IR情報で読み解くダンジョン経済学   作:カトーユキヒロ

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第13話:弾切れ

 停止は三十分だった。

 

 電光掲示板の数字が止まったまま、運営室の時計だけが進んでいく。場内の探索者たちは台の周りに立ち尽くし、加工会社の買い手たちは携帯を耳に当てて本社と話している。

 

 陽太は画面の前に座り、止まった値の並びを睨んでいた。

 

(再開したら、どうなる)

 

 二つの絵が浮かぶ。

 

 一つ目。高値のまま再開する。加工会社は原料を買えない。追いかけ買いをした連中は、高値を掴んだまま置き去りになる。

 

 二つ目。再開と同時に、相手が一気に売り抜ける。午後に買い上げた分を全部投げれば、値は真下に落ちる。高値で買った者は全員が損を抱える。

 

 どちらが狙いか。

 

 陽太は数字を追い、そして気づいた。

 

(……どっちでもいいのか)

 

 背筋が冷えた。

 

 上でも下でも、相手にとっては同じだ。値が壊れて、市場が値を付けられなくなる。その事実さえ残れば、この市場は「止まる市場」になる。

 

 素材は一枚も要らない。信用だけを削っていけばいい。

 

「湊さん」

 

 運営室の扉が開いて、藤岡が入ってきた。後ろに委員が数人続いている。

 

「再開の判断をせねばなりません。規約上、三十分で自動的に再開しますが、委員会の議決で延長もできます」

 

「延長したら、どうなりますか」

 

「休場です。今日一日、この市場は値を付けない」

 

「反対です」

 

 陽太は即答した。

 

「一日止めれば、明日は誰も来ません。……止まる市場だと思われた時点で負けです」

 

「ですが再開すれば、また揺すられます」

 

「揺すられます。それでも開けます」

 

 羽山が口を開いた。売り手側の代表としての顔だった。

 

「うちの連中は、待てます。今日売らなくても明日がある。獲ってきた素材は逃げませんから」

 

「本田さんは」

 

 陽太が振ると、買い手代表の本田は渋い顔をした。

 

「うちらは待てん。工場の窯は毎日火を入れとる。原料が入らんかったら、明日から工員を休ませることになる」

 

 売り手と買い手で、時間の意味が違う。当たり前のことだった。

 

「本田さん。開けます。ただし、値は戻します」

 

「戻す、言うても」

 

「うちの在庫を出します」

 

 委員たちが顔を上げた。

 

「ウォーター・ベインの手持ちを、市場に放出します。供給が増えれば値は落ちる。……高値を作っている買いに、現物をぶつけます」

 

 藤岡が眼鏡の奥から陽太を見た。

 

「湊さん。それは、あなたの会社の損になりませんか」

 

「なりません」

 

 陽太は正直に言った。

 

「原料が高いままだと、うちの生産も止まります。値を戻すのは、うちの利益です。……善意じゃない。計算です」

 

 ◇ ◇ ◇

 

 再開の鐘が鳴った。

 

 三十分ぶりに数字が動き出す。値は高値のまま張り付いていた。買い気配が並び、売りが薄い。

 

「放出、始めてください」

 

 陽太の指示で、ウォーター・ベインの在庫が市場に出た。

 

 上位等級の魔石と、塗料の原料となる甲殻。どちらも自社の工場で使う予定だった分である。値の高いところから、順に売り板へ載せていく。

 

 高値に張り付いていた数字が、動いた。

 

「下がりました。……1%、2%」

 

 笹本が読み上げる。

 

 供給が増えれば値は落ちる。単純な理屈だった。買い上げていた相手は、こちらが売った分を全部拾うか、拾わずに値を下げさせるかの選択を迫られる。

 

 相手は、拾った。

 

 値は下がりきらず、また持ち上げられる。だが放出を続ければ、また下がる。攻防が続いた。

 

「湊社長」

 

 笹本が資料から顔を上げた。声が硬い。

 

「放出可能量、残り四割です」

 

「四割」

 

「午前中の実需買いで、手元の資金がかなり出ています。それに、放出しているのは自社で使う予定の在庫です。……これ以上出せば、来月の生産に穴が開きます」

 

 陽太は歯を噛んだ。

 

 弾の量が、こちらの生産計画で決まっている。相手は世界中で稼いだ金を持っている。使える金の桁が、そもそも違う。

 

 そのとき、笹本の手元の端末が鳴った。

 

「……仙台から連絡です」

 

