IR情報で読み解くダンジョン経済学   作:カトーユキヒロ

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第12話:安全装置

 会議まで二ヶ月を切った。

 

 取引所の会議室は翻訳の作業場になっていた。藤岡の研究室から運び込まれた検証データ、規格書の原本、鑑定人試験の要領。それらを英文に直す作業が、連日深夜まで続いている。

 

「一致率97%の検証手順、この訳で通じますか」

 

 紬が原稿を差し出した。陽太は目を通し、一箇所だけ指で示した。

 

「基準器の説明が弱い。ここを突かれる」

 

「突かれるって、誰にですか?」

 

「規格屋に。クローネさんの同業が、世界中から来る。……検証できないものを信用と呼ばない、という人たちの集まりだ。基準器が個人の能力に依存していることは、必ず最初に突かれる」

 

 陽太はペンを取り、余白に書き足した。

 

「校正の頻度、照合の手順、基準器が使えなくなった場合の代替手順。この三つを先に書いておく。……向こうが聞く前に、こっちから出す」

 

 その作業の合間に、笹本が資料を持って入ってきた。

 

「湊社長。少しよろしいですか。……値動きの件で、妙なことが」

 

 陽太はペンを置いた。

 

「どうしました」

 

「これまでの揺れは、無差別でした。魔石も獣皮も薬草も、手当たり次第に揺すられていた。……ですが、ここ十日は違います」

 

 笹本は表を広げた。

 

「特定の品目に集中しています。上位等級の魔石と、甲殻の一部。しかも、揺らし方が規則的なんです」

 

「規則的」

 

「揺れ幅が、少しずつ大きくなっています。一日目は3%、二日目は4%、三日目は5%。……階段のように上がっている」

 

 陽太は表を見つめた。

 

 背中に冷たいものが走った。

 

 この形を知っている。相場の世界で、これは実験と呼ばれる動きだった。

 

「……試してますね」

 

「試す、とは」

 

「どこまで動かせば何が起きるか、測ってる」

 

 陽太は表の数字を指でなぞった。

 

「少しずつ振れ幅を上げて、市場の反応を見る。参加者がどこで慌てるか。どこで投げ売りが出るか。……そして、どこで何かが作動するか」

 

 言いながら、陽太は自分の言葉の先に気づいた。

 

 作動するもの。この市場に値動きで作動する仕組みが一つだけある。

 

「……凪。取引所の一時停止の条項、あれの発動基準は」

 

 凪の顔から、血の気が引いた。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 緊急の運営委員会が招集された。

 

 藤岡が規約の冊子を開き、該当の条項を読み上げた。

 

「一定時間内の価格変動が基準値を超えた場合。取引を一時停止し、参加者に冷静な判断の時間を与える。……停止の時間と、再開の条件も定められています」

 

「その基準値は」

 

 陽太が問うと、藤岡は苦い顔で答えた。

 

「公開されています。規約の付表に全部」

 

 委員会室が静まった。

 

「湊さん。この条項を前倒しで整備するよう仰ったのは、あなたです」

 

「はい。俺です」

 

 陽太は認めた。

 

 地方市場が揺すられ始めたとき、急激な値動きへの備えとして委員会に提案した。参加者を守るための安全装置だった。

 

 そして、その安全装置の作動条件を、この市場は全部公開している。

 

「透明性のためです」

 

 藤岡が淡々と言った。

 

「いつ、どういう理由で市場が止まるのか。それを運営が恣意的に決められては、参加者は安心して取引できません。だから基準を数字で書き、全て公開した。……取引所の設計思想として、正しい判断でした」

 

「正しかった。だから、こうなっている」

 

 陽太は言った。

 

「いくら動かせば市場が止まるか、誰でも計算できます。……向こうは今、その計算が合っているかを確かめている」

 

 羽山が身を乗り出した。

 

「待ってください。市場を止めて、あいつらに何の得があるんです」

 

「止まった市場は、値段を付けられません」

 

 陽太は説明した。

 

「止まっている間、素材は売れない。買えない。運べない。……そして再開したとき、参加者は必ず疑います。この市場は、また止まるんじゃないか、と」

 

「……信用が」

 

「そうです。一度止まった市場は、次も止まると思われる。二度止まれば、危ない市場だと思われる。三度止まれば、誰も来なくなる」

 

 本田が拳を握った。

 

「揺すって、止めて、信用を殺す。……素材を一枚も買わずに、市場だけ殺すつもりか」

 

「そういう商売です。壊れることで儲かる仕掛けを、向こうは持っている」

 

 委員会室に、重い沈黙が落ちた。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 最初に案を出したのは、行政委員だった。

 

「発動基準を、非公開にしてはどうでしょうか」

 

