札幌の代表の声は、回線越しでも憔悴が伝わってきた。
「湊さん。うちは、持たんかもしれません」
朝一番の通話だった。陽太は受話器を握り直した。
「出品が、どれくらい落ちていますか」
「先週の半分です。今週はもっと落ちる。……値が読めんのですわ。朝に決めた売値が、昼には二割違う。探索者は納得しません。そりゃそうです、命懸けで担いできた品が、担いだ日で値段が変わるんじゃ」
背後で誰かが呼ぶ声がして、代表は一度言葉を切った。
「出品を止めた連中は、機構の窓口に持ち込み始めとります」
「窓口に」
「機構は買い取り値を提示してくれますからな。安いが、揺れん。……揺れない安値と、読めない適正値。腹を減らしとる人間がどっちを選ぶかは、考えるまでもない」
陽太は言葉に詰まった。
四年間、あの窓口の安値と戦ってきた。腕に値が付かない秤を壊すために市場を作った。その市場が今、揺れるという理由だけで、探索者を窓口へ押し戻している。
「……こちらで対策を立てます。少し時間をください」
「時間ですか」
代表の声には、責める色はなかった。それだけに重かった。
「湊さん。うちは、あんたの呼びかけに乗って旗を掲げました。それは後悔しとらん。仙台さんが発議して、うちも名前を並べた。正しいことをしたと思うとります」
「はい」
「ただな。旗を掲げた途端に、うちみたいな小さいところから倒れとる。……これ、旗を掲げたから狙われたんじゃないですか」
その問いに、陽太はすぐに答えられなかった。
通話を切った後、名古屋からも同じ内容の連絡が入った。その日のうちに、四つの市場が出品の減少を報告してきた。
共同提案に名を連ねた市場ばかりだった。
偶然かもしれない。だが偶然だと言い切れる根拠も、陽太は持っていなかった。
◇ ◇ ◇
その日の午後、陽太は会議室に凪と笹本と藤岡を集めた。
「原因ははっきりしてる。揺れに耐える厚みが足りない」
陽太はホワイトボードに二つの箱を描いた。大きい箱と、小さい箱。
「尾道は取扱量が大きい。誰かが値を吊り上げても、他の売り手と買い手が入ってきて値が戻る。水を張った風呂と同じだ。手で叩いても、波は大きな水面が吸う」
「小さい市場は、洗面器」
凪が言った。
「そうだ。同じ力で叩けば、風呂とは違って洗面器の水は大量にこぼれる。……揺れの強さの問題じゃない。器の大きさの問題だ」
「では、器を大きくするしかありません」
笹本が数字の資料をめくった。
「ですが、取扱量は一夜で増えません。参加者を集めるにも時間がかかります」
「量を増やすんじゃない。繋ぐんだ」
陽太はホワイトボードに、二十の小さな丸を描き、その間に細い線を引いた。
「二十の市場が、価格と在庫の情報を共有する。札幌で値が急に跳ねたとき、他の十九の市場の値が見えていれば、これは需給じゃないと分かる。分かれば、慌てて投げ売る人間が減る」
「情報だけで、揺れが止まりますか」
「止まらない。だが、揺れの意味が読めるようになる」
陽太は線を太くした。
「もう一段進めれば、在庫の融通ができる。札幌で買いが渇いたとき、他の市場の買い手が入れる仕組みを作る。二十の洗面器を細い管で繋げば、全体では風呂一つ分の水面になる。……叩かれても、波が全体に散る」
藤岡が眼鏡を押し上げた。
「湊さん。理屈は分かりました。ですが、一つ申し上げます」
「どうぞ」
「その仕組みの中心は、どこに置くのですか」
会議室が静かになった。
「価格情報を集約する場所が要ります。在庫の融通を差配する仕組みも要る。……最も取扱量が大きく、最も設備の整った市場が、事実上の中心になります。尾道です」
藤岡は淡々と続けた。
「尾道が全国の市場を支える。良いことです。ですが、外から見れば、どう見えますか」
「尾道が……ひいては湊陽太が、全国の市場を束ねた」
「そのとおりです。しかも今度は、支えているという事実つきで。恩を着せた形になる。……鬼頭専務理事が、これを利用しないと思われますか」
陽太は目を閉じた。
