甲殻加工品を尾道へ送ってきた。品質は変わらない。納期も変わらない。値段は一円も上がっていない。それどころか、新しい親会社が乾燥設備を増強するという話まで届いた。取引担当者も昔のままで、電話の向こうの声も変わらない。
陽太は届いた納品書を眺めた。数字はいつもの数字だった。あれほど身構えた買収の後に、何一つ変わらない日常が続いている。
「社長。浜岡さんとこ、むしろ元気になってません?」
現場から上がってきた田中が、伝票を捲りながら言った。田中はこの一ヶ月、陽太の警戒を隣で見てきた男だ。
「増設の話まで出てるって聞きましたよ。従業員も喜んでるし、うちへの納品も増えるって。……なんつうか、あの心配、杞憂だったんじゃないですか」
「そうかもな」
陽太は正直にそう答えた。田中の言うことは、事実として正しい。誰も損していない。浜岡は工場を残せた。従業員は職を守れた。ウォーター・ベインへの納品はむしろ増える。この一ヶ月に起きたことを数字だけで見れば、良いことばかりだった。
「社長がそう言うと、逆に怖いんですけど」
田中が苦笑した。
「いつもなら、大丈夫だ心配ないって言うじゃないですか。それを、そうかもって濁すのは、社長の中でまだ終わってないってことでしょう」
陽太は伝票から目を上げた。田中は現場を這い回ってきた男だけあって、人の顔色を読むのが早い。
「船が沈むとき、最初に静かになるって聞いたことあるか?」
「……縁起でもないっすね」
「浸水は船底から始まる。甲板の上を歩いている人間には、何も見えない。揺れも音もない。気づいたときには、もう傾いている」
陽太は納品書を置いた。
「この一ヶ月、甲板の上は静かだった。静かすぎるくらいに。だから俺は、船底を見に行こうと思う」
田中は少し黙って、それから頭を掻いた。
「……その船底、俺にも見えるようになりますかね」
「見えたときには、もう傾いてる。それが嫌なんだ」
◇ ◇ ◇
異変は、目に見えない場所で起きていた。
最初に気づかせてくれたのは、東朋の木崎からの電話だった。計測器を手掛ける男の声は、いつもの快活さを欠いていた。
「湊さん。ちょっと厄介なことになってな」
「どうしました」
「うちの新型の計測器、部品の一部をよそのベンチャーと共同で開発しとっただろう。あの会社が、開発から手を引くと言ってきた」
陽太の指が止まった。計測機器ベンチャー。買収された八社のうちの一社だった。
「理由は」
「親会社の方針だとさ。開発の人手を、本国の案件に集中させる。だから日本の共同開発からは外れる、と。丁寧な挨拶状まで付いとった」
「契約は」
「そこがな。契約はちゃんと守っとる。今の分の納品は最後まで責任を持つと。ただ、次の世代の開発からは抜ける。……訴える理由が一つもない。向こうは何も悪いことをしとらん」
木崎は電話の向こうで息を吐いた。
「うちの計測器は、海の向こうにも売り込む算段だった。等級規格を測る目として、世界で使ってもらう。そのための新型だ。だが、あの部品がなければ、開発は一年は遅れる公算だ。別の相手を探すにしても、一から組み直しだ」
「一年」
「その一年で、よそが同じような計測器を出してきたら。うちの目は、世界の標準にはなれん」
陽太は礼を言って電話を切った。受話器を置いた手が、しばらく動かなかった。
計測機器ベンチャーは、木崎を攻撃したわけではない。ただ、静かに手を引いた。それだけで、東朋の計測器が世界に出る足が一年遅れる。等級規格を測る目が、世界の標準になり損ねる。
その日の午後、もう一つ届いた。認定端末の保守会社からの通知だった。取引所の端末を維持している会社である。ここも買収された八社の一つだった。
内容は、保守料金の改定通告だった。
陽太は通知を三度読み返した。値上げ幅は妥当だった。人件費の上昇を理由にした、常識的な範囲の改定。契約書に照らしても、通告の手続きに一つの瑕疵もない。どこにも文句のつけようがない。
文句のつけようがないことが、答えだった。
計測器の共同開発からの離脱。保守料金の改定。一件ずつ見れば、どちらも正当な経営判断でしかない。木崎も取引所も、誰かに殴られたわけではない。ただ、少しずつ、動きにくくなっていく。
(締まり始めた)
陽太は会議室のホワイトボードの前に立った。円の外側に並んだ八つの点。そのうちの二つに、小さく印をつける。計測。保守。
包囲は音を立てなかった。悲鳴も上がらない。血も流れない。ただ、縄が少しずつ、確実に締まっていく。気づいたときには、もう身動きが取れなくなる速さで。
◇ ◇ ◇
その週の終わり、鷹司から連絡が入った。
東京の議員会館から掛けてきた声は、いつもの飄々とした調子の底に、硬いものを含んでいた。
「湊さん。永田町で妙な風が吹いています」
「妙な風、というと」
「特措法本体の見直しの議論、進めているのはご存じでしょう。納品義務や報奨金の作り直しをね。その議論の中で、急に別の声が大きくなってきた」
「別の声」
「海外資本を、もっと積極的に受け入れようという声です」
陽太は受話器を握り直した。
「一月前まで、そんな議論はどこにもなかった。それが今や、委員会の半分がその話をしています。曰く、この国のダンジョン産業は世界に開くべきだ。曰く、資本を入れて国際競争力をつけるべきだ。閉じていては技術で遅れる、と」
「正論ですね」