 もっともな提案だった。基準が分からなければ、狙い撃ちはできない。

 

「あるいは、基準を頻繁に変える。相手に読ませない」

 

「技術的には可能です」

 

 藤岡が言った。

 

「規約の改定は委員会の議決で行えます。今日決めれば、来週から変えられる」

 

 委員たちの視線が、陽太に集まった。

 

 陽太はしばらく黙っていた。それから、静かに口を開いた。

 

「反対します」

 

「なぜです」

 

「うちの市場が、何を売りにしてきたか思い出してください」

 

 陽太は委員たちを見渡した。

 

「台帳を公開しています。判定記録も、規格の改定の議事録も。誤りは誤りとして残す。……検証できることが信用だと、俺たちは言ってきた」

 

 栗山が、静かに頷いた。

 

「一年前、旧大陸の使者にそう言いました。歴史のない規格でも、検証に開かれているなら信用に足ると。……あの言葉で、うちは相互承認の扉を開けてもらった」

 

 陽太は続けた。

 

「その市場が、都合が悪くなったから基準を隠します、と言うんですか。……二ヶ月後、世界中の規格屋の前で、俺たちは何を説明するんです」

 

 行政委員が言葉に詰まった。

 

「ですが湊さん、このままでは市場が」

 

「分かっています。基準を隠せば、当面は守れる」

 

 陽太はホワイトボードに、一本の線を引いた。

 

「ですが、そのとき守られるのは何ですか。値段は守れる。取引の量も守れる。……守れないのは、この市場が何であるかです」

 

 委員会室が、また静かになった。

 

「開いているから狙われる。それは事実です。うちの安全装置が読めるのも、台帳が読めるのも、全部こっちが開けているからだ。……閉じれば、狙われにくくなる」

 

 陽太は線の先に、一つの言葉を書いた。

 

「ですが、閉じた市場を作るなら、俺たちは何と戦ってきたんですか」

 

 誰も答えなかった。

 

 答えは、この場の全員が知っていた。かつて、素材を持ち込む窓口が一つしかなかった時代。値段の決め方が誰にも見えなかった時代。あれと戦って、この市場を作った。

 

「基準は公開のままにします」

 

 陽太は言い切った。

 

「弱点は弱点のまま残す。その上で、弱点を突かれても壊れない方法を考える。……開けたまま、守る。それしかない」

 

 藤岡が、長い息を吐いた。

 

「議決を取ります。……一時停止条項の発動基準は、現行のまま公開を維持する。賛成の方は」

 

 手が、一つずつ上がった。

 

 全会一致だった。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 委員会の後、陽太は凪と笹本を社長室に呼んだ。

 

「防げないなら、受けて立つしかない。そのための原則を決めます」

 

 陽太はホワイトボードの前に立った。

 

「一つ目。俺個人の金では、一円も張らない」

 

「投機はしない、ということね」

 

「それもあるが、理由は別だ」

 

 陽太は書いた。個人資産・使用せず。

 

「俺が個人で相場を張れば、それは俺の市場になる。運営を手放し、価格を手放し、等級まで手放した意味がなくなる。……俺は市場の外にいなきゃいけない」

 

「では、どうやって戦うんですか」

 

 笹本が尋ねた。

 

「ウォーター・ベインとして、現物を買います。実需の買い手として」

 

 陽太は二つ目を書いた。実需の買い付け。

 

「うちは魔石も甲殻も薬草も使っている。新素材が出たとしても、素材研究としてつむつむと東雲さんに回すこともできる。実際に二人の研究結果を新事業として立ち上げ、事業拡大の予定もある。純水フィルターにも、塗料にも、新規事業にも。……値が不当に下がったとき、うちは実際に使う分を買う。使う目的があるなら、それは投機じゃない。ただの仕入れです」

 

「なるほど。相場で儲けるための買いではなく、実際に消費するための買い」

 

「そうです。だから、買った分は必ず使う。倉庫に積んで値上がりを待つようなことはしない。……そこを一線にします」

 

 笹本が資料をめくった。

 

「資金の規模は、どれくらい見込みますか」

 

「うちの手元資金と、当面の運転に支障が出ない範囲。……正直に言えば、多くはありません」

 

「相手と比べれば」

 

「話にならない。向こうは世界中の市場で稼いでいる金を持っている。うちの手持ちなど、一日で吹き飛ぶ規模でしょう」

 

 陽太は正直に言った。

 

「だから、金だけでは勝てません。三つ目が要る」

 

 三つ目を書いた。読みを公開する。

 

「向こうの手口を読んで、全部公開します。今日の値動きが需給によるものか、そうでないのか。どういう形で揺すられているのか。……委員会を通じて、参加者全員に開示する」

 

「それ、本当に効くの?」

 

 凪が問うた。

 

