IR情報で読み解くダンジョン経済学   作:カトーユキヒロ

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第15話:同じ言葉

 朝の打ち合わせは、宿の小会議室で行われた。

 

 陽太が入ると、円卓の奥に見慣れた背中があった。

 

 振り返ったその顔は、穏やかに笑っていた。

 

「湊さん。おはようございます」

 

 鬼頭だった。

 

「……専務理事。こちらにいらしていたんですか」

 

「昨夜、着きました。共通原則の交渉が大詰めですのでな。副団長一人に背負わせるわけにもいきません」

 

 鬼頭は椅子を勧める仕草をした。自分の部屋のような自然さだった。

 

「昨日の規格の分科会、伺いましたよ。基準器の話を、ご自分から先に出されたそうですな」

 

「隠しても、どうせ突かれますから」

 

「いや、見事です。あれで日本代表団の信用が上がりました。……弱点を先に出す度胸のある人は、そう多くありません」

 

 褒め言葉に嘘の匂いはなかった。心からそう思っているのが分かる。だからこそ、陽太は身構えた。

 

 打ち合わせが始まり、各分科会の状況が共有されていく。共通原則の議題に入ったところで、陽太は口を開いた。

 

「専務理事。昨日の分科会での日本の見解について、伺わせてください」

 

「金融取引の規律の件ですな」

 

「過度な規律は市場の活力を損なう、と副団長が仰いました。……あの立場は、機構の見解ですか」

 

 場の空気が、少し張り詰めた。政府代表が視線を上げる。

 

「機構の見解です」

 

 鬼頭は淀みなく答えた。

 

「理由を申し上げましょう。……湊さん。この国は、まだ縮んだままだということを、お考えになったことはございますか」

 

 思いがけない切り口だった。

 

「縮んだまま」

 

「あの災害で、我が国は世界で最も多くのダンジョンを抱えることになりました。国土の大半を捨て、人を九つの都市圏に押し込めて、辛うじて国家の形を保っている。……あれから五年、我々はまだ、一度も外へ出ておりません」

 

 鬼頭は円卓の全員に向けて話しているようでいて、目は陽太を見ていた。

 

「バリケードの外には、手つかずのダンジョンが数え切れぬほど残っております。誰も潜っていない。誰も測っていない。……そこにある資源は、今この国が扱っている量の、何倍になりますか」

 

 陽太は答えられなかった。考えたこともない数字だった。

 

「都市圏や特区の内側には、もう工場を建てる土地がありません。今治も尾道も同じです。加工能力を増やしたくとも、置く場所がない。……土地を得る方法は、一つしかございません」

 

「魔物を掃討して、都市圏を押し広げる」

 

「そのとおりです」

 

 場が静まった。政府代表が資料から顔を上げている。

 

 陽太は、この老人が何を語っているのかを理解した。復興の話ではない。国土を取り戻す話だった。

 

「湊さん。あなたが値段を直したおかげで、探索者は食えるようになりました。市場ができ、素材が流れ、加工が育った。……ですが、それは全部、バリケードの内側の話です」

 

 鬼頭の声は穏やかなままだった。

 

「外へ出るには、装備が要ります。人が要ります。掃討した土地を保つ拠点が要ります。道を通し、電気を引き、水を引く。……この国の銀行と企業の体力で始めれば、十年かけても最初の一区画に届きません」

 

「海外資本があれば、それが縮むと」

 

「数年に縮みます。実際、そういう話が既に来ております」

 

 陽太は目を細めた。

 

「ここで日本が厳しい規律を打ち出せば、その金は他の国へ流れます。……この国は、縮んだまま次の五年を過ごす」

 

「規律の対象は、現物を持たない取引です。土地を広げる投資とは別です」

 

「切り分けられればよろしい。ですが国際的な規律は、往々にして大雑把に作られます」

 

 鬼頭は静かに続けた。

 

「一つの網で、悪い魚と良い魚の両方が獲れてしまう。ご懸念は重々承知しております。……私は、良い魚まで逃したくないだけです」

 

 筋は通っていた。反論の言葉が、すぐには出てこなかった。

 

 この老人は、市場の話をしていなかった。国土の話をしていた。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 打ち合わせが終わり、廊下に出たところで声をかけられた。

 

「湊さん。少しよろしいですかな」

 

 鬼頭だった。窓辺の休憩用の椅子を示している。

 

 二人だけになった。廊下の窓からは、石畳の広場が見下ろせた。

 

 陽太の頭には、まださっきの話が残っていた。

 

 都市圏を押し広げる。バリケードの外の土地を、魔物から取り返す。

 

 考えたことがなかった。

 

 四年間、陽太が見てきたのは自分の手の届く範囲だけだった。最初は自分と妹。次は凪と一鉄、ウォーター・ベインに関わる人々。

 

 シーライオンを買収して手の届く範囲が伸びた。鷹司と盟友となり、歪んだ秤を直した。そして、市場を開き、探索者の腕が値になる仕組みを作った。

 

 それで手一杯だった。

 

 その間、この老人は、国の形そのものを見ていたのだろう。

 

「先ほどのお話ですが」

 

 陽太は先に切り出した。

 

「都市圏の拡張。……あれは、機構の中で具体化しているんですか」

 

「案の段階です。ですが、遠からず表に出ます」

 

 鬼頭はあっさりと答えた。

 

「湊さん。あなたは値段を直した。私は、その先を考えるのも仕事でしてな。……値段が直ったのなら、次は場所です。人が住み、工場が建ち、子供が育つ場所。それをこの国は取り返さねばなりません」