「仙台」

 

「甲殻と上位魔石の在庫をこちらへ回すと。相対で融通したいと言ってきています」

 

 陽太は顔を上げた。

 

 二十の市場を繋いだ仕組み。各市場が値と在庫を公開し、必要なときに直接融通し合う。中心を置かず事務局も作らず、面倒くさい方を選んだあの設計が、今動いていた。

 

「受けます。すぐに」

 

「札幌からも。名古屋も、福岡も。……四つの市場が、在庫を出すと言っています」

 

 笹本の声が、少し震えていた。

 

「湊社長。これ、うちが頼んだわけじゃありません。向こうが公開情報を見て、勝手に判断して連絡してきています」

 

「……そうですか」

 

 陽太は短く答えた。それ以上、言葉が出なかった。

 

 旗を掲げたから狙われたのではないか、と札幌の代表は言った。あのとき陽太は答えられなかった。

 

 その札幌が、今、在庫を回してくると言っている。

 

 放出が続き、値がじりじりと下がり始めた。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 だが、相手はそれも読んでいた。

 

 値が戻りかけた、その瞬間だった。

 

 二度目の買い上げが来た。

 

「……また上がります」

 

 笹本の声が上ずった。

 

「7%、9%。……速い。午後より速い」

 

 陽太は画面を睨んだ。

 

 こちらの在庫がどれだけあるか、相手は測っている。市場は在庫の公開をしている。二十市場の分を合わせても、出せる量には限りがある。その限りが見えているから、待っていたのだ。こちらが弾を撃ち尽くすところまで、下げてやってから。

 

「残りの在庫を」

 

「湊社長」

 

 笹本が遮った。

 

「全部出せば、来月の第二世代塗料の生産が止まります。……外販の納期が飛びます。それと、新造船三隻の塗装が」

 

 陽太の指が、止まった。

 

 新造船。大西が物流網の拡張に合わせて建造している船だ。取扱高が三倍に伸び、二十を超える市場が動き始めた今、船が足りていない。だから増やしている。

 

 その塗装が止まれば、進水が遅れる。船が足りなければ、市場と市場を結ぶ物流が細る。

 

 今日、在庫を回してくれた四つの市場。それらの市場と尾道をより太く繋ぐための船だった。

 

 守ろうとしているものを、守るために、削る。

 

「……出しません」

 

 陽太は言った。

 

「残りは、生産に回してください。放出はここまでです」

 

「よろしいのですか」

 

「全くよくない。だが、これ以上は原則を破ることになる」

 

 陽太は画面から目を離さずに続けた。

 

「買った分は必ず使う。使う目的のない売買はしない。……その一線を越えたら、俺も相場を張ってるだけの人間になる」

 

 その日の夕方、因島から短い連絡が入った。村上一鉄からだった。

 

 塗料の入荷が細るなら、新造船の塗装の段取りを組み替える。乾燥の待ちを詰めて、少ない量で回す算段はつける。坊主は坊主の現場をやれ。

 

 それだけだった。

 

 値は上がり続けた。放出が止まった市場に、押し戻す力はもうなかった。

 

 物量の勝負は、そこで終わった。

 

 陽太は椅子の背にもたれた。負けだった。金と在庫の勝負では、この相手に勝てない。世界中の市場から吸い上げた金を持つ相手に、一つの会社の手持ちで挑むのは、最初から無理な話だった。

 

(分かってたことだ)

 

 分かってはいた。だが実際に弾が尽きる瞬間は、想像より遥かに苦かった。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 変化に気づいたのは、その日の終盤だった。

 

 値は高いまま張り付いている。だが、様子がおかしい。

 

「……取引が、減っています」

 

 笹本が画面を見て呟いた。

 

「高値のまま、成立していません。買い気配は出ているのに、売る人がいない。……そして、追いかけ買いも止まっています」

 

 陽太は身を起こした。

 

「本田さんのところは」

 

「加工会社の買いが、朝から入っていません。委員会の掲示を見て、この高値は需給じゃないと判断したようです。……必要な分は、他市場から相対で仕入れると」

 

 運営室に、羽山が飛び込んできた。

 

「湊さん。うちの連中、誰も売ってないっす」

 

「売らない」

 

「今日は高値だから、普通なら売り時なんですけどね。……掲示に、この値は市場の外の要因だって書いてあるでしょう。だったら、この値で売るのは変だって、みんな言ってます」

 

 羽山は少し笑った。

 