藤岡の言うとおりだった。善意で支えれば支えるほど、依存が生まれる。依存は支配と見分けがつかない。
「藤岡さん。ありがとうございます。設計を変えます」
陽太はホワイトボードの線を消し、描き直した。
「中心を作らない。情報は、二十の市場が互いに直接出し合う。集める場所を作らず、各市場が自分の値を公開して、他の市場のを自分で見に行く形にする」
「集約する事務局を置かないと」
「置きません。事務局を置いた瞬間、その事務局を誰が握るかの話になる。……規約だけを共通にして、あとは各市場が自分で回す。尾道も、二十のうちの一つとして参加する」
「在庫の融通は」
「同じです。尾道が差配するんじゃない。市場と市場が直接、相対で融通し合う。うちは一番大きい参加者として、一番よく融通に応じる。それだけです」
凪がペンを止めて、陽太を見た。
「面倒くさい設計ね」
「そうだ。中心があった方が、圧倒的に速いし効率がいい」
陽太はマーカーを置いた。
「だが、効率のいい設計は、必ず誰かの持ち物になる。……面倒くさい方を選ぶ」
◇ ◇ ◇
その夜、陽太は一人で競り場を見下ろしていた。
閉場後の場内は暗く、電光掲示板も消えている。昼間の熱気が嘘のように静まり返っていた。
札幌の代表の言葉が、まだ耳に残っている。
揺れない安値と、読めない適正値。腹を減らしている人間がどっちを選ぶか。
市場の論理で言えば、答えは明快だ。揺れに耐えられない市場は淘汰される。規模の小さい市場が消え、大きい市場に集約されていく。それが効率であり、市場の摂理である。教科書にはそう書いてある。
(だが)
陽太は手すりに肘を置いた。
淘汰されるのは、非効率な市場ではない。単に規模が小さいだけの市場だ。札幌の市場が非効率だから消えるのではない。取扱量が少ないから、揺すられたときに戻る力がないだけだ。
そして、その市場が消えたら、札幌の探索者はどこへ行くのか。
機構の窓口である。揺れない安値のところへ戻る。四年前と同じ場所へ。
(市場に任せた結果が、独占への逆戻りか)
陽太は暗い競り場を見下ろした。
自由市場は正しい。この信念を捨てる気はない。値段が需給を語り、競争が品質を上げ、腕が値段になる。
だが、と思う。
市場が正しく機能するには、条件がある。参加している全員が、その市場から長く利益を得ようとしていること。買い手も売り手も、来年もここで商売をするつもりでいること。この条件が揃っているとき、市場は驚くほど賢く働く。
条件が崩れたとき、市場は何も守らない。
値段を揺らして稼ぐだけの相手が入ってきたとき、市場の論理はその相手を止めない。むしろ、揺れに弱い者から順に潰していく。効率という名前で、産業の裾野を焼いていく。
自由市場は重要だ。だが自由市場だけでは、国は守れない。
この結論を、陽太は理屈としては掴んでいた。始発を待つターミナルの列を眺めていた、あの朝に。だが今、それは理屈ではなくなっていた。札幌の代表の声。出品を止めた探索者の顔。旗を掲げたから狙われたのではないかという問い。
全部が、この結論の重さになっていた。
床が揺れているとき、上に立つ者の腕前は関係ない。
だから、床を揺らさない仕組みが要る。腕を競う場所を守るために、腕とは関係のない土台を、誰かが作らなければならない。
それは市場の仕事ではない。
(国の仕事だ)
陽太は暗い競り場に背を向けた。
◇ ◇ ◇
二十の市場を繋ぐ仕組みは、二週間で動き出した。
派手な仕掛けは何もない。各市場が毎日の値と在庫を公開し、共通の様式で読めるようにしただけである。事務局も中心もない。
だが効果は、思ったより早く出た。
札幌で値が跳ねたとき、他の十九市場の値が動いていないことが一目で分かる。これは需給ではないと分かれば、投げ売る人間が減る。減れば、揺れも小さくなる。
三週目には、名古屋と福岡の間で最初の相対の融通が成立した。買いが渇いた市場に、他所の買い手が直接入った。仕組みが動いた最初の日だった。
完全な解決ではなかった。揺れは続いている。だが、少なくとも市場が止まることはなくなった。
