東京の議員会館は、廊下まで人で溢れていた。
鷹司の部屋は、その喧騒から外れた棟の端にある。派閥に属さない議員に割り当てられる、日当たりの悪い一室だった。
「湊さん。まず、現実的な話をします」
鷹司は書類の山を横にどけて、机の上に空間を作った。
「先日の委員会は継続審議になりました。これは、こちらが勝ったという意味じゃない。むしろ逆です」
「逆、ですか」
「継続審議のまま季節が過ぎれば、勢いのある方の案が既成事実になります。今、勢いがあるのは鬼頭さんの方だ。……機構に見張りを担わせる案は、委員の間で確実に支持を広げております」
陽太は表情を変えなかった。予想の範囲だった。
「理由は簡単です。あの案には、実物があるからだ。全国の網、四年分の実績、動かせる人。対してこちらの中立の器は、まだ紙の上にしかない。役所が選ぶのは、いつだって明日から動く方です」
「時間はどれくらいありますか」
「半年、と言いたいところですが。……三ヶ月と見ておいた方がいい」
鷹司は指を三本立てた。
「三ヶ月のうちに、こちらの案が紙の上から降りてこなければ、議論は鬼頭さんの側で固まります。そうなれば、後から覆すのは不可能に近い」
「では、その三ヶ月で何をしますか」
「議題を作ります」
鷹司は身を乗り出した。
「今、この国には、この問題を扱う場所がありません。買収は経済官庁、価格は金融当局、ダンジョンは特措法の所管。三つがお互いを見て、うちの話ではないと言い合っている。……だから、三つの真ん中に、新しい議題を立てる」
「議題の名前は」
「そこが肝心なところです。名前がないものは、政治では存在しないのと同じですから」
鷹司はそこで一度言葉を切り、それから声を落とした。
「湊さん。一つだけ、先に申し上げておきます。この議題を立てれば、俺はまた重鎮を敵に回すことになる。海外資本の受け入れを推している先生方は、党の中に何人もおられます」
「鷹司さんの立場は」
「派閥はない。後ろ盾もない。前の一件で、切ろうとした連中の方が先に瓦解したので、辛うじて党籍が残っているだけです。……次はどうなるか分かりません」
陽太は、この男の顔を見た。楕円球の選手だったという肩幅の広い体が、日当たりの悪い部屋の椅子に窮屈そうに収まっている。
「無理はしないでください、と言っても」
「無理をしないなら、俺は最初から議員になっていない」
鷹司はにやりと笑った。前と同じ台詞だった。
「地盤も看板も鞄もない男が、無理を通す以外に何ができます」
◇ ◇ ◇
三日後、非公式の勉強会が開かれた。
議員会館の小会議室に、関係する三つの役所の課長級と、有識者が二人。鷹司が声をかけて集めた、記録の残らない場である。陽太は説明者として呼ばれた。
台帳の数字と、買収の実例と、価格の異常。三十分かけて説明を終えると、部屋の空気は目に見えて重くなった。
最初に口を開いたのは、経済官庁の課長だった。
「湊さんのご懸念は理解しました。ただ、率直に申し上げて、我々の立場は違います」
課長は資料を指で叩いた。
「今、この国のダンジョン産業に流れ込んでいる海外資本は、去年の四倍です。工場が建ち、雇用が生まれ、輸出が伸びている。これを規制すれば、投資は一夜で逃げます。……日本は投資に閉じた国だという評判が立てば、取り返すのに十年かかる」
「実際に、今治の工場は設備を増強しました。従業員も増えています」
陽太は認めた。
「その事実を否定する気はありません。ただ、その工場の親会社が誰なのか、遡ると分からなくなる。分からない相手に、この国の産業の急所が渡っていく」
「分からないから危ない、というのは、証拠ではありませんな」
別の役所の課長が引き取った。こちらは疲れた顔をしていた。
「仮に湊さんの仰るとおりだとします。では、どこが止めるんです。うちには権限も予算も組織もない。新しい仕組みを作ると言っても、法律を通すのに一年、組織を作るのに二年。その三年、誰が責任を持つんですか」
