参考人招致まで、あと十日あった。
その十日のあいだにも、外堀は音もなく締まり続けた。
その朝、取引所の運営委員会から一通の文書が回ってきた。認定端末の保守会社からの通知である。取引所の認証システムを維持しているのは、買収された八社のうちの一社だった。
内容は次のシステム更新の予告だった。理由は「本国標準への統一」。共通仕様に揃えれば保守の効率と安全性が上がるという。文面はどこまでも真っ当だ。
だが、取引所の心臓は認証システムにある。誰がどの素材をいくらで競り落としたか、その記録を刻む仕組みだ。それが外国の仕様に置き換われば、記録の形式も鍵の在り処も更新の主導権も、少しずつ海の向こうへ移っていく。
陽太は文書を手に、取引所の鑑定室へ向かった。
栗山が査定台で若い鑑定人に手元の薬草を示していた。陽太が近づくと、顔を上げて会釈する。四年間ギルドの窓口で歪んだ秤に判を押し続け、今は正しい秤の側で査定人を務める男だった。
「栗山さん。この保守の更新の話、現場ではどう見えていますか」
栗山は文書に目を通し、しばらく黙った。それから静かに言った。
「……嫌な感じがいたします」
「というと」
「私は長く目利きだけで生きてまいりました。物の善し悪しを見る目には多少の自信があります。ですがこの端末の中身だけは、私には見えません」
栗山は文書の一行を指で辿った。
「四年間、私はギルドの査定場で中身の見えない秤を使っておりました。数字がどこで作られどこへ流れるのか、査定する私にすら見えなかった。……この端末が外国の仕様になれば、また同じことになりはしませんか。毎日叩いている秤の中身が、また見えなくなる」
陽太は栗山の言葉を胸に刻んだ。合法で、真っ当で、効率も上がる。だが積み上がれば、取引所が自分の心臓を自分で見られなくなる。
「よく分かりました。この更新は、委員会で一度止めてもらいます。時間を稼ぐだけですが」
「お役に立てましたなら」
鑑定室を出て、陽太は一つずつ書き留めた。保守の更新予告。計測器の共同開発からの離脱。研究者への招聘。法務への提携。物流網への参加要請。原料加工の買収。どれも合法で、どれも真っ当だ。
だが陽太は、これを証拠として集めているのではなかった。
(証拠じゃない。実例だ)
法廷に出す証拠にはならない。繋がりを示す糸は一本もない。だが、この国にダンジョン産業を守る仕組みが一つもないことを示す実例としてなら、一つ残らず使える。無防備であることの証人として、この一件一件が語り始める。
◇ ◇ ◇
夜。ウォーター・ベインの社長室で、陽太は凪と二人、参考人として何を語るかを詰めていた。
机の上には、この一月で集めた実例の束と、資源取引適正化法の条文が広げられている。
「方針は決まってる」
陽太はホワイトボードに一行書いた。危険の証明ではなく、制度の欠落の提示。
書きながら、陽太はマーカーを持つ手を一度止めた。
「……しかし、おかしな話だ。取引所を作ったとき、開けと言ったのは俺だった。閉じたままじゃ探索者が守られない、市場を開けと。それに、閉じないと危険だと言い返してきたのがギルドであり、鬼頭だ」
「それが今は逆ね」
凪が引き取った。
「開けと言ってるのが鬼頭で、待て危ないと止めようとしてるのがあなた。立場が入れ替わってる」
「ああ。だが中身は逆だ」
陽太はマーカーの尻でこめかみを叩いた。
「あのときギルドが守ろうとしたのは、自分たちの独占だった。閉じて得をする人間が危険だと叫んでた。今度俺が守るのは独占じゃない。開いた市場そのものだ。開けたまま、誰にも丸ごと持っていかせない。同じ“止めろ”でも、守るものが正反対なんだ」
「そこをはっきりさせないと、あなたが第二のギルドに見えるわ。開いた市場を、今度は湊が閉じにかかったって見える」
「そうならない言い方を探す。今夜の宿題だ」
陽太はホワイトボードの一行を指した。
