出発は水曜の朝だった。
その前夜、取引所の会議室に委員たちが集まった。陽太が不在にする一週間の段取りを決めるためである。
「規約改定の議論は、予定どおり進めます」
藤岡が資料を配った。
「現物受け渡しの義務化と、取引の中身による停止基準。二つとも条文案はできています。周知期間を考えると、湊さんの帰国を待っていては間に合いません」
「委員会だけで議決してください」
陽太は即答した。
「俺の同意は要りません。この市場の規約は、委員会が決めるものです」
「よろしいのですか。あなたが提案した内容ですが」
「提案までが俺の仕事です。中身をどう直すかは、皆さんの仕事だ」
藤岡は少し目を細めて、それから頷いた。
「承知しました。……ですが湊さん、もう一つ問題があります」
「分析の公開ですね」
「はい。毎日の値動きが需給によるものか、そうでないのか。あの判断を、誰がやりますか」
委員たちの視線が集まった。
これまで、その判断は陽太がやってきた。数字の並びを見て、相手の手口を読み、委員会に上げる。属人的な作業だった。
「笹本さんに引き継ぎます」
陽太は隣の席を見た。笹本が硬い顔で頷いた。
「引き受けます。ですが、私は財務屋です。相場の読みは、正直に申し上げて自信がありません」
「読みは要りません。手順を渡します」
陽太はホワイトボードに向かった。
「一つ目。同一参加者の日中の売買回転が、平常の何倍か。二つ目。他の十九市場で同じ品目の値が動いているか。三つ目。買った現物が倉庫から出ているか。……この三つを毎日測って、数字で判定する」
陽太は三つの項目の横に、それぞれ基準値を書き込んだ。
「回転が三倍を超え、他市場が動いておらず、現物が動いていない。この三つが揃ったら、市場外の要因と判定して掲示する。……勘は要りません。数字で判定できます」
笹本が、ゆっくりと資料を見た。
「……これなら、私にもできます」
「本当は最初からこうすべきでした」
陽太は正直に言った。
「俺が読んで俺が判断する形は、俺がいなくなったら止まります。この市場が誰のものでもないなら、判断も誰か一人のものであってはいけない」
羽山が手を挙げた。
「湊さん。俺らは何をすりゃいいですか」
「売らないでください」
陽太は言った。
「掲示が出ている日は、高くても安くても、慌てて動かない。……前と同じでいい」
「それでいいんすか」
「それが一番効きます」
陽太は羽山を見た。
「向こうは、慌てる人間から金を取る商売です。慌てなければ、取られる金がない。……この市場が持ちこたえるかどうかは、羽山さんたちの我慢にかかってます」
羽山は少し照れたような顔をして、それから頷いた。
「じゃあ、意地張っときます」
◇ ◇ ◇
欧州の会議場は、石造りの古い建物だった。
円卓を囲んで、各国の代表団が並んでいる。規格の担当者、行政官、産業界の代表。言語は英語で統一され、同時通訳が入る。
議長席にクローネが座っていた。銀縁の眼鏡の奥から、円卓を静かに見渡している。
「本日の議題は、各国の等級規格の相互承認網であります」
クローネの日本語ではない声を、陽太は初めて聞いた。硬質な発音は、日本語のときと同じだった。
「基軸候補として、三つの規格が挙がっております。旧大陸の伝統的な基準、北米の産業規格、そして日本の瀬戸内等級規格」
円卓に、資料が配られた。
「本日は、それぞれの規格について技術的な検証を行います。日本代表団、瀬戸内等級規格の説明をお願いします」
陽太は立ち上がった。
用意した資料は、二ヶ月かけて英文に直したものだった。規格書、検証データ、鑑定人試験の要領。それに、この場のために先出しで書き足した三つの項目。
「瀬戸内等級規格は、四段階の等級と、劣化率による補正で構成されています」
陽太は説明を始めた。
「特徴は三つあります。第一に、判定の基準を全て公開していること。第二に、判定の誤りを記録として残し、改定の議事録も公開していること。第三に、この規格の頂点に、基準器が置かれていること」
円卓の空気が、少し動いた。
