翌朝の会議室には、取引所の台帳の写しが山積みになっていた。
笹本が徹夜で拾い出した数字を、紬が別の角度から検算している。陽太は一週間分の値動きを紙に落とし、指でなぞっていた。
「湊社長。まず、これを見ていただきたい」
笹本が一枚の表を示した。上位等級の魔石の、直近十日の値動きである。
「上がって、下がって、また上がる。振れ幅が、この十日で三倍になっています」
「需給の変化は」
「ありません。出品量も落札量も、先月とほとんど同じです。素材の量は変わっていないのに、値段だけが暴れている」
陽太は表を睨んだ。相場師の目に、その形は見慣れたものだった。
「買い方の癖はどうですか」
「そこが妙なんです。同じ買い手が、朝に大量に買って、夕方に同じだけ売っている。翌日は逆をやる。……買った素材を、使った形跡がまったくない」
紬が顔を上げた。
「使ってないんですか。魔石ですよ。上位等級なんて、加工屋が喉から手が出るほど欲しがる品なのに」
「一度も出荷されていません。倉庫から動いていないんです。買って、置いて、売る。それだけです」
会議室が静まった。
陽太は指を止めた。頭の中で、盤面が組み上がっていく。
「……この買い手は、素材が欲しいんじゃない」
「と、仰いますと」
「欲しいのは値動きだ。上がり下がりそのものを、こいつが作ってる」
陽太は紙の上に、山と谷の形を書いた。
「買い占めなら、買った素材は消える。使うか、囲うか、運び出すかだ。だがこいつは買った端から売り戻してる。倉庫の中身は増えも減りもしない。素材の量が変わらないまま、値段だけが揺れる」
「なぜ、そんなことを」
紬の問いに、陽太は少し考えてから答えた。
「値動きは、それ自体が商品になる。上がると思う奴と下がると思う奴の間で、賭けが成立する。相場師の世界じゃ、値段が動くこと自体で稼ぐ手口がいくらでもある。……こいつは素材の商人じゃない。値段の商人だ」
笹本が息を吐いた。
「財務屋の目から見ても、同じ結論です。これは投資じゃない。価格を道具に使う手口です」
陽太はもう一度、十日分の値動きを見た。
自分がよく知っている形だった。かつて画面の向こうで、毎日のように見ていた形。
だが、あれは金融商品の話だった。今、目の前で揺らされているのは、探索者が命懸けで持ち帰った魔石の値段である。誰かの一ヶ月の暮らしが、その値段に乗っている。
(……嫌なものを見た)
その感覚を、陽太は言葉にしなかった。
◇ ◇ ◇
夕方、凪と鷹司を交えて話をした。鷹司は東京から回線越しである。
「結論から言うわ。この動き、現行法のどこにも触れない」
凪は資源取引適正化法の条文を開いたまま言った。
「この法律が縛るのは、素材の現物を誰がどれだけ取得するか、それを国の外に移すときに届け出させるか。この二つだけ。……買って売り戻す取引は、現物の取得に当たらないの。一日で戻してるんだから、保有すらしていない」
「取引所の規約は」
「同じよ。規約は不正な価格操作を禁じてる。でも、この動きが操作だと証明するには、意図を立証しないといけない。値段を吊り上げる目的でやったと。……買って売っただけの取引を、どうやって目的まで証明するの」
「できない、か」
「できないわね。むしろ向こうは、市場に流動性を供給していると言うでしょうね。買い手が増えて出来高が上がった、市場が活発になった、感謝されてもいいくらいだと」
回線の向こうで鷹司が唸った。
「国政の側も同じです。この手の話は、そもそも所管が決まっていない。素材なら経済官庁、金融なら金融当局、ダンジョンなら特措法の所管。三つの役所がお互いを見て、うちの話ではないと言い合う。……どこも日和見です」
「鷹司さんでも」
「俺一人が旗を振っても、そもそも旗を立てる柱がない。買収の群れですら合法で手が出せなかった。今度のはもっと厄介だ。買収は少なくとも登記に名前が残る。これは、名前すら残らない」
