紙の上の案は、実物には勝てない。
鷹司の言葉を、陽太は尾道に持ち帰った。三ヶ月。その間に中立の器を、紙から降ろさなければならない。
取引所の会議室に、凪と笹本、そして運営委員長の藤岡が集まった。ホワイトボードには、まだ骨だけの設計図が書かれている。
「まず決めるべきは三つです」
陽太は順に書き出した。
「誰が入るのか。どう決めるのか。金はどこから出るのか。この三つが埋まらないと、実物とは呼べない」
「入る顔ぶれは、取引所の運営委員会をそのまま大きくすればいいわ」
凪が言った。
「売り手と買い手の代表に行政、学識者と探索者代表。それに研究機関と物流を足す。誰か一人が過半を取れない構成にする」
「金は」
笹本が資料をめくった。
「取引所の手数料収入の一部と、参加企業の拠出、それに国の予算。三本足にすれば、どれか一本が抜けても倒れません。……ただし、国の予算を入れれば、国の顔色を見る組織になる危険もあります」
「そこは比率で縛る。国からの拠出は三分の一を超えない。条文に書き込みます」
議論が進み、骨格が少しずつ肉を持ち始めた。
その流れを、藤岡が静かに止めた。
「湊さん。一つ、実務の話をよろしいですか」
「どうぞ」
「この設計、遅すぎます」
場の空気が止まった。藤岡は眼鏡を押し上げ、淡々と続けた。
「運営委員会を四年近く回してきた人間として申し上げます。委員会というのは、遅い。議題を出して資料を配り、日程を調整して議論して、決を採る。早くて三週間。もめれば二ヶ月かかります」
「必要な遅さだと思っていましたが」
「必要です。だからこそ、この形は正しい。……ですが、機構は速い。専務理事が判を押せば、その日のうちに全国が動く」
藤岡はホワイトボードを指した。
「役所の方々が実物を求めるというのは、明日から動くという意味です。三週間かかる器と、その日に動く組織。どちらが頼もしく見えるか。……速さで負ける設計では、勝てません」
陽太はしばらく黙った。反論の余地はなかった。
「藤岡さん。ではどうすれば、遅さを保ったまま速く動けますか」
「二段にすることです」
藤岡は即答した。この男も同じことを考えていたのだと分かった。
「日常の判断と、根幹の判断を分ける。日常は事務局が即断即決する。ただし全て記録に残し、事後に委員会が検証する。根幹に関わることだけを、委員会の合議で決める。……取引所でも、実際にはそうやって回しております」
「即断の範囲を、あらかじめ条文で切っておく」
「そうです。速さは委任で作る。歯止めは事後の検証で担保する。委任の範囲を厳密に書けるかどうかが、この設計の生死を分けます」
凪がペンを走らせた。
「そこは私が書く。委任の範囲を曖昧にした条文は、必ず後で誰かに広げられるから」
骨組みが、少しずつ立ち上がっていく。
◇ ◇ ◇
翌週、陽太は回線越しに十七人と向き合っていた。
全国二十を超える実証区域のうち、市場を稼働させている取引所の代表たちである。仙台に名古屋、福岡に札幌。画面の中に並ぶ顔の多くは、尾道の可決の報を聞いて自分たちの都市圏を動かした人々だった。
「機構の国際化推進本部の話は、皆さんのところにも届いていると思います」
陽太が切り出すと、画面の中で何人かが渋い顔をした。
「届いとります。うちにも説明に来ましたわ」
福岡の代表が口を開いた。
「海外との取引の窓口を、機構が一元的に管理する。手続きが楽になる、書類も一本化される、通訳も付ける。……悪い話には聞こえんのですよ、正直」
「うちもです」
仙台の代表が続けた。
「ただ、聞いているうちに、妙に懐かしい感じがしましてね。ああ、これは知っている形だな、と」
画面のあちこちで、苦い笑いが漏れた。
「窓口が、一つになる」
誰かが言った。
その言葉に、全員が黙った。固定価格の四年間を、この人たちは全員それぞれの土地で経験している。素材を持ち込む先が一つしかない。値段はそこが決める。断れば売る場所がない。あの構図の記憶が、この場の全員に共有されていた。
「今度は、海外との取引口が一つになるわけです」
名古屋の代表が呟いた。
「そうなったとき、真っ先に細るのはどこですか。尾道さんは規模がある。海外の買い手も直接来る。……うちみたいな小さい市場は、機構の窓口を通さないと、そもそも海外に売る道がなくなる」
「うちもだ」
「札幌も同じです」
陽太は、その言葉を受け止めた。