「そうなんです。ここが厄介だ。言っていることは、一つ残らず正論なんです」
鷹司の声が低くなった。
「開けば技術が入る。資本が入れば投資が増える。国際競争力がつく。全部正しい。反対する人間は、時代遅れの鎖国論者に見える。……で、その旗を振っているのが誰か。ここからが本題です」
「誰ですか」
「
陽太は目を閉じた。
会議室が瞼の裏に浮かんだ。反対ではなく賛成で場を支配した老人。市場は正しいあなたの設計は緻密だと褒めちぎり、その上で国益を守るための条件をと柔らかく差し出してきた男。誰も拒めない正義の顔で、檻を建て直そうとした男。
あの手口が、国家の規模で始まっている。
「鬼頭さんは、こう言っているそうです」
鷹司は伝聞の形で続けた。
「固定価格の時代は終わった。市場を開いたのは正しい。ならば次は、その市場を世界に開く番だ。海外の資本と技術を迎え入れ、この国のダンジョン産業を世界の中心にする。……いやはや、立派な演説でしょう」
「反対しにくい」
「しにくいどころじゃない。あの人の口から出ると、まるでこの国の未来そのものみたいに聞こえる。委員たちはうっとり聞いてますよ」
陽太はホワイトボードの八つの点を見た。円の外側を静かに埋めていく買収の群れ。そして今、その包囲を歓迎する門を、国の側から開けようとしている声がある。旗を振っているのは、固定価格の四年間ずっと独占の門番を務めてきた男だった。
「鷹司さん。一つ確認させてください。鬼頭さんの主張と、この一月の買収の群れ。二つを繋ぐ糸は、何か見えていますか」
「見えません」
鷹司は即答した。
「あの人は、海外資本の個別の話には一切触れていません。ただ、国を開くべきだという大きな話をしているだけです。買収の一件一件とは、何の関わりもない。……関わりがあると証明できるものは、一つもありません」
「そうですか」
「ただね、湊さん。俺は実家で二十年、政治家を見てきた男です。門を開けろと叫ぶ人間と、その門から入ってくる群れが、同じ時期に現れる。これを偶然と呼ぶには、出来すぎている」
陽太も同じことを考えていた。だが勘は証拠ではない。鬼頭は海外資本の名を一度も口にしていない。ただ、正論を語っているだけだ。門を開けろと。誰にも咎められない声で。
◇ ◇ ◇
電話を切った後、陽太は一人、会議室に残った。
ホワイトボードには、円と八つの点と、笹本が残した小さな紙切れが貼られている。そして今、その絵の外側に、新しい線が一本加わろうとしていた。国の側から包囲を歓迎する門。
「このままでは負ける」
陽太は、初めてそれを言葉にした。
法は届かない。凪が確認したとおりだ。
証拠はない。笹本が遡っても霧に消えた。
買収の当事者は誰も困っていない。むしろ喜んでいる。
世論は好況に沸いている。海外資本の歓迎ムードの中で危ないと叫ぶ男は、ただの不吉な予言者にしかならない。
そして、国の側の議論までが、包囲を歓迎する方へ傾き始めた。
(この流れの発端は瀬戸内素材取引所であり、その素材取引所を作ったのは俺だ。俺が作り出した本来の流れを歪めて、あらぬ方向に加速させている奴がいる。そのせいで、こちらの武器が全て空を切る)
だが、と陽太は思った。
空を切るのは、こちらが相手の土俵で戦おうとしているからだ。証拠で戦えば証拠のない者が負ける。世論で戦えば好況に沸く世論に負ける。ならば、土俵を変えるしかない。
陽太はマーカーを取り、ホワイトボードの隅に一行だけ書いた。
この国には、ダンジョン産業を守る仕組みが、一つもない。
それが、この一月で見えた唯一の、そして最大の事実だった。危険があるかどうかを証明する必要はない。危険が来たときに守る仕組みが、この国に存在しないこと。その欠落そのものを、国に突きつける。買収の一件一件を止めるのではなく、この国が丸ごと無防備であることを、国自身に認めさせる。
(証拠じゃない。設計図だ)
安く見られている資産に価値を証明してきたように。閉じた制度をこじ開けてきたように。今度は、空いている穴の形を、誰よりも正確に描いてみせる。穴を塞ぐ設計図を持って、国の土俵に上がる。
陽太は受話器を取り、もう一度鷹司の番号を回した。
「鷹司さん。俺も、その議論の場に立ちたい。海外資本を歓迎するかどうかじゃない。この国にダンジョン産業を守る仕組みが一つもないという話を、正面からさせてください」
電話の向こうで、鷹司が短く息を呑む気配があった。それから、久しぶりに愉快そうな声が返ってきた。
「……来ましたか。正直、あなたがそう言い出すのを待っていました」
「場は作れますか」
「作ります。特措法の見直しは、もともと俺が旗を振っている議論です。そこにあなたを参考人として引っ張り込む。土俵は、俺が整える」
鷹司はそこで一度言葉を切った。
「ただし、湊さん。一つだけ、先に言っておきます」
「なんですか」
「その見直しの議論の場に、ギルドからも参考人が出ることになっています。国際化推進の立場を説明するために」
陽太は受話器を握った。
「……鬼頭さんですか」
「本人が出ると聞いております」
窓の外では、港の灯りがいつもと変わらず穏やかに瞬いていた。五年かけて作った素材の道の上を、今夜も船が滑っていく。
その道を守る仕組みを持たない国の議事堂で、あの底の見えない老人と、もう一度向き合うことになる。