東京の委員会室は、狭く重かった。
特措法の見直しを審議する委員会である。馬蹄形に並ぶのは各省の局長級と大学教授、経済団体の幹部。参考人用の席は二つ用意されていた。一席には陽太が、もう一席にはあの男が着いた。
鬼頭である。
半年ぶりに正面から見る顔は、記憶よりも少しだけ皺が増えていた。だが穏やかな物腰も、内側の一切透けない滑らかさも、あの頃のままだった。陽太が会釈すると、鬼頭は温かく微笑んで頷き返した。
「湊さん。またお会いできて嬉しい。あなたが作った市場、見事に育ちましたな。私は心から感心しております」
嘘の匂いはなかった。心から感心している。だからこそ、陽太は警戒を解けなかった。
「本日はよろしくお願いします」
「ええ。良い議論にしましょう」
議長が開会を告げ、鬼頭が最初の意見陳述に立った。
「
柔らかな声が、静かな委員会室に染みていく。
「まず申し上げます。私は、この国のダンジョン産業が世界へ開かれていくことに、全面的に賛成でございます」
委員たちが顔を上げた。
「固定価格の時代は終わりました。市場を開いたのは正しい。これは湊さんの功績であり、私は一片の異論もございません。ならば、次に進むべき道は一つです。あの市場を、日本の内側だけでなく、世界へ開くことです」
鬼頭は資料を一枚もめくらなかった。すべてが頭に入っている。
「考えてみてください。この国の等級規格は、既に海の向こうで使われ始めている。日本の素材は世界が欲しがっている。ここで殻に閉じこもれば、成長は止まり技術は遅れ、いずれ世界に置いていかれる。開くべきです。今こそ、大きく、堂々と」
委員たちが頷いていく。陽太は反論の糸口を探した。しかし、探せば探すほど、隙がない。開くべきだ。世界に出るべきだ。閉じれば遅れる。どれ一つとして間違っていない。
(一分の隙も無く正しい)
過去目にした手口が、国家の舞台で完成形として展開されていた。反対ではなく賛成で、明るい未来の顔で、場の空気を一つの方向へ流していく。誰も逆らえない。逆らえば、時代遅れの鎖国論者になる。
「湊さんの開いた扉を、私どもはもっと大きく開けたいのです」
鬼頭は陽太の方を見て、柔らかく微笑んだ。
その微笑みの奥は、いつものように、何一つ透けてこなかった。
◇ ◇ ◇
次に、陽太が立った。
凪と組んだ方針は決まっている。危険の証明ではなく、制度の欠落の提示。そして、開けたまま守る対案。
「湊陽太です。鬼頭専務理事のお話、一つも間違っていないと思います」
鬼頭の眉がわずかに動いた。委員席にも意外の色が走る。
「開くべきだ。世界に出るべきだ。閉じれば遅れる。全て、そのとおりです。私も、この国の市場を開いた人間として、開くことに反対する気はありません」
陽太は手元の束を持ち上げた。この一月で集めた実例である。
「争点は、開くか閉じるかではありません。開いたとき、この国に守る仕組みがあるかどうかです」
束を一枚ずつ委員席へ示していく。
「今治の甲殻加工の最大手が海外資本に買われました。研究者に破格の招聘状が届いています。認定端末の保守が本国標準に統一されると通告が来ました。物流の情報網への参加を求められています。……一件ずつ見ると、全て合法で、全て真っ当です。誰も法を破っていない。誰も損していない」
委員たちが資料に目を落とす。
「ですが、これらを繋げて地図にすると、一つの絵が見えます。ダンジョン産業の中核ではなく、その周りの部品が一つずつ、静かに海の向こうへ移っている。中核は無傷のまま、いずれ周りを全部囲まれて、丸ごと孤立する」
陽太は束を置いた。
「私は、これが誰かの陰謀だと証明する気はありません。証拠はない。繋がりの糸もない。だから、私が申し上げたいのは、たった一つです」
委員席を見渡す。
「この国には、ダンジョン産業を守る仕組みが、一つもない。買収を止める法も、産業の急所を守る枠組みも、何も存在しない。開くこと自体は正しい。ですが、無防備なまま開けば、開いた扉から全部持っていかれる。……鬼頭専務理事は、開けと仰る。私は、開けたまま守れ、と申し上げたい」
委員の一人が口を開いた。
「では湊参考人。あなたは、何を作れと言うのですか」
凪が予言したとおりの問いだった。陽太は用意していた答えを、静かに置いた。
「見張りを国の常設にすることです」
陽太は設計図の骨子を示した。