尾道は日本最大の市場である。取扱高も、参加者の数も、他の追随を許さない。だからこそ、この提案で最も損をしないのは尾道であり、最も締め上げられるのは規模の小さい市場だった。
「一つ、はっきりさせておきたいことがあります」
陽太は画面に向かって言った。
「機構でも尾道でもない中立の器を作る。この案は、俺が言い出したものです。ですが、この提案を尾道の名前で出すつもりはありません」
画面の中の顔が、いくつか上がった。
「なぜです」
「尾道が仕切れば、私……湊陽太が全国の市場を束ねたと見られるからです」
陽太は正直に言った。
「それでは、窓口が一つになる話と、何も変わらない。機構の代わりに俺が座っただけです。……この案は、二十の市場の共同提案でなければ意味がない。発議は、どこか別の特区からお願いしたい」
しばらく、誰も口を開かなかった。
やがて、仙台の代表が笑った。
「湊さん。あんた、面白い人ですな。普通、こういう話は自分が旗を持ちたがるもんだ」
「旗を持ったら負けなんです。この案に限っては」
「……なるほどな。分かりました。うちが発議しましょう。仙台は尾道の次に古い市場だ。年の功ということで」
「異論なし」
「うちも乗ります」
声が次々に上がった。
その日の会議で、共同提案の骨子が固まった。発議は仙台。尾道は起草に協力するが、名前は最後に並べる。二十を超える市場が、それぞれの都市圏の議会と歩調を合わせて動く。
回線が切れた後、凪が机の向こうから陽太を見ていた。
「よく我慢したわね」
「我慢じゃない。計算だ」
「そう? 旗を持ちたくない顔じゃなかったけど」
陽太は苦笑した。
持ちたくないわけではない。この設計は自分が組んだものだ。名前を残したい気持ちが皆無だと言えば嘘になる。
だが、あの委員会室で鬼頭に問われた言葉が、まだ耳に残っていた。中核を握る者が見張り役まで手にすれば、それは独占ではないのか。
言葉で否定するより、こうやって旗を手放して見せる方が早い。
◇ ◇ ◇
その週の終わり、栗山が社長室を訪ねてきた。
几帳面に一礼してから、封筒を差し出す。
「査定場の者から、手紙を預かってまいりました。……妙な話でございまして」
陽太は封を切った。窓口に残った七人のうちの一人からだった。
文面は要領を得ない部分もあったが、要点は掴めた。
国際化推進本部の設置に伴い、全国の支部の窓口職員が、順次「国際窓口業務」の担当へ組み替えられるという内示が出ている。海外の買い手からの問い合わせ対応、書類の英訳、通関の手配。そのための研修が来月から始まる。
「……国際窓口業務」
「はい。査定場の連中は、困惑しております」
栗山は静かに言った。
「あの者たちは、四年間、探索者から素材を受け取ってきました。歪んだ秤ではありましたが、それでも毎日、狩りから帰ってきた者の顔を見て判を押してきた。……それが仕事だと思っておりました」
「その仕事が、なくなる」
「なくなるとは言われておりません。ただ、これからは海外のお客様への対応が中心になると。……手紙を書いた男は、こう書いております。俺たちは探索者を支える仕事をしてきたつもりだ。なぜ、海の向こうの買い手の世話をすることになったのか、と」
陽太は手紙を読み返した。
文字は下手だった。だが一字一字が丁寧に書かれている。台帳の隅に根拠の数字を書き続けてきた手だと思った。
「栗山さん。この人たちは、鬼頭専務理事の設計に納得していないんですね」
「納得も何も、説明されておりません」
栗山の声に、微かな苦みがあった。
「上が決めて、下に降りてくる。四年間、ずっとそうでした。……ただ、今度ばかりは、下の連中も首を傾げております。窓口の仕事は探索者のためにあると、あの者たちは本気で思っておりますので」
陽太は、その言葉を静かに受け止めた。
機構という組織を、これまで鬼頭という一人の男の意思として見てきた。だが、あの組織には何千人もの職員がいる。その全員が鬼頭と同じ方を向いているわけではない。
窓口の中にも、探索者の顔を見て判を押してきた人間がいる。
(……木は、庭師のものじゃない)
その考えがどこへ繋がるのかは、まだ見えなかった。ただ、覚えておくべきことだという直感だけがあった。
◇ ◇ ◇
黒崎が尾道に現れたのは、その三日後だった。
受付から連絡を受けたとき、陽太は一瞬、名前を聞き違えたかと思った。日本探索者支援機構中央本部参与・黒崎。かつて広島で、この市場の構想を潰すために送り込まれてきた男である。
応接室で向き合った黒崎は、記憶より痩せて見えた。