「敵に悪意があると証明するのは無理だ。繋がりの証拠もない。だから、そこでは戦わない。この国にダンジョン産業を守る仕組みが一つもない、という穴そのものを見せる。買収の一件一件じゃなくて、国が丸ごと無防備だという事実を突きつける」
凪は腕を組んで聞いていたが、やがて静かに口を開いた。
「筋は通ってる。でも、それだけじゃ足りない」
「足りない?」
「弁護士として、実務家として言うわ。欠落を並べるだけの陳述は、必ずこう返される。『では、あなたは何を作れと言うのか』って」
凪は条文の束を指で叩いた。
「穴がある、危ない、無防備だ。それは全部正しい。でも、正しいだけの不安論は、前向きな正論……あえて言えば正義に負けるの。鬼頭は『開くべきだ』『世界に出るべきだ』って、明るい未来を語ってる。そこにあなたが『危ない、守る方法がない』って暗い話を並べたら、どう聞こえると思う」
「……時代遅れの、後ろ向きな男に聞こえる」
「そう。鎖国論者に見える。鬼頭の前向きな正義に、あなたの後ろ向きな正論が負ける。委員は明るい方を選ぶ。人間だもの」
陽太はホワイトボードの一行を見つめた。凪の指摘は正しかった。欠落を示すだけでは、守りの姿勢にしかならない。守りは、攻めの正論には勝てない。
「なら、どうする」
「対案よ」
凪はまっすぐに陽太を見た。
「守るための、前向きな設計を出すの。開くのをやめろ、じゃない。開いたまま守れる仕組みを、こっちが先に描く。鬼頭が『開け』としか言えないなら、あなたは『開けたまま、こう守る』と言う。同じ前向きの土俵で一段上を取る」
開けたまま、守る。
その言葉が、陽太の中で何かに触れた。
「……取引所を作ったときと同じだ」
陽太は静かに言った。
「あのとき俺が設計したのは、瀬戸内素材取引所と等級規格。市場を開いて、それでも自分が新しい独占者にならないための中立の委員会。開くことと、握らないこと。その二つを同時に立てる仕組みは、俺が一度作ってる」
「そうね。法律の方は鷹司さんたちが組んだけど」
凪は資源取引適正化法の条文を指で叩いた。
「あの法律は、あなたの取引所が守ろうとした素材の道に、政治の側から鎧を着せたもの。素材の現物だけを守る鎧だった。今度は、産業まるごとを守る設計を、あなたが先に描く」
「そういうことになるな」
凪の口元が少しだけ緩んだ。
「あなた、欠落を数えるのは得意でしょう。安く見られた資産の値打ちを証明してきたんだから。今度は、空いてる穴の形を正確に描いて、その穴を塞ぐ設計図を持っていく。証拠じゃなくて、設計図で戦う」
二人は机に向かい、条文と実例を並べ替え始めた。守るべきものは何か。開いたまま守るとはどういう形か。どの穴を、どの順番で塞ぐか。
言葉が交わされるたびに、白紙だったホワイトボードに骨組みが立ち上がっていく。恋人であり戦友でもある二人の手が、また一つこの国のための設計図を組み始めていた。取引所の設計を二人で詰めた、あの開場前夜と同じ手応えが、そこにあった。
◇ ◇ ◇
招致の三日前。陽太は一人、会議室に残っていた。
凪と組んだ対案は、我ながら筋が通っている。開いたまま守る仕組み。見張りを常設する制度。ここまでは読める。
読めないのは、相手だった。
陽太はホワイトボードの隅に、鬼頭の名を書いた。
固定価格の四年間、独占の門番を務めてきた男。素材を一つの窓口に集め、安く買い叩き、その差額で檻を維持してきた男。市場を開こうとする陽太を、初めは尾道や広島で手駒を使って間接に潰しにかかり、最後は国の会議で正面から相対した男だ。
その鬼頭が、旗を振っている。市場を世界に開け、と。
(分からない)
陽太はマーカーの尻で机を叩いた。
何度考えても、鬼頭の狙いの芯が掴めない。
独占の門番だった男が、なぜ今「開け」と言うのか。門を閉じて素材を握るのが、あの男の四年間だったはずだ。それを自分から開けろと言う。矛盾している。
