停止は三十分だった。
電光掲示板の数字が止まったまま、運営室の時計だけが進んでいく。場内の探索者たちは台の周りに立ち尽くし、加工会社の買い手たちは携帯を耳に当てて本社と話している。
陽太は画面の前に座り、止まった値の並びを睨んでいた。
(再開したら、どうなる)
二つの絵が浮かぶ。
一つ目。高値のまま再開する。加工会社は原料を買えない。追いかけ買いをした連中は、高値を掴んだまま置き去りになる。
二つ目。再開と同時に、相手が一気に売り抜ける。午後に買い上げた分を全部投げれば、値は真下に落ちる。高値で買った者は全員が損を抱える。
どちらが狙いか。
陽太は数字を追い、そして気づいた。
(……どっちでもいいのか)
背筋が冷えた。
上でも下でも、相手にとっては同じだ。値が壊れて、市場が値を付けられなくなる。その事実さえ残れば、この市場は「止まる市場」になる。
素材は一枚も要らない。信用だけを削っていけばいい。
「湊さん」
運営室の扉が開いて、藤岡が入ってきた。後ろに委員が数人続いている。
「再開の判断をせねばなりません。規約上、三十分で自動的に再開しますが、委員会の議決で延長もできます」
「延長したら、どうなりますか」
「休場です。今日一日、この市場は値を付けない」
「反対です」
陽太は即答した。
「一日止めれば、明日は誰も来ません。……止まる市場だと思われた時点で負けです」
「ですが再開すれば、また揺すられます」
「揺すられます。それでも開けます」
羽山が口を開いた。売り手側の代表としての顔だった。
「うちの連中は、待てます。今日売らなくても明日がある。獲ってきた素材は逃げませんから」
「本田さんは」
陽太が振ると、買い手代表の本田は渋い顔をした。
「うちらは待てん。工場の窯は毎日火を入れとる。原料が入らんかったら、明日から工員を休ませることになる」
売り手と買い手で、時間の意味が違う。当たり前のことだった。
「本田さん。開けます。ただし、値は戻します」
「戻す、言うても」
「うちの在庫を出します」
委員たちが顔を上げた。
「ウォーター・ベインの手持ちを、市場に放出します。供給が増えれば値は落ちる。……高値を作っている買いに、現物をぶつけます」
藤岡が眼鏡の奥から陽太を見た。
「湊さん。それは、あなたの会社の損になりませんか」
「なりません」
陽太は正直に言った。
「原料が高いままだと、うちの生産も止まります。値を戻すのは、うちの利益です。……善意じゃない。計算です」
◇ ◇ ◇
再開の鐘が鳴った。
三十分ぶりに数字が動き出す。値は高値のまま張り付いていた。買い気配が並び、売りが薄い。
「放出、始めてください」
陽太の指示で、ウォーター・ベインの在庫が市場に出た。
上位等級の魔石と、塗料の原料となる甲殻。どちらも自社の工場で使う予定だった分である。値の高いところから、順に売り板へ載せていく。
高値に張り付いていた数字が、動いた。
「下がりました。……1%、2%」
笹本が読み上げる。
供給が増えれば値は落ちる。単純な理屈だった。買い上げていた相手は、こちらが売った分を全部拾うか、拾わずに値を下げさせるかの選択を迫られる。
相手は、拾った。
値は下がりきらず、また持ち上げられる。だが放出を続ければ、また下がる。攻防が続いた。
「湊社長」
笹本が資料から顔を上げた。声が硬い。
「放出可能量、残り四割です」
「四割」
「午前中の実需買いで、手元の資金がかなり出ています。それに、放出しているのは自社で使う予定の在庫です。……これ以上出せば、来月の生産に穴が開きます」
陽太は歯を噛んだ。
弾の量が、こちらの生産計画で決まっている。相手は世界中で稼いだ金を持っている。使える金の桁が、そもそも違う。
そのとき、笹本の手元の端末が鳴った。
「……仙台から連絡です」
「仙台」
「甲殻と上位魔石の在庫をこちらへ回すと。相対で融通したいと言ってきています」
陽太は顔を上げた。