「基準器について、先に申し上げます」
陽太は資料の該当ページを示した。
「日々の等級判定は、計測機器と鑑定人試験に合格した者が行います。ですが、その物差しが狂っていないかを確かめる原器が必要です。我々の規格では、その役割を、私の目が担っています」
通訳が訳し終わると、円卓がざわめいた。
北米の代表が手を挙げた。
「確認させてください。個人の能力が、規格の頂点にあるということですか」
「そのとおりです」
「それは規格ではありません」
率直な指摘だった。
「規格とは、誰が測っても同じ結果が出ることを保証する仕組みです。あなたが測らなければ確かめられない基準は、規格の定義から外れています。……率直に申し上げて、これを世界の基軸にすることはできません」
場が静まった。
陽太は動じなかった。予想していた質問だったからだ。
「ご指摘は正しいです」
陽太は認めた。
「私も、これは規格の弱点だと考えています。だからこそ、今日、三つの資料を先にお配りしました」
陽太は資料をめくった。
「一つ目、校正の頻度。基準器による照合は月に一度、無作為に抽出した検体で行い、記録を全て公開しています。二つ目、照合の手順。基準器の判定と計測機器の数値、鑑定人の判定を三点で突き合わせ、一致率を測る。直近の一致率は97%です」
「三つ目は」
「基準器が使えなくなった場合の代替手順です」
陽太は最後のページを示した。
「私が明日死んでも、この規格は運用できます。四年分の判定記録が全て残っているからです。記録から統計的な基準を導き、計測機器の数値に落とし込む手順を、既に整備してあります。……基準器は、既に規格の必要条件ではありません」
「では、なぜまだ基準器を置いているのですか」
「精度のためです」
陽太は正直に答えた。
「代替手順の精度は、現時点で一致率93%です。基準器を使えば97%。……この四点の差を捨てるには、まだ早いと考えています」
北米の代表は、しばらく資料を見ていた。
「……率直な回答に感謝します。ですが、私の懸念は解消されていません」
「私もです」
陽太は言った。
「この弱点を、いつか解消しなければならないと思っています。……今日ここで、解消したとは申し上げません」
円卓が、静かになった。
クローネが、議長席から口を開いた。
「日本代表団の説明は、弱点を隠しませんでした。この点は、記録に留めます」
それは擁護ではなかった。ただ、事実の確認だった。
◇ ◇ ◇
午後は、共通原則の分科会だった。
陽太は傍聴席にいた。規格の交渉担当である陽太には、この分科会で発言権がない。代表団の構成を決めるとき、自ら提案した担当の分け方が、そのまま自分を縛っていた。
日本代表団の席に座っているのは、政府代表と、機構から出た副団長である。
議題が、資源取引の共通原則に入った。
「資源市場における金融取引の規律について、各国の見解を伺います」
議長の呼びかけに、旧大陸の代表が応じた。
「我々は、規律の導入を支持します。近年、現物の裏付けを持たない取引が資源価格を歪める事例が各国で発生しています。共通の原則を持つべきです」
北米の代表も続いた。
「同意します。ただし、市場の流動性を損なわない設計が必要です」
議長が日本を指した。
「日本の見解を伺います」
機構の副団長が立ち上がった。
陽太は身を固くした。
「日本は、開かれた市場を目指しております」
副団長は淀みなく話した。
「我が国では既に自由な資源市場が稼働し、海外資本の参加も歓迎しております。国際化を推進する立場から申し上げれば、過度な規律は市場の活力を損なう恐れがある。……規律の導入には、慎重な検討が必要と考えます」
陽太は膝の上で拳を握った。
言っていることは正論である。過度な規律が市場を殺すのは事実だ。だが、その正論が、今この瞬間に何を守るか。
日本の市場が値を揺すられ、一度は止まった。その事実を、この場で誰も語らない。語る資格を持つ人間が、傍聴席に座っている。
議長が次の国を指名し、議論は流れていった。