「効く。人が投げ売るのは、値が下がるからじゃない。なぜ下がっているか分からないからだ」

 

 陽太は札幌の市場のことを思い出していた。

 

「揺れの意味が読めれば、人は耐えられる。……札幌の人がそう言っていました」

 

 笹本が唸った。

 

「湊社長。三つ目は、相手に手の内を読んでいると教えることになりますが」

 

「構いません。むしろ教えたい」

 

 陽太は静かに言った。

 

「値を揺らして稼ぐ仕掛けは、参加者が慌ててくれないと成立しない。慌てない市場では、揺らす費用ばかりかかって儲けが出ない。……こっちが読んでいると分かれば、向こうは費用の計算を上方修正します」

 

「儲からない場所からは、撤退する」

 

「そういう商売でしょう。あれは恨みでも執着でもない。ただの計算だ」

 

 陽太はマーカーを置いた。

 

 久しぶりの感覚だった。相手の玉を読み、盤面を数え、次の一手を先回りする。泥にまみれる探索者に身をやつしても、制度と政治で戦うことになっても、まだこの男の中には天性の感覚が残っている。

 

「凪。笹本さん。……たぶん、これが俺にとって最後の相場戦だ」

 

「楽しそうな顔してる」

 

 凪が呆れた顔で言った。

 

「してるか」

 

「してるわよ。すごく」

 

 陽太は苦笑した。否定はできなかった。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 仕掛けが来たのは、会議まで一ヶ月を切った週の水曜日だった。

 

 朝の開場から、上位等級の魔石に大量の売りが出た。

 

 値が下がり始める。だが、これまでの階段状の動きではなかった。刻みが荒い。一気に落としにきている。

 

「来ました」

 

 笹本が報告した。陽太は取引所の運営室にいた。委員会に許可を得て、値動きの分析を行うためである。

 

「うちの買い、入れてください。下限の目安どおりに」

 

 ウォーター・ベインの購買部が動いた。実需の買い付けである。使う分だけ、需給から見て妥当な値の範囲で拾っていく。

 

 同時に、陽太は分析を委員会に上げた。

 

 本日の下落は需給によるものではない。同一参加者による売買の回転が異常である。他の十九市場では同品目の値が動いていない。以上の事実から、この値動きは市場外の要因によるものと判断される。

 

 委員会の名で、その分析が場内に掲示された。

 

 効果は、すぐに出た。投げ売りが減った。値の下げ幅が鈍り、午前の遅い時間には下げ止まった。

 

「湊さん、効いてますよ」

 

 羽山が運営室に飛び込んできた。

 

「うちの連中が、掲示を見て売るのやめてます。市場の外が原因なら待つ、って」

 

「まだ終わってません」

 

 陽太は画面を見つめたまま言った。

 

 嫌な予感がしていた。相手は測っていた。階段状に振れ幅を上げて、この市場の反応を全部見ていたはずだ。ならば、こちらが下で買い支えることも、読まれている。

 

 午後の開始と同時に、値が跳ねた。

 

 売りが、消えた。代わりに、猛烈な買いが入った。

 

「……反転しました」

 

 笹本の声が上ずった。

 

「上位魔石、買い気配。5%、7%、10%」

 

 午前に売り叩いた同じ手が、午後は買い上げている。

 

 陽太は理解した。午前の下落は、こちらを買わせるための撒き餌だった。実需の買い手が下で拾う。拾った分だけ、手元の資金が減る。そして弾の減ったところで、逆側から一気に持ち上げる。

 

 高騰は、下落より速く進んだ。

 

「12%。……14%」

 

 場内がざわめき始める。値が読めない。加工会社の買い手たちが、慌てて追いかけ買いを入れ始めた。追いかけるほど、値は上がる。

 

「基準値は」

 

 陽太は藤岡に問うた。

 

「一定時間内の変動幅、15%です」

 

 画面の数字が、じりじりと上がっていく。

 

 14。14.5。

 

 陽太は動けなかった。今から売って値を戻すには、ウォーター・ベインの在庫を大量に放出するしかない。だが放出の指示を出しても、間に合わない。

 

 数字が、15を超えた。

 

 鐘が鳴った。

 

 開場の鐘とは違う、短く鋭い音だった。電光掲示板の数字が一斉に止まり、その下に一行が表示される。

 

 取引を一時停止します。

 

 場内が静まり返った。呼び声も、指の動きも、全部が止まった。台の上の素材だけが、値の付かないまま置かれている。

 

 陽太は止まった掲示板を見上げていた。

 

 参加者を守るために作った安全装置だった。委員会に頼んで、前倒しで整備してもらった。基準は公開した。透明性のために、全部開示した。

 

 その全部が正しかった。

 

 正しかったから、この市場は止まっている。

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