「素材の現物だけじゃない。加工や計測、認証や研究、物流や法務。産業の急所が海外の一手に集中しないよう、届出と審査を国の側に常設する。市場は開いたまま、異常を見つける目を国が持つ。見つけた異常を止める手足を、法として備える。……開くことと、守ること。この二つを同時に立てる仕組みです」
委員席の空気が、わずかに動いた。鬼頭の「開け」に、陽太の「開けたまま守れ」が、同じ前向きの土俵で並んだ瞬間だった。
だが、決定打にはならなかった。委員たちは、二つの正論の間で、まだ揺れている。
そして、鬼頭が静かに手を挙げた。
◇ ◇ ◇
「湊さんの仰るとおりです」
鬼頭の第一声は、またしても賛成だった。
場がどよめいた。陽太も一瞬、耳を疑った。
「見張りは必要です。守る仕組みは要る。無防備なまま開けば危ういというご指摘、まったくもって正しい。私は、湊さんのこのご懸念に、心から同意いたします」
鬼頭は穏やかに委員たちを見渡した。
「ですから、申し上げたい。その見張りの役目、どこが担うのが最も適切か、ということを」
柔らかな声のまま、鬼頭は続けた。
「湊さんは、国の常設の新しい機関を、と仰る。立派な構想です。ですが、考えてみてください。今この国で、全国のダンジョンとそこで働く探索者、素材の流れの全てを把握している組織が既に一つある。四年以上かけて、全国津々浦々に網を張り、混乱の時代に秩序を保ってきた組織が」
委員の何人かが、その組織の名を思い浮かべた顔をした。
「
鬼頭は、自分の胸に手を当てるでもなく、ただ事実を述べるように言った。
「新しい機関を一から作れば、何年かかりますか。その間に、湊さんの仰る周りの部品は、どんどん囲まれていく。ならば、既にある我々が、その見張りを担えばよろしい。全国の網も人も経験も、既に揃っております。開いた市場を守る門番として、これ以上ふさわしい組織はございません」
陽太は、その瞬間、ようやく相手の手が見えた。
(──そういうことか)
読めなかった駒の動きが、一息に繋がった。
鬼頭は、開くか閉じるかで争ってなどいなかった。門を開ける旗を振っていたのは、その開いた門の門番の椅子に、もう一度座るためだった。
固定価格の檻は壊れた。素材を一つの窓口に集める時代は終わった。ならば次は、「開いた市場を守る見張り役」という新しい椅子を作り、そこに座り直せばいい。守る仕組みが必要だという陽太の正論すら、鬼頭にとっては、その椅子を正当化する追い風でしかなかった。
鬼頭の本質が見えた気がした。
盆栽の庭師。
鉢の形が変わっても、木を鉢に留め続ける男。固定価格という鉢が壊れたなら、国際化という新しい鉢を用意して、そこにまた木を植え替える。木が大きく育つことすら——市場が世界に開くことすら——庭師が鉢を握り続けるための手段の一つに過ぎなかった。
開けと言う独占者の謎が、ここで解けた。
開くことは支配を手放すことではなかった。支配の形を閉じるから、見張るに掛け替えるだけのことだった。
そして恐ろしいのは、鬼頭がそれを、微塵も悪びれていないことだった。
この男は、心から正しいと信じている。国には門番が要る。その門番を、経験ある我々が務める。それが国のためだと、一片の疑いもなく信じている。私欲で言っているのではない。だからこそ、その顔は穏やかで、その声は温かい。悪意なら剥がせる。だが、確信は剥がせない。
◇ ◇ ◇
陽太は立ったまま、慎重に言葉を選んだ。
「鬼頭専務理事。見張りが要るという点は、仰るとおりです。ですが、その見張りを機構が担うことには、反対します」
「ほう。なぜです」
鬼頭は気を悪くした様子もなく、むしろ興味深そうに問い返した。
「機構は四年間、素材を一つの窓口に集め、価格を決めてきた当事者です。市場の外にいる審判ではない。かつて、市場を独占していた側です。その組織が、今度は市場を守る見張りに座れば……守るという名目で、また流れ全体に手をかけられる。門番が変わっただけで、門が一つの手に握られる構図は、何も変わりません」
委員たちが、視線を鬼頭へ移した。
鬼頭は、静かに微笑んだ。
「湊さん。あなたは、私どもを信用しておられない。それは仕方のないことです。かつて対立した仲ですからな」
温度のない声だった。
「ですが、一つだけ伺いたい。では、その見張りを、あなたが担うのですか」
陽太は言葉に詰まった。
「あなたは、瀬戸内素材取引所を作った。等級規格を作った。この国のダンジョン産業の中核を、実質あなたの会社と、あなたの設計が握っている。……その中核を握る人間が、産業を守る見張りまで兼ねる。それは、独占ではないと言い切れますか」