「妙な話ですよ。高く売れる日に、誰も売らない。……騙されてる値段で売りたくないって、そういう意地です」

 

 陽太は、その言葉を聞いて、ゆっくりと画面に目を戻した。

 

 高値だけが宙に浮いている。売る者がいない。買う者もいない。相手が作った値段の周りに、誰もいなかった。

 

(……これか)

 

 背筋が、逆の意味で冷えた。

 

 値を揺らして稼ぐには、揺れに乗ってくれる相手が要る。慌てて投げる者、慌てて追う者。その群れがいるから、揺らした側は差額を取れる。

 

 誰も乗らない市場では、揺らした値段は、ただの数字だ。

 

 相手は今日、莫大な金を使ってこの値段を作った。だが、この高値で誰も買ってくれないなら、買い上げた分を利益に換える相手がいない。売り抜けようとすれば、自分で値を崩すことになる。

 

「笹本さん。相手の建玉を、推計できますか」

 

「概算なら。……本日の売買から逆算して、相当な量を抱えているはずです」

 

「その量を、この市場で捌けますか」

 

 笹本が計算し、顔を上げた。

 

「……無理です。今の出来高では、投げた瞬間に値が崩れます」

 

 陽太は椅子から立ち上がった。

 

 物量では負けた。在庫は尽き、金も尽きた。

 

 だが、相手も出口を失っている。

 

 自分たちの弾が尽きたのと同じ日に、相手は抱え込んだ玉の逃げ場をなくしていた。

 

 勝ち筋は、金の量ではなかった。

 

 この市場に集まっている人間が、慌てるか慌てないか。そこにあった。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 その夜、運営委員会が再び開かれた。

 

「今日の総括をします」

 

 陽太は疲れた顔の委員たちを見渡した。

 

「物量では負けました。うちの在庫も、他市場から回してもらった分も、押し返すには足りなかった。……ですが、相手も抱えたまま動けなくなっています」

 

「では、このまま睨み合いですか」

 

 行政委員が問うた。

 

「睨み合いは、こちらが不利です。向こうは待てる。うちは、毎日窯に火を入れなきゃいけない」

 

 本田が頷いた。

 

「だから、次は仕組みを変えます」

 

 陽太はホワイトボードに書いた。儲からなくする。

 

「押し返すんじゃない。この市場で値を揺らしても儲からないように、規約を変える。……揺らす費用が上がって、儲けが出なくなれば、あの手の相手は必ず撤退します。恨みでやってるわけじゃない。計算でやってるのだから」

 

「具体的には」

 

「二つ考えています」

 

 陽太は指を立てた。

 

「一つ。一定量を超える取引には、現物の受け渡しを義務づける。買ったら、実際に持っていってもらう。……値段だけ動かして現物に触らない売買が、できなくなります」

 

 委員たちがざわめいた。

 

「二つ。一時停止の基準を、変動幅だけでなく、取引の中身で判断できるようにする。同じ参加者が短時間で売買を繰り返している場合は、別の基準を当てる」

 

「それは、基準の非公開とは違うのですか」

 

 藤岡が鋭く問うた。

 

「違います。新しい基準も、全部公開します」

 

 陽太は言い切った。

 

「公開したまま、儲からない設計にする。……読まれても困らない仕組みを作れば、隠す必要はありません」

 

 委員たちの間に、初めて前向きな空気が流れた。

 

「規約改定の議論を始めます。ですが湊さん」

 

 藤岡が声を落とした。

 

「改定には、委員会の議決と、参加者への周知期間が要ります。最短でも三週間はかかります」

 

「三週間」

 

「それに、現物の受け渡しの義務化は、物流の手配も要ります。大西さんのところとの調整も」

 

 陽太は頭の中で日程を数え、そして気づいた。

 

 三週間後。国際会議の日程と、ちょうど重なっていた。

 

 会議は欧州で三日間。移動を含めれば一週間近く、この国を離れることになる。

 

 規約改定の最も重要な局面と、規格の相互承認の交渉が、同じ週に来る。

 

「……凪」

 

 委員会の後、陽太は凪に言った。

 

「会議、動かせないよな」

 

「無理よ。多国間の会議の日程を、日本の都合で動かせるわけがない」

 

「だろうな」

 

 陽太は夜の競り場を見下ろした。

 

 止まった市場は再開した。相手も出口を失った。だが、まだ何一つ終わっていない。

 

 こちらが海を渡っている一週間、この市場は無防備になる。相手は、それを知らないはずがなかった。

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