「湊さん。落ち着いてきました」
札幌の代表から、久しぶりに明るい声の連絡が入った。
「出品も戻り始めとります。……値が揺れても意味が読めれば、人は耐えられるもんですな」
その言葉を、陽太は書き留めておこうと思った。
そして、その週の終わり。鷹司から電話が入った。
「湊さん。動きました」
声には、これまでにない張りがあった。
「特措法改正の骨子に、日本ダンジョン戦略機構の設置が明記されます。機構の外に独立した組織として置く。……二十の市場の共同提案が、そのまま骨子に反映されました」
陽太は受話器を握った。
「通ったんですか」
「通りました。決め手は、あなた方が実物を動かして見せたことです。二十の市場を繋いだ仕組み。あれが効いた。……紙の上の構想じゃない、現に動いているものがあると分かった瞬間、役所の目の色が変わりました」
「藤岡さんの言ったとおりですね」
「ええ。実物には勝てん、という話でした」
鷹司は笑い、それからすぐに声を落とした。
「ただし、湊さん。ここからが本題です」
「まだ何かありますか」
「設置は決まった。ですが、中身はこれからです。権限をどこまで持たせるか。誰が委員に入るか。予算をどこから取るか。……そして、機構との関係をどう書くか」
陽太は目を細めた。
「鬼頭さんが」
「はい。国際化推進本部を戦略機構の実務部門として組み込むべきだと主張しておられます。全国の網も人も、我々が出しましょうと」
「……独立した組織の、実務の中身を機構が握る」
「そういう形です。看板は独立。中身は機構。……あの人は、こういう詰め方が本当にうまい」
陽太は目を閉じた。
戦略機構の設置は決まった。二十の市場が動かした結果だ。前進には違いない。
だが、鬼頭は倒れていない。それどころか、こちらが作った器の中に、静かに手を入れようとしている。
「鷹司さん。中身の議論は、いつからですか」
「来月から。……そして、もう一つ」
鷹司が言い淀んだ。
「その議論の途中で、少し大きな行事が入ります」
◇ ◇ ◇
その夜、事務所に一通の書簡が届いた。
重厚な紋章。流麗な日本語。差出人は欧州国際資源評議会。
だが、文面は以前のものとはまるで違っていた。
「クローネ卿からよ」
凪が封を切って、目を走らせる。その表情が途中で変わった。
「……陽太。これ、大きいわ」
書簡の内容はこうだった。
欧州国際資源評議会は、ダンジョン資源の国際的な取引枠組みについて、多国間の会議を提唱する。参加を想定するのは欧州圏、米国、アジア各国。議題は、各国の等級規格の相互承認網の構築と、資源取引に関する共通の原則の策定。
そして、その会議において、瀬戸内等級規格を相互承認網の基軸候補の一つとして議題に載せる用意がある。
「基軸候補」
陽太は文面を三度読み返した。
月に一度の技術協議が、日欧間の話だった。それが、世界の枠組みの話になっている。しかも、こちらの規格が、その中心の候補として名前を挙げられている。
文末に、クローネ自身の筆跡で一行が添えられていた。
検証に開かれた規格が、世界の基軸となるべきである。私は、そう考える者の側に立つ。
「……あの人らしい」
陽太は思わず呟いた。歴史ではなく検証を信用と呼ぶ、と自ら言った老紳士である。あの言葉を、一年近く経った今も、自分で背負っている。
だが、凪の表情は晴れていなかった。
「陽太。問題は、この会議に日本から誰が出るかよ」
陽太は顔を上げた。
「国際的な会議に、日本の代表として出る。……民間企業が単独で出られる場じゃないわ。国が代表を立てる。あるいは、国を代表する組織が」
その瞬間、陽太の中ですべてが繋がった。
国を代表する組織。全国の網を持ち、四年以上の実績を持ち、国際化推進を掲げている組織。
鬼頭が国際化の旗を振り始めたのはいつからだったか。この会議の話が動き始めたのはいつからだったか。
陽太は書簡を置き、窓の外を見た。
港の灯りの向こうに、暗い海が広がっている。その先に世界がある。
国内で門番の椅子を争っている間に、戦場はもう海の外へ移り始めていた。