会議まで二ヶ月を切った。
取引所の会議室は翻訳の作業場になっていた。藤岡の研究室から運び込まれた検証データ、規格書の原本、鑑定人試験の要領。それらを英文に直す作業が、連日深夜まで続いている。
「一致率97%の検証手順、この訳で通じますか」
紬が原稿を差し出した。陽太は目を通し、一箇所だけ指で示した。
「基準器の説明が弱い。ここを突かれる」
「突かれるって、誰にですか?」
「規格屋に。クローネさんの同業が、世界中から来る。……検証できないものを信用と呼ばない、という人たちの集まりだ。基準器が個人の能力に依存していることは、必ず最初に突かれる」
陽太はペンを取り、余白に書き足した。
「校正の頻度、照合の手順、基準器が使えなくなった場合の代替手順。この三つを先に書いておく。……向こうが聞く前に、こっちから出す」
その作業の合間に、笹本が資料を持って入ってきた。
「湊社長。少しよろしいですか。……値動きの件で、妙なことが」
陽太はペンを置いた。
「どうしました」
「これまでの揺れは、無差別でした。魔石も獣皮も薬草も、手当たり次第に揺すられていた。……ですが、ここ十日は違います」
笹本は表を広げた。
「特定の品目に集中しています。上位等級の魔石と、甲殻の一部。しかも、揺らし方が規則的なんです」
「規則的」
「揺れ幅が、少しずつ大きくなっています。一日目は3%、二日目は4%、三日目は5%。……階段のように上がっている」
陽太は表を見つめた。
背中に冷たいものが走った。
この形を知っている。相場の世界で、これは実験と呼ばれる動きだった。
「……試してますね」
「試す、とは」
「どこまで動かせば何が起きるか、測ってる」
陽太は表の数字を指でなぞった。
「少しずつ振れ幅を上げて、市場の反応を見る。参加者がどこで慌てるか。どこで投げ売りが出るか。……そして、どこで何かが作動するか」
言いながら、陽太は自分の言葉の先に気づいた。
作動するもの。この市場に値動きで作動する仕組みが一つだけある。
「……凪。取引所の一時停止の条項、あれの発動基準は」
凪の顔から、血の気が引いた。
◇ ◇ ◇
緊急の運営委員会が招集された。
藤岡が規約の冊子を開き、該当の条項を読み上げた。
「一定時間内の価格変動が基準値を超えた場合。取引を一時停止し、参加者に冷静な判断の時間を与える。……停止の時間と、再開の条件も定められています」
「その基準値は」
陽太が問うと、藤岡は苦い顔で答えた。
「公開されています。規約の付表に全部」
委員会室が静まった。
「湊さん。この条項を前倒しで整備するよう仰ったのは、あなたです」
「はい。俺です」
陽太は認めた。
地方市場が揺すられ始めたとき、急激な値動きへの備えとして委員会に提案した。参加者を守るための安全装置だった。
そして、その安全装置の作動条件を、この市場は全部公開している。
「透明性のためです」
藤岡が淡々と言った。
「いつ、どういう理由で市場が止まるのか。それを運営が恣意的に決められては、参加者は安心して取引できません。だから基準を数字で書き、全て公開した。……取引所の設計思想として、正しい判断でした」
「正しかった。だから、こうなっている」
陽太は言った。
「いくら動かせば市場が止まるか、誰でも計算できます。……向こうは今、その計算が合っているかを確かめている」
羽山が身を乗り出した。
「待ってください。市場を止めて、あいつらに何の得があるんです」
「止まった市場は、値段を付けられません」
陽太は説明した。
「止まっている間、素材は売れない。買えない。運べない。……そして再開したとき、参加者は必ず疑います。この市場は、また止まるんじゃないか、と」
「……信用が」
「そうです。一度止まった市場は、次も止まると思われる。二度止まれば、危ない市場だと思われる。三度止まれば、誰も来なくなる」
本田が拳を握った。
「揺すって、止めて、信用を殺す。……素材を一枚も買わずに、市場だけ殺すつもりか」
「そういう商売です。壊れることで儲かる仕掛けを、向こうは持っている」
委員会室に、重い沈黙が落ちた。
◇ ◇ ◇
最初に案を出したのは、行政委員だった。
「発動基準を、非公開にしてはどうでしょうか」
もっともな提案だった。基準が分からなければ、狙い撃ちはできない。