陽太は台帳の写しを手に取った。
「笹本さん。この買い手の身元は、どこまで分かりましたか」
「取引所の参加登録は、正規のものです。登録されている法人名も実在します。ですが」
笹本は資料をめくった。
「その法人の親会社を辿ると、また同じ壁でした。名前を出さなくていい国の、名前を出さなくていい器。……国籍が、分かりません」
「どこの国か分からない、ではなく」
「国籍そのものが、無いに等しい形です。登記はいくつもの国にまたがり、資金はどこにも留まらない。強いて言えば、どの国にも属していません」
会議室が静かになった。
凪が、ゆっくりと口を開いた。
「……どこの国が攻めてきた、なら分かりやすいのに。それなら外交も、法律も、まだ手の打ちようがある。でもこれは、国と国の話ですらないのね」
「国じゃない何かが、国の産業に手を入れてる」
陽太は呟いた。
買収の群れは、少なくとも会社という形をしていた。名義を辿れば霧に消えるとはいえ、買った先には工場があり、従業員も看板もあった。だがこの価格の買い手には、何もない。工場も従業員も看板もない。ただ、値段だけがある。
顔がない。
その一点が、これまでのどの敵とも違っていた。
◇ ◇ ◇
その夜、陽太は一人で会議室に残り、ホワイトボードの前に立った。
円と、八つの点と、笹本の紙切れ。そこに、新しい線を一本書き足す。価格。
三つの層が、盤面に並んだ。
外堀を買い占める買収の群れ。門番の椅子を狙う鬼頭。そして、値段そのものを揺らす顔のない買い手。
陽太はマーカーを持ったまま、長いこと動かなかった。
鬼頭は、見張り役の椅子に座ろうとしている。もし座れば、開いた市場を守る門番として、この国の産業の流れ全体に手をかけることになる。
では、その門番は、価格の揺れをどうするのか。
(止めるのか。それとも、通すのか)
陽太はマーカーの尻でこめかみを叩いた。
もし門番が価格の揺れを放置すれば、外の資本は好きなだけ値段を揺らせる。門は開いたまま、入ってくる者は誰も止められない。門番はただ、門の前に立っているだけでいい。それでも門番の権威は保たれ、椅子は温まり続ける。
噛み合っている。
鬼頭が椅子に座ることと、顔のない買い手が値段を揺らすこと。この二つは、驚くほど都合よく噛み合っている。
だが、と陽太は思った。
噛み合っていることと、繋がっていることは、違う。
鬼頭が価格の揺れに関与している証拠は、一つもない。それどころか、あの男は今回の動きを知りもしないかもしれない。門番の椅子を欲しがるのは、あの男が四年間ずっとやってきたことだ。海の向こうの誰かに頼まれるまでもなく、自分の意思でそこに座ろうとしている。
示し合わせているのか。それとも、たまたま同じ方向を向いているだけなのか。
陽太には、判断がつかなかった。
二つの影の間に、線を引くべきか。引かないべきか。マーカーを持つ手が、ホワイトボードの前で止まったままだった。
結局、陽太は線を引かなかった。
見えていないものを、見えたことにするのが一番危ない。相場でも、それで何度も人が死ぬのを見てきた。繋がっていてほしいという願望は、しばしば繋がっているという確信に化ける。
二つの点は、線で結ばずに、そのまま置いた。
◇ ◇ ◇
翌日、陽太は運営委員会に出席した。
委員長の藤岡が、値動きの資料を配っていた。羽山が探索者代表として渋い顔をしている。
「湊さん。うちの連中が騒いでます」
羽山が口を開いた。
「先週、上位の魔石を売った奴が、翌日には二割高になってて悔しがってる。逆に、高いと思って待ってた奴は、下がってから売る羽目になった。……腕でも品質でもなく、売った日で実入りが決まるんじゃ、探索者はたまったもんじゃないっす」
その言葉が、陽太の胸に刺さった。