国際化で得をするのか。だが鬼頭は海外資本の個別の話には一切触れていない。買収の群れとの繋がりも、鷹司が言ったとおり証明できるものは一つもない。あの男はただ正論を語っているだけだ。この国を世界に開くべきだ、と。誰にも咎められない声で。
相手の手を読み、狙いを見抜き、先回りして勝ってきた。安く見られた資産の裏を読み、閉じた制度の穴を読み、包囲の設計図まで読み切った。
だが、鬼頭という男の手だけが読めない。
(賛成で場を支配する男だ)
国の会議室で相対したときの鬼頭を思い出す。反対ではなく賛成で、褒め言葉と正論で場を支配し、その上で条件を差し出して骨を抜く。あのときも、賛成の顔の裏の狙いが最後まで見えにくかった。あの男の本当の狙いは、いつも一枚、遅れて見える。
今度も、同じかもしれない。
陽太は手を止めた。
相手の手が読めないまま、対決の場に立つ。相場師にとって、これほど嫌なことはない。読めない相手と向き合うのは、目隠しで殴り合うのに等しい。
だが、逃げるわけにはいかなかった。三日後、あの男は議事堂に出てくる。狙いの見えないまま、正面から向き合うしかない。
陽太は鬼頭の名の隣に、一つだけ書き足した。
何を、守ろうとしている。
問いのまま、答えは霧の向こうにあった。
◇ ◇ ◇
招致の前夜。
自宅の台所で、小春が夕食を並べていた。今夜は鰆の煮付けだった。使っている水は、いつものとおり自社の純水だ。
「お兄ちゃん。明日、東京の偉い会議に出るんでしょ」
「よく知ってるな」
「凪お姉ちゃんが電話で言ってた。緊張してるでしょって」
陽太は箸を止めた。妹には敵わない。
「緊張は、少しな」
「めずらしい。お兄ちゃんが緊張するなんて」
小春は向かいに座り、味噌汁の椀を両手で包んだ。この春から中学生になった妹の手は、少し大人びていた。
「でも大丈夫だよ。お兄ちゃんは世界で一番つよくてやさしいんだから」
「……その根拠のない自信は、どこから来るんだ」
「根拠ならあるもん。お兄ちゃんが作った水、わたしの体を治してくれたでしょ。わたしみたいな子が、世界中にいるんだよ。その子たちの水を守るために行くんでしょ」
陽太は、しばらく妹の顔を見た。
守ろうとしているもの。それは抽象的な「産業」ではなかった。この妹の手の中の一杯の水だった。魔素不適応症の体を治した純水。その源の泥スライムの核。核を測る規格。規格を運ぶ船。船を回す物流。研究の土台。そのどれか一つでも海の向こうの手に渡れば、いつかこの水が誰かの言い値でしか手に入らなくなる。
「そうだ。その子たちの水を守りに行く」
「でしょ。だったら負けないよ」
小春は得意げに笑った。
その夜、陽太のもとには短い連絡がいくつか届いた。
大西からは一言。「船は止めん。安心して東京へ行ってこい」。一鉄からも短かった。「造船所と工場は俺が繋いどく。坊主は坊主の現場をやれ」。栗山からは几帳面な字の手紙で、査定場に残った七人が今も台帳の隅に根拠の数字を書き続け、正しい秤の側で堂々と判を押せる日を明日の会議に託していることが綴られていた。
陽太は手紙を畳んだ。
守ろうとしているのは、産業という言葉ではない。大西の船。一鉄の繋いだ現場。栗山たち七人の待つ明日。羽山の名の付いた伝票。そして小春の手の中の水だった。顔のある、暮らしのある、一つ一つの現場だった。
そして明日は、その全部を守る戦いの初日であり、狙いの読めないあの老人と初めて正面から向き合う日でもある。
陽太は机に向かい、完成した設計図の一枚目を広げた。最初の一行にはこう書かれていた。
この国のダンジョン産業を、開いたまま守る。そのための見張りを、国の常設とする。
城島の遺した言葉が脳裏をよぎった。秤は歪む。見張りを絶やすな。あの言葉を、今度は国の仕組みとして立てる。
窓の外では、港の灯りが穏やかに瞬いていた。その道を守る設計図を胸に、陽太は明日、狙いの見えない相手の待つ議事堂へ向かう。