「あるいは、基準を頻繁に変える。相手に読ませない」
「技術的には可能です」
藤岡が言った。
「規約の改定は委員会の議決で行えます。今日決めれば、来週から変えられる」
委員たちの視線が、陽太に集まった。
陽太はしばらく黙っていた。それから、静かに口を開いた。
「反対します」
「なぜです」
「うちの市場が、何を売りにしてきたか思い出してください」
陽太は委員たちを見渡した。
「台帳を公開しています。判定記録も、規格の改定の議事録も。誤りは誤りとして残す。……検証できることが信用だと、俺たちは言ってきた」
栗山が、静かに頷いた。
「一年前、旧大陸の使者にそう言いました。歴史のない規格でも、検証に開かれているなら信用に足ると。……あの言葉で、うちは相互承認の扉を開けてもらった」
陽太は続けた。
「その市場が、都合が悪くなったから基準を隠します、と言うんですか。……二ヶ月後、世界中の規格屋の前で、俺たちは何を説明するんです」
行政委員が言葉に詰まった。
「ですが湊さん、このままでは市場が」
「分かっています。基準を隠せば、当面は守れる」
陽太はホワイトボードに、一本の線を引いた。
「ですが、そのとき守られるのは何ですか。値段は守れる。取引の量も守れる。……守れないのは、この市場が何であるかです」
委員会室が、また静かになった。
「開いているから狙われる。それは事実です。うちの安全装置が読めるのも、台帳が読めるのも、全部こっちが開けているからだ。……閉じれば、狙われにくくなる」
陽太は線の先に、一つの言葉を書いた。
「ですが、閉じた市場を作るなら、俺たちは何と戦ってきたんですか」
誰も答えなかった。
答えは、この場の全員が知っていた。かつて、素材を持ち込む窓口が一つしかなかった時代。値段の決め方が誰にも見えなかった時代。あれと戦って、この市場を作った。
「基準は公開のままにします」
陽太は言い切った。
「弱点は弱点のまま残す。その上で、弱点を突かれても壊れない方法を考える。……開けたまま、守る。それしかない」
藤岡が、長い息を吐いた。
「議決を取ります。……一時停止条項の発動基準は、現行のまま公開を維持する。賛成の方は」
手が、一つずつ上がった。
全会一致だった。
◇ ◇ ◇
委員会の後、陽太は凪と笹本を社長室に呼んだ。
「防げないなら、受けて立つしかない。そのための原則を決めます」
陽太はホワイトボードの前に立った。
「一つ目。俺個人の金では、一円も張らない」
「投機はしない、ということね」
「それもあるが、理由は別だ」
陽太は書いた。個人資産・使用せず。
「俺が個人で相場を張れば、それは俺の市場になる。運営を手放し、価格を手放し、等級まで手放した意味がなくなる。……俺は市場の外にいなきゃいけない」
「では、どうやって戦うんですか」
笹本が尋ねた。
「ウォーター・ベインとして、現物を買います。実需の買い手として」
陽太は二つ目を書いた。実需の買い付け。
「うちは魔石も甲殻も薬草も使っている。新素材が出たとしても、素材研究としてつむつむと東雲さんに回すこともできる。実際に二人の研究結果を新事業として立ち上げ、事業拡大の予定もある。純水フィルターにも、塗料にも、新規事業にも。……値が不当に下がったとき、うちは実際に使う分を買う。使う目的があるなら、それは投機じゃない。ただの仕入れです」
「なるほど。相場で儲けるための買いではなく、実際に消費するための買い」
「そうです。だから、買った分は必ず使う。倉庫に積んで値上がりを待つようなことはしない。……そこを一線にします」
笹本が資料をめくった。
「資金の規模は、どれくらい見込みますか」
「うちの手元資金と、当面の運転に支障が出ない範囲。……正直に言えば、多くはありません」
「相手と比べれば」
「話にならない。向こうは世界中の市場で稼いでいる金を持っている。うちの手持ちなど、一日で吹き飛ぶ規模でしょう」
陽太は正直に言った。
「だから、金だけでは勝てません。三つ目が要る」
三つ目を書いた。読みを公開する。
「向こうの手口を読んで、全部公開します。今日の値動きが需給によるものか、そうでないのか。どういう形で揺すられているのか。……委員会を通じて、参加者全員に開示する」
「それ、本当に効くの?」