「責任の所在がないから、誰も動かない」
「そのとおりです。役人が動かないんじゃない。動く根拠がないんです」
陽太は頷いた。この二人は敵ではない。むしろ、動けないことに苛立っている側の人間だった。
最後に、有識者の一人が手を挙げた。市場経済を専門にする大学教授である。
「湊さん。私は、あなたの仕事をずっと拝見してきました。固定価格の檻を壊し、市場を開いた。あれは戦後最大級の規制改革だったと思っています」
「恐れ入ります」
「だからこそ、伺いたい」
教授は静かに言った。
「規制を壊してきたあなたが、今度は規制を作れと仰るのですか」
部屋が、静まった。
「市場に任せればいい。海外資本が入ってくるのも市場の判断です。競争力のない会社は買われる。それが市場というものでしょう。あなたはそれを誰よりも知っているはずだ。……政府が守るべき産業を選び始めたら、それはあなたが壊したはずの、固定価格の檻と何が違うのですか」
陽太は、すぐには答えられなかった。
答えを持っていなかったからではない。教授の問いが、この一月ずっと自分の胸の底で燻っていたものと、寸分違わず同じ形をしていたからだった。
「……ご指摘、持ち帰ります」
陽太はそう答えた。
教授は満足そうでも不満そうでもなく、ただ頷いた。
◇ ◇ ◇
その夜。陽太は宿の部屋で一人、窓の外の東京を眺めていた。
規制を壊してきた男が、今度は規制を作れと言う。
教授の問いは正しい。四年間、自分がやってきたのは、まさに規制を壊すことだった。納品義務という規制を突き崩し、固定価格という檻を開いた。歪んだ秤を作り直せと叫んだのは自分だ。
その男が、今度は守るための枠を作れと言っている。
(矛盾しているのか)
陽太はグラスの水を見つめた。
もう一つ、教授には言わなかったことがある。
この状況で、相場師の計算なら、正解は決まっている。
売り抜けだ。
ウォーター・ベインの価値は、今が天井に近い。海外資本が押し寄せている今なら、会社は史上最高の値で売れる。純水フィルターの製法も等級規格に関わる権利も、まとめて売り渡せば、一生かかっても使い切れない金が手に入る。買われた後の日本の産業がどうなろうと、それは売った後の話だ。
安く見られている資産を買い、価値が証明された時点で売り抜ける。それが相場師の仕事だった。四年前まで、自分はそれが正しいと思っていた。今も、その計算は頭の中で正確に動いている。どの資産をいくらで、どの順番で売れば最も高く抜けられるか、三十秒で組み立てられる。
できないのではない。分かった上で、しない。
(なぜだ)
陽太は自分に問うた。
小春のためだ、と最初は思った。だがそれは半分でしかない。金があれば、妹の水はどこの国からでも買える。海外に移り住むことだってできる。売り抜けは、妹一人を守るなら最適解ですらある。
なら、なぜ売らないのか。
陽太の脳裏に、いくつもの顔が浮かんだ。
伝票を掲げた羽山。査定場に残った七人。工場を残すために魂でも売ると言った浜岡。船を止めんと書いてよこした大西。造船所と工場を繋いだ一鉄。研究室が楽しいと笑った紬。
自分が売り抜けたあと、この人たちは、この国に残る。
それが答えだった。
相場師だった頃、自分が売り抜けた後に何が残るかを考えたことは一度もなかった。画面の向こうに人がいることを知らなかったからだ。今は知っている。値段の向こうに、顔がある。
陽太はグラスを置いた。
だが、それは感情の答えだ。教授の問いに、感情で返すわけにはいかない。あの人は理屈で問うた。ならば理屈で返さなければならない。
◇ ◇ ◇
答えが降りてきたのは、翌朝、始発のバスを待つターミナルでだった。
薄明かりのターミナルに、通勤の人の列ができ始めている。誰も列を乱さない。陽太はその列を眺めながら、ふと考えた。
この列が成り立つのは、全員が同じ前提に立っているからだ。明日もバスが来る。割り込まなければ順番に乗れる。その前提を共有している人間だけで、列は成り立つ。