「ご無沙汰しております。突然の訪問をお詫びします」
「いえ。……お一人ですか」
「ええ。私は使いに参りました」
黒崎は前置きなく本題に入った。
「専務理事から、湊社長にお伝えするようにと。国際化推進本部の設計に、湊社長のお考えを組み込みたいとのことです」
「組み込む」
「共同で作りたい、という趣旨でございます。機構には全国の網と人がある。湊社長には設計がある。二つを合わせれば、この国で最も強い器になる。……専務理事は、そう申しております」
黒崎の口調は事務的だった。感情を一切乗せない伝達である。
「本部の中に、独立した合議体を置くという案も出ております。委員の構成は湊社長のご意見を反映させる。……悪い条件ではないかと」
「断ります」
陽太は即答した。
黒崎は驚かなかった。ただ、少しだけ目を細めた。
「理由を伺っても」
「機構の中に置いた合議体は、機構の一部です。どれだけ独立していると書いても、人事も予算も建物も、全部機構のものだ。……そういう合議体が、機構自身の判断を止められますか」
「……」
「秤の目盛りを直しても、秤を握っている手が同じなら、いずれまた歪みます。器は、外に置かなきゃ意味がない」
黒崎はしばらく黙った。それから、静かに頷いた。
「承知いたしました。そのままお伝えします」
あっさりしていた。説得も、反論もない。
黒崎は湯呑みに手をつけないまま立ち上がり、応接室の窓に目をやった。窓からは、競り場の屋根が見える。開場の鐘が鳴る時刻だった。
「……立派になりましたな」
独り言のような声だった。
「あの頃は、紙の上の構想でした。それを、私は潰しに参りました。潰せると思っておりました」
「黒崎さん」
「いえ。恨み言ではありません。負けたのは私の設計が甘かったからです」
黒崎は窓の外を見たまま続けた。
「一つだけ、伺ってもよろしいですか。任務とは関係のない話です」
「どうぞ」
「湊社長は、あの委員会をご自分のものにしようとは、思われないのですか」
陽太は少し考えてから答えた。
「思わないと言えば嘘になります。作ったのは俺だ。惜しいと思う気持ちはある」
「では、なぜ」
「俺が握った瞬間に、あれは俺の市場になる。誰のものでもない場所じゃなくなる。……そうなったら、俺は自分が壊したものと同じものを作ったことになります」
黒崎は、初めて陽太の顔を正面から見た。
その目に、これまでの事務的な色とは違うものが、一瞬だけ差した気がした。
「……そうですか」
それだけ言って、黒崎は一礼した。
玄関まで見送った陽太に、去り際、黒崎はもう一度だけ振り返った。
「湊社長。木というものは、庭師のものだと思われますか」
唐突な問いだった。陽太が答えを探しているうちに、黒崎は自分で首を振った。
「失礼しました。詮無いことを。……お邪魔いたしました」
参与は背を向け、坂道を降りていった。その背中は、来たときよりも少しだけ猫背に見えた。
◇ ◇ ◇
二十の市場の共同提案が正式に発議されたのは、その半月後である。
仙台が旗を持ち、十九の市場が名を連ねた。尾道の名前は、一覧の最後に並んでいた。
永田町の反応は、思ったよりも大きかった。一つの会社の提案なら陳情で終わる。だが二十を超える都市圏の市場が揃って出してきたものは、無視できない政治的な重みを持った。
「拮抗しました」
鷹司の声には、久しぶりに手応えがあった。
「機構案と共同提案。委員会の中で、二つが並ぶところまで来ました。……ここからは、どちらが実物に近づくかの競争です」
「まだ勝ってはいない、と」
「ええ。ですが、少なくとも土俵には上がった」
だが、その夜。
笹本から、別の報告が届いた。
「湊社長。取引所の値動きの件です。……小さい市場から、悲鳴が上がり始めました」
「どういうことですか」
「価格の振れが、地方の市場に波及しています。尾道は取扱量が大きいので、多少揺すられても値が戻る。ですが、規模の小さい市場は、一度揺れると戻らないんです」
笹本の声は硬かった。
「札幌と、名古屋と、あと二つ。今週、複数の探索者が出品を見合わせています。値が読めないから売れない、と。……このままでは、いくつかの市場が、事実上止まります」
陽太は受話器を握った。
二十の市場が並んで立ち上がった、まさにその週である。
顔のない巨人は、政治の議論など一切知らないまま、ただ値段を揺らし続けていた。そして揺れに最も弱いのは、共に旗を掲げたばかりの、小さな市場たちだった。