凪が問うた。
「効く。人が投げ売るのは、値が下がるからじゃない。なぜ下がっているか分からないからだ」
陽太は札幌の市場のことを思い出していた。
「揺れの意味が読めれば、人は耐えられる。……札幌の人がそう言っていました」
笹本が唸った。
「湊社長。三つ目は、相手に手の内を読んでいると教えることになりますが」
「構いません。むしろ教えたい」
陽太は静かに言った。
「値を揺らして稼ぐ仕掛けは、参加者が慌ててくれないと成立しない。慌てない市場では、揺らす費用ばかりかかって儲けが出ない。……こっちが読んでいると分かれば、向こうは費用の計算を上方修正します」
「儲からない場所からは、撤退する」
「そういう商売でしょう。あれは恨みでも執着でもない。ただの計算だ」
陽太はマーカーを置いた。
久しぶりの感覚だった。相手の玉を読み、盤面を数え、次の一手を先回りする。泥にまみれる探索者に身をやつしても、制度と政治で戦うことになっても、まだこの男の中には天性の感覚が残っている。
「凪。笹本さん。……たぶん、これが俺にとって最後の相場戦だ」
「楽しそうな顔してる」
凪が呆れた顔で言った。
「してるか」
「してるわよ。すごく」
陽太は苦笑した。否定はできなかった。
◇ ◇ ◇
仕掛けが来たのは、会議まで一ヶ月を切った週の水曜日だった。
朝の開場から、上位等級の魔石に大量の売りが出た。
値が下がり始める。だが、これまでの階段状の動きではなかった。刻みが荒い。一気に落としにきている。
「来ました」
笹本が報告した。陽太は取引所の運営室にいた。委員会に許可を得て、値動きの分析を行うためである。
「うちの買い、入れてください。下限の目安どおりに」
ウォーター・ベインの購買部が動いた。実需の買い付けである。使う分だけ、需給から見て妥当な値の範囲で拾っていく。
同時に、陽太は分析を委員会に上げた。
本日の下落は需給によるものではない。同一参加者による売買の回転が異常である。他の十九市場では同品目の値が動いていない。以上の事実から、この値動きは市場外の要因によるものと判断される。
委員会の名で、その分析が場内に掲示された。
効果は、すぐに出た。投げ売りが減った。値の下げ幅が鈍り、午前の遅い時間には下げ止まった。
「湊さん、効いてますよ」
羽山が運営室に飛び込んできた。
「うちの連中が、掲示を見て売るのやめてます。市場の外が原因なら待つ、って」
「まだ終わってません」
陽太は画面を見つめたまま言った。
嫌な予感がしていた。相手は測っていた。階段状に振れ幅を上げて、この市場の反応を全部見ていたはずだ。ならば、こちらが下で買い支えることも、読まれている。
午後の開始と同時に、値が跳ねた。
売りが、消えた。代わりに、猛烈な買いが入った。
「……反転しました」
笹本の声が上ずった。
「上位魔石、買い気配。5%、7%、10%」
午前に売り叩いた同じ手が、午後は買い上げている。
陽太は理解した。午前の下落は、こちらを買わせるための撒き餌だった。実需の買い手が下で拾う。拾った分だけ、手元の資金が減る。そして弾の減ったところで、逆側から一気に持ち上げる。
高騰は、下落より速く進んだ。
「12%。……14%」
場内がざわめき始める。値が読めない。加工会社の買い手たちが、慌てて追いかけ買いを入れ始めた。追いかけるほど、値は上がる。
「基準値は」
陽太は藤岡に問うた。
「一定時間内の変動幅、15%です」
画面の数字が、じりじりと上がっていく。
14。14.5。
陽太は動けなかった。今から売って値を戻すには、ウォーター・ベインの在庫を大量に放出するしかない。だが放出の指示を出しても、間に合わない。
数字が、15を超えた。
鐘が鳴った。
開場の鐘とは違う、短く鋭い音だった。電光掲示板の数字が一斉に止まり、その下に一行が表示される。
取引を一時停止します。
場内が静まり返った。呼び声も、指の動きも、全部が止まった。台の上の素材だけが、値の付かないまま置かれている。
陽太は止まった掲示板を見上げていた。
参加者を守るために作った安全装置だった。委員会に頼んで、前倒しで整備してもらった。基準は公開した。透明性のために、全部開示した。
その全部が正しかった。
正しかったから、この市場は止まっている。