委員会室が、静まり返った。
鬼頭は、追い詰める調子ではなかった。ただ、事実を並べるように、穏やかに続けた。
「あなたは私に、独占の門番だと仰る。ですが、湊さん。世界に開いた市場で、中核技術を一手に握り、その上で見張り役まで手にした若い経営者がいたとして。……それは、私が四年間務めた門番より、よほど大きな門番ではありませんか」
凪が、あの夜に警告した言葉が、陽太の耳の奥で鳴った。
そこをはっきりさせないと、あなたが第二のギルドに見える。開いた市場を、今度は湊が閉じにかかったと書かれる。
鬼頭は、その一点を、正確に突いてきた。
「私が新しい門番になりたいのではありません」
陽太は、静かに返した。
「見張りは、機構でも、私でもない。売り手と買い手と行政と学識者、それに探索者の代表。誰か一人が握れない形で、中立の器に委ねる。……瀬戸内素材取引所を、私が運営委員会に委ねたのと、同じやり方です。私は市場を作りましたが、価格には一切触れていない。手数料率も、私ではなく委員会が決めた。私は、新しい独占者にはならない。ならないための仕組みを、既に一度作っています」
「立派なお答えです」
鬼頭は微笑んだ。だが、頷きはしなかった。
「ですが、それは尾道の、一つの取引所の話。国全体の産業を守る見張りを、そんな寄り合いの委員会で担えますか。混乱の時代に、寄り合いは何もできなかった。だからこそ、強い一つの組織が要った。それが機構です。……理想は美しい。しかし、国の安全は理想では守れません」
委員たちが、また揺れ始めた。
正論と正論が、噛み合わないまま、ぶつかっている。陽太の「中立の器」と、鬼頭の「強い一つの組織」。どちらも正しく聞こえる。そして、決着はつかない。
議長が、時計を見て告げた。
「本日は双方のご意見を承ったところで、時間となりました。本件は継続審議といたします」
委員会室に、結論は出なかった。
◇ ◇ ◇
帰りの車中、陽太は窓の外を流れる東京の街を眺めていた。
敵の手はようやく見えた。鬼頭は開いた市場の門番の椅子を狙っている。それがあの男の狙いの芯だった。読めなかった駒が今日繋がった。
だが、掴んだところで勝ち筋は見えなかった。
鬼頭の主張は正論だ。守る仕組みが要るのは事実で、全国組織の機構が担い手として妥当に見える。中立の器という陽太の対案は美しいが、実績も規模もない。委員会は、明るくて強い方を選ぶかもしれない。
◇ ◇ ◇
帰りの車中、陽太は窓の外を流れる東京の街を眺めていた。
敵の手はようやく見えた。鬼頭は開いた市場の門番の椅子を狙っている。それがあの男の狙いの芯だった。読めなかった駒が今日繋がった。
だが、掴んだところで勝ち筋は見えなかった。
鬼頭の主張は正論だ。守る仕組みが要るのは事実で、全国組織の機構が担い手として妥当に見える。中立の器という陽太の対案は美しいが、実績も規模もない。委員会は、明るくて強い方を選ぶかもしれない。
そして、もう一つ。
(鬼頭一人じゃ、あの買収の群れは説明できない)
陽太は、掴んだ手のその先を見ていた。
鬼頭は国内で門番の椅子を狙う男だ。だが、外堀を実際に買い占めている霧の向こうの資本と鬼頭を繋ぐ糸は、今日の委員会でも一本も見えなかった。鬼頭は海外資本の個別の話には、今日も一切触れていない。
だが、もし鬼頭が見張り役の椅子に座ったとき——その見張りが、誰の味方をするのか。開いた門の門番が、外から入ってくる霧の向こうの手を、本当に止めるのか。それとも通すのか。
そこに、二つの影が繋がる予感だけが残った。
携帯が鳴った。笹本だった。
「湊社長。今、お時間よろしいですか」
「どうしました」
「取引所の台帳を、この一週間、見ていました。……妙な動きがあります」
笹本の声は硬かった。
「買収の群れとは別の動きです。今度は現物じゃない。素材の値段そのものに、外から手が伸び始めています。誰かが、市場の価格を動かそうとしている気配があるんです」
陽太は、窓の外の街を見た。
現物を買う包囲が外堀を締めている。その裏で、今度は価格そのものへ別の手が伸び始めた。門番の椅子を狙う鬼頭の向こうに、まだ姿を見せないもう一つの影がある。
「……詳しく聞かせてください。明日、朝一番で」
電話を切り、陽太は目を閉じた。
敵の輪郭が、一つ見えた。だが、その後ろに、もっと大きな輪郭が霧の中で動き始めていた。