二十の市場を繋いだ仕組み。各市場が値と在庫を公開し、必要なときに直接融通し合う。中心を置かず事務局も作らず、面倒くさい方を選んだあの設計が、今動いていた。
「受けます。すぐに」
「札幌からも。名古屋も、福岡も。……四つの市場が、在庫を出すと言っています」
笹本の声が、少し震えていた。
「湊社長。これ、うちが頼んだわけじゃありません。向こうが公開情報を見て、勝手に判断して連絡してきています」
「……そうですか」
陽太は短く答えた。それ以上、言葉が出なかった。
旗を掲げたから狙われたのではないか、と札幌の代表は言った。あのとき陽太は答えられなかった。
その札幌が、今、在庫を回してくると言っている。
放出が続き、値がじりじりと下がり始めた。
◇ ◇ ◇
だが、相手はそれも読んでいた。
値が戻りかけた、その瞬間だった。
二度目の買い上げが来た。
「……また上がります」
笹本の声が上ずった。
「7%、9%。……速い。午後より速い」
陽太は画面を睨んだ。
こちらの在庫がどれだけあるか、相手は測っている。市場は在庫の公開をしている。二十市場の分を合わせても、出せる量には限りがある。その限りが見えているから、待っていたのだ。こちらが弾を撃ち尽くすところまで、下げてやってから。
「残りの在庫を」
「湊社長」
笹本が遮った。
「全部出せば、来月の第二世代塗料の生産が止まります。……外販の納期が飛びます。それと、新造船三隻の塗装が」
陽太の指が、止まった。
新造船。大西が物流網の拡張に合わせて建造している船だ。取扱高が三倍に伸び、二十を超える市場が動き始めた今、船が足りていない。だから増やしている。
その塗装が止まれば、進水が遅れる。船が足りなければ、市場と市場を結ぶ物流が細る。
今日、在庫を回してくれた四つの市場。それらの市場と尾道をより太く繋ぐための船だった。
守ろうとしているものを、守るために、削る。
「……出しません」
陽太は言った。
「残りは、生産に回してください。放出はここまでです」
「よろしいのですか」
「全くよくない。だが、これ以上は原則を破ることになる」
陽太は画面から目を離さずに続けた。
「買った分は必ず使う。使う目的のない売買はしない。……その一線を越えたら、俺も相場を張ってるだけの人間になる」
その日の夕方、因島から短い連絡が入った。村上一鉄からだった。
塗料の入荷が細るなら、新造船の塗装の段取りを組み替える。乾燥の待ちを詰めて、少ない量で回す算段はつける。坊主は坊主の現場をやれ。
それだけだった。
値は上がり続けた。放出が止まった市場に、押し戻す力はもうなかった。
物量の勝負は、そこで終わった。
陽太は椅子の背にもたれた。負けだった。金と在庫の勝負では、この相手に勝てない。世界中の市場から吸い上げた金を持つ相手に、一つの会社の手持ちで挑むのは、最初から無理な話だった。
(分かってたことだ)
分かってはいた。だが実際に弾が尽きる瞬間は、想像より遥かに苦かった。
◇ ◇ ◇
変化に気づいたのは、その日の終盤だった。
値は高いまま張り付いている。だが、様子がおかしい。
「……取引が、減っています」
笹本が画面を見て呟いた。
「高値のまま、成立していません。買い気配は出ているのに、売る人がいない。……そして、追いかけ買いも止まっています」
陽太は身を起こした。
「本田さんのところは」
「加工会社の買いが、朝から入っていません。委員会の掲示を見て、この高値は需給じゃないと判断したようです。……必要な分は、他市場から相対で仕入れると」
運営室に、羽山が飛び込んできた。
「湊さん。うちの連中、誰も売ってないっす」
「売らない」
「今日は高値だから、普通なら売り時なんですけどね。……掲示に、この値は市場の外の要因だって書いてあるでしょう。だったら、この値で売るのは変だって、みんな言ってます」
羽山は少し笑った。
「妙な話ですよ。高く売れる日に、誰も売らない。……騙されてる値段で売りたくないって、そういう意地です」