二枚の伝票を掲げて、腕が値段にならない秤を壊したのは自分だ。その市場で今、売った日で実入りが決まる歪みが生まれている。秤の目盛りを直したはずが、今度は秤ごと揺すられている。
「羽山さん。すまん」
「いや、社長を責めてるんじゃないっす。ただ、現場は、そう感じてるって話で」
「分かってる。だからこそ、これは俺が止める」
陽太は委員会に向き直った。
「委員会にお願いがあります。急激な値動きが出たときの一時停止の基準を、前倒しで詰めさせてください。それと、同一参加者の日中の売買回転を、記録として残す仕組みを。……止める権限はまだ持てなくても、記録があれば、後から形が見える」
藤岡が頷いた。
「異論はありません。ただし、湊さん。運営委員会はあなたの会社の道具ではない。この提案も委員会として議論して決めます」
「そのとおりです。それでいい」
この釘の刺し方に、陽太は少しだけ安堵した。この市場は自分のものではない。そう言い続けてくれる委員長がいることが、鬼頭に「あなたが門番になるのか」と問われたときの、唯一の答えだった。
会議の後、陽太は一人で競り場を見下ろした。
セリ台では今日も値が呼ばれている。羽山の言うとおり、探索者たちの表情には、以前にはなかった落ち着かなさがあった。値が読めない。腕でも品質でもない何かが、実入りを決めている。
(法も国も動けない)
現物の買い占めなら、まだ法の穴を塞ぐ話ができた。だが価格の揺れには、塞ぐべき穴の形すら定まっていない。
ならば、戦える場所は一つしかない。
値段そのものの土俵だ。
相場師として生きてきた。安く見られた資産の値打ちを見抜き、群衆の恐怖と欲を読み、値段の歪みで飯を食ってきた。あの技術を、金を増やすためではなく、この市場の値段を守るために使う。
顔のない買い手が値段で殴りかかってくるなら、こちらも値段で受けて立つ。
陽太は競り場のざわめきを聞きながら、静かにそう決めた。
◇ ◇ ◇
三日後の夜。笹本が社長室に現れた。手にはいつもの手帳がある。
「湊社長。一つ、耳に入れておきたい話がございます」
「どうぞ」
「先日、旧知の証券会社の人間と会いまして。今の値動きの話をしたんです。……そうしたら、名前が出ました」
笹本は手帳を開いた。だが、そこに書かれているのは、社名でも国名でもなかった。
「業界で、そう呼ばれているだけの通称だそうです。登記された名前ではありません。国も、本社の場所も、誰も知らない。……ただ、ここ数年で世界のあちこちに似た値動きが起きたとき、必ずこの呼び名が囁かれるのだと」
「呼び名は」
「アトラス、と」
陽太は、その音を口の中で繰り返した。
「世界を担ぐ巨人ですか」
「その由来かどうかは、誰も知らないそうです。名乗ったこともない。どこかの誰かがそう呼び始めて、いつのまにか業界に定着した。……それだけです」
笹本は手帳を閉じた。
「私が聞けたのは、ここまででした。正体も、狙いも、何一つ分かりません。ただ、この名前が囁かれる場所では、必ず値段が壊れているのだそうです」
「……ありがとうございます。十分です」
笹本が去った後、陽太はホワイトボードの前に立った。
円と、八つの点と、価格の線。そして、その先に、初めて名前を書き込む。
アトラス。
国籍もなく、本社もなく、名乗ったこともない。ただ、値段が壊れる場所に、必ずその呼び名が現れる。
外堀を買う群れ。門番の椅子を狙う老人。そして、値段を狩る顔のない巨人。
三つの影が、盤面に出揃った。だが、それらを繋ぐ一本の糸は、まだ誰の手にもない。
陽太はマーカーを置き、窓の外を見た。
港の灯りは、いつもと変わらず穏やかに瞬いている。その下では、明日の競りに出す素材が、今夜も船で運ばれてきているはずだった。
顔のない巨人の名を、陽太は静かにもう一度呟いた。
名前が付いた。それだけで、霧の濃さが少し変わった気がした。