陽太は資料を握ったまま、動けなかった。
自分で分けた担当だった。技術のことは技術の当事者が話す。それが筋だと言ったのは自分だ。その筋が、今こちらの口を塞いでいる。
◇ ◇ ◇
その夜、宿の部屋で日本からの連絡を受けた。時差の関係で、向こうは翌日の午後である。
「湊社長。仕掛けが来ました」
笹本の声だった。硬いが、落ち着いている。
「いつからですか」
「本日の開場からです。上位魔石と甲殻。前回と同じ品目です」
「判定は」
「三つの基準、全て該当しました。回転が四倍、他市場は動いておらず、現物も倉庫から出ていません。……市場外の要因と判定し、委員会の名で掲示しました」
陽太は目を閉じた。手順どおりだった。
「場の反応は」
「掲示の後、売りが出ませんでした。……羽山さんが売り手の方々に、掲示が出ている日は動かないよう声をかけて回っておられます」
「本田さんのところは」
「加工会社の買いも入っていません。必要な分は他市場から相対で。……値だけが上がって、誰もついていっていない状態です」
陽太は椅子に座り直した。
「値幅は」
「一時13%まで行きましたが、そこで止まりました。停止基準の手前です。……そして、そこから下がり始めています」
「下がった」
「はい。買い上げても誰も売らない。売らないなら利益にならない。……向こうが、買い上げを止めたようです」
受話器の向こうで、笹本が小さく息を吐いた。
「湊社長。あなたが不在でも、市場は止まりませんでした」
陽太は、しばらく言葉が出なかった。
「……皆さんのおかげです」
「いえ。手順を渡していただいたからです」
笹本は淡々と言った。
「私は数字を三つ測っただけです。判断は要りませんでした。……あの手順書、よくできています」
通話を切って、陽太は窓の外を見た。異国の街並みに、雨が降っていた。
自分がいなくても市場は回った。それは喜ぶべきことのはずだった。
実際、陽太は喜んでいた。
だが同時に、今日の午後の光景が頭を離れなかった。日本の市場が守られている、まさにその日に、日本代表団は国際の場で規律に慎重な姿勢を示した。
国内では持ちこたえ、国際では旗を降ろしている。
この矛盾を、放置してはいけなかった。
◇ ◇ ◇
翌朝、陽太は凪と朝食の席で資料を広げていた。
「発言権がないのは、変えられないわ」
凪はコーヒーを置いて言った。
「代表団の担当分けは、こちらが提案して決まったものよ。今さら覆せば、日本の代表団が内輪揉めしていると見られる」
「分かってる」
「じゃあ、どうするの」
「規格の側から、橋を架ける」
陽太は資料に線を引いた。
「共通原則の分科会では発言できない。だが、規格の議論では発言できる。……この二つは、実は繋がってる」
「繋がってる?」
「等級規格は、現物に等級を付ける仕組みだ。誰が測っても同じ結果が出て、記録が残る。……この仕組みがあれば、現物の裏付けがある取引とない取引を、切り分けられる」
凪の目が、少し開いた。
「等級印のある現物が動いている取引と、値段だけが動いている取引を、区別できる」
「そうだ。規律の話は、どの取引を規制するかで揉める。線が引けないからだ。……だが等級規格を相互承認網の基軸にするなら、その線が引ける」
陽太は資料の余白に書いた。
等級規格の相互承認は、現物の裏付けを保証する仕組みである。したがって、共通原則における金融取引の規律の技術的基盤となりうる。
「規格の技術説明として、これを話す。規律に賛成とも反対とも言わない。ただ、技術的にこういうことができる、と説明するだけだ」
「……担当の範囲内ね」
「範囲内だ。規格の用途を説明しているだけだから」
凪が、呆れたような顔で笑った。
「あなた、本当に抜け道を見つけるのが上手いわね」
「抜け道じゃない。筋は通ってる」
陽太は資料を閉じた。
会議は二日目に入る。規格の分科会は午後だった。
その前の午前中に、日本代表団の打ち合わせが入っている。
陽太は、まだ知らなかった。その打ち合わせの席に、東京から誰が到着しているのかを。