陽太は、その言葉を聞いて、ゆっくりと画面に目を戻した。
高値だけが宙に浮いている。売る者がいない。買う者もいない。相手が作った値段の周りに、誰もいなかった。
(……これか)
背筋が、逆の意味で冷えた。
値を揺らして稼ぐには、揺れに乗ってくれる相手が要る。慌てて投げる者、慌てて追う者。その群れがいるから、揺らした側は差額を取れる。
誰も乗らない市場では、揺らした値段は、ただの数字だ。
相手は今日、莫大な金を使ってこの値段を作った。だが、この高値で誰も買ってくれないなら、買い上げた分を利益に換える相手がいない。売り抜けようとすれば、自分で値を崩すことになる。
「笹本さん。相手の建玉を、推計できますか」
「概算なら。……本日の売買から逆算して、相当な量を抱えているはずです」
「その量を、この市場で捌けますか」
笹本が計算し、顔を上げた。
「……無理です。今の出来高では、投げた瞬間に値が崩れます」
陽太は椅子から立ち上がった。
物量では負けた。在庫は尽き、金も尽きた。
だが、相手も出口を失っている。
自分たちの弾が尽きたのと同じ日に、相手は抱え込んだ玉の逃げ場をなくしていた。
勝ち筋は、金の量ではなかった。
この市場に集まっている人間が、慌てるか慌てないか。そこにあった。
◇ ◇ ◇
その夜、運営委員会が再び開かれた。
「今日の総括をします」
陽太は疲れた顔の委員たちを見渡した。
「物量では負けました。うちの在庫も、他市場から回してもらった分も、押し返すには足りなかった。……ですが、相手も抱えたまま動けなくなっています」
「では、このまま睨み合いですか」
行政委員が問うた。
「睨み合いは、こちらが不利です。向こうは待てる。うちは、毎日窯に火を入れなきゃいけない」
本田が頷いた。
「だから、次は仕組みを変えます」
陽太はホワイトボードに書いた。儲からなくする。
「押し返すんじゃない。この市場で値を揺らしても儲からないように、規約を変える。……揺らす費用が上がって、儲けが出なくなれば、あの手の相手は必ず撤退します。恨みでやってるわけじゃない。計算でやってるのだから」
「具体的には」
「二つ考えています」
陽太は指を立てた。
「一つ。一定量を超える取引には、現物の受け渡しを義務づける。買ったら、実際に持っていってもらう。……値段だけ動かして現物に触らない売買が、できなくなります」
委員たちがざわめいた。
「二つ。一時停止の基準を、変動幅だけでなく、取引の中身で判断できるようにする。同じ参加者が短時間で売買を繰り返している場合は、別の基準を当てる」
「それは、基準の非公開とは違うのですか」
藤岡が鋭く問うた。
「違います。新しい基準も、全部公開します」
陽太は言い切った。
「公開したまま、儲からない設計にする。……読まれても困らない仕組みを作れば、隠す必要はありません」
委員たちの間に、初めて前向きな空気が流れた。
「規約改定の議論を始めます。ですが湊さん」
藤岡が声を落とした。
「改定には、委員会の議決と、参加者への周知期間が要ります。最短でも三週間はかかります」
「三週間」
「それに、現物の受け渡しの義務化は、物流の手配も要ります。大西さんのところとの調整も」
陽太は頭の中で日程を数え、そして気づいた。
三週間後。国際会議の日程と、ちょうど重なっていた。
会議は欧州で三日間。移動を含めれば一週間近く、この国を離れることになる。
規約改定の最も重要な局面と、規格の相互承認の交渉が、同じ週に来る。
「……凪」
委員会の後、陽太は凪に言った。
「会議、動かせないよな」
「無理よ。多国間の会議の日程を、日本の都合で動かせるわけがない」
「だろうな」
陽太は夜の競り場を見下ろした。
止まった市場は再開した。相手も出口を失った。だが、まだ何一つ終わっていない。
こちらが海を渡っている一週間、この市場は無防備になる。相手は、それを知らないはずがなかった。