もし、バスそのものを持ち去るつもりの人間が列に並んでいたら。
その瞬間、陽太の中で、教授への答えが形になった。
高速船で尾道に戻ったその日、陽太は鷹司に電話をかけ、あの教授への回答を伝えた。
「自由市場は重要です。この点は、俺は一歩も引きません」
陽太は受話器に向かって話した。
「ですが、市場が市場として機能するには、前提があります。参加している全員が、その市場から長く利益を得ようとしていること。買い手も売り手も、来年もこの市場で商売をするつもりでいること。……この前提があるから、値段が需給を語り、競争が品質を上げる」
「ふむ」
「今、この国に来ている相手は、その前提の外にいます」
陽太は言葉を続けた。
「価格を揺らしている相手は、市場から利益を得ようとしていない。市場が壊れることから利益を得ている。買収の群れは、市場に参加しに来ているんじゃない。市場そのものを、部品にして持ち去りに来ている。……この相手に、市場の論理は通じません。競争力のない会社が買われるという話ですらない。競争する気のない相手が、盤ごと持っていこうとしている」
「なるほど」
「だから、俺が作りたいのは、産業を保護する規制じゃない。政府が守るべき会社を選ぶ話でもない。……市場が、市場であり続けるための土台です」
陽太は、教授の問いに正面から答えた。
「固定価格の檻は、市場そのものを禁止する仕組みでした。俺が作りたいのは逆です。市場を開いたまま、盤を持ち去ろうとする者だけを見張る仕組み。誰と取引してもいい。誰が来てもいい。ただし、盤は譲らない」
受話器の向こうで、鷹司がしばらく黙った。
「……湊さん。それを、そのまま先生方の前で言ってください」
「伝わりますか」
「伝わります。俺が保証する。……そして、その話には名前が要る」
◇ ◇ ◇
議題の名前が決まったのは、その週の終わりだった。
「ダンジョン主権、でどうです」
鷹司が電話越しに提案した。
「素材の話でも、技術の話でもない。この国が、自分のダンジョン産業を自分で決められるかどうか。その権利の話だと、正面から名付ける」
「強い言葉ですね」
「強くなければ議題になりません。守るとか安全とか、そういう柔らかい言葉では役所の机の上で埋もれます。……主権と言えば、埋もれない。誰かが必ず怒りますからな」
陽太は少し考え、それから頷いた。
「いいと思います。ただ一つ、条件をつけさせてください」
「なんです」
「主権という言葉を、閉じる方向に使わせないこと。この言葉は、必ず鎖国論者に利用されます。海外資本を全部追い出せ、外国と取引するな、と言い出す人が出てくる」
「……そうでしょうな」
「主権は、閉じるための言葉じゃない。開けたまま、譲らないための言葉です。そこだけは、最初にはっきり定義しておきたい」
「承知しました。俺が最初の説明でそう定義します」
電話を切って、陽太は窓の外を見た。
◇ ◇ ◇
その翌週、鷹司から続報が届いた。
ダンジョン主権という議題は、思ったよりも早く永田町を回り始めた。だが同時に、別の動きも進んでいた。
「湊さん。……向こうも早い」
鷹司の声は硬かった。
「機構の案が、正式な形で出てきました。ダンジョン産業の健全な国際化を監督する常設機関を、日本探索者支援機構の内部に設置する。名前まで付いております。国際化推進本部、と」
「委員会の反応は」
「悪くない。むしろ、良すぎる。実物があって、明日から動くと言われれば、役所は乗ります。……それに、鬼頭さんは主権という言葉にも賛成しておられる」
「賛成」
「ええ。日本のダンジョン主権を守るために、機構が国際化の窓口を一元的に管理する。……あの人はまた、こちらの旗を先に振っているんです」
陽太は目を閉じた。
賛成で場を支配する男。こちらが立てた議題すら、あの男は微笑んで受け取り、自分の椅子を正当化する材料に変えていく。
主権という言葉を、門番の椅子の背もたれにされようとしていた。