 

 反論する材料が、陽太にはなかった。

 

「日本の市場のこと、聞き及んでおります」

 

 鬼頭が話題を変えた。

 

「先月、一度止まったとか」

 

「……ご存じでしたか」

 

「機構は全国の取引を見ておりますからな。尾道だけでなく、地方の市場の様子も入ってまいります」

 

 鬼頭は湯呑みではなく、備え付けの水のグラスを手にしていた。

 

「値を揺らして稼ぐ者がいる。現物には一切触れず、値動きだけを商売にする連中が。……欧州でも北米でも、この数年で似たことが起きております」

 

「専務理事は、その連中をご存じですか」

 

「名前は聞いております」

 

 あっさりとした答えだった。

 

「登記もない、本社もない。誰が呼び始めたか分からない通称だけがある。……値段が壊れる場所には、必ずその名前が囁かれるそうですな」

 

 陽太は表情を変えなかった。だが、内心では警戒が跳ね上がっていた。

 

 この老人は、アトラスを知っている。

 

「機構は、あの連中と接触されていますか」

 

 単刀直入に聞いた。

 

 鬼頭は、驚いた顔をした。それから、少しだけ笑った。

 

「湊さん。私を買いかぶりすぎです」

 

「と、いいますと」

 

「あの手の連中と、誰が接触できます。名乗りもしない、姿も見せない。連絡を取ろうにも、取る先がない。……仮に取れたとして、あれと組む理由が私にありますか」

 

「ないと仰る」

 

「ありません。私が守りたいのは、この国の秩序です。値段を壊して回る連中は、秩序の敵だ。……組む道理がない」

 

 嘘の匂いはなかった。この老人は、本当に組んでいない。

 

 陽太はそう判断した。判断した上で、次の言葉に打ちのめされた。

 

「ですがね、湊さん」

 

 鬼頭は、グラスの水を静かに見つめた。

 

「あの連中がこの国の市場を揺らしてくださったおかげで、はっきりしたことがあります」

 

「……はっきりした」

 

「開かれた市場は、あのように壊されるということです」

 

 鬼頭は顔を上げた。穏やかな目だった。

 

「あなたが作った市場は、実に美しい設計でした。台帳は公開され、基準も公開され、誰でも参加できる。……ですが、その開かれた設計が、そのまま弱点になった。安全装置の作動条件まで公開していたそうですな。狙い撃ちにされて当然でしょう」

 

「……」

 

「私は、あなたを責めておるのではありません。むしろ逆です。あなたの設計は正しかった。正しかったからこそ、正しいだけでは市場は守れないと、この国の全員が学んだのです」

 

 陽太は、この老人の話がどこへ向かうのかを、既に理解していた。

 

「だから、強い管理者が要ると」

 

「そのとおりです」

 

 鬼頭は頷いた。

 

「開かれた市場には、開かれているがゆえの脆さがある。その脆さを埋めるのは、市場自身ではない。外から守る者が要る。全国の網を持ち、いざというとき一日で動ける組織が。……先月の一件は、それを証明してくれました」

 

 陽太は言葉を失った。

 

 市場が壊されたという事実そのものが、この老人にとっては材料だった。攻撃されたことが、門番が必要だという論拠になる。

 

 組んでいないのに、噛み合っている。

 

 あの顔のない巨人が値を揺らせば揺らすほど、この老人の椅子は正当化されていく。連携ではない。だが、結果は連携と変わらない。

 

「専務理事。一つ伺わせてください」

 

 陽太は静かに言った。

 

「あの連中が値を揺らすのを、機構は止めたいですか」

 

 鬼頭は、少し考えるような間を置いた。

 

「止めたいですな。秩序の敵ですから」

 

「今すぐにでも」

 

「……そこは、順序の話でしょう」

 

 初めて、答えに一拍の遅れがあった。

 

「守る仕組みを先に整えねばなりません。仕組みのないまま止めようとしても、止まりませんからな。……まずは器を作る。話はそれからです」

 

 器を作るまでは、揺らされたままでいい。

 

 その言葉の意味を、陽太は噛みしめた。この老人は、揺らす者を止めたいと言いながら、止める順序を後回しにしている。悪意ではない。段取りの話として、心からそう言っている。

 

 その温度のなさに、陽太は微かな違和感を覚えた。だがその違和感の正体を、まだ言葉にできなかった。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 午後、規格の分科会が始まった。

 

 陽太は用意した説明を、淡々と述べた。

 

「昨日の説明に、一点だけ補足させてください。瀬戸内等級規格の用途について、技術的な事実を申し上げます」

 

 円卓が、資料をめくる音で満ちた。

 

「等級規格は、現物に等級を付ける仕組みです。判定の基準が公開され、判定の記録が残り、誰が測っても同じ結果が出る。……この仕組みが相互承認網として繋がれば、ある技術的な効果が生まれます」

 

 陽太は資料の図を示した。

 

「等級印のある現物がいつどこで、誰から誰へ動いたか。その記録が国境を越えて追える。……つまり、現物の裏付けがある取引とない取引を、技術的に区別できるようになります」

 

 円卓が、静かになった。

 

 旧大陸の代表が、資料から顔を上げた。

 

「湊参考人。それは、共通原則の議論に関わる話ではありませんか」

 

「私は規格の技術説明の担当です」

 

 陽太は答えた。

 

「規律に賛成とも反対とも申し上げません。ただ、この規格にはこういう用途がある、という技術的な事実を説明しております」

 

 北米の代表が、資料を指で叩いた。

 

「議長。この論点は重要です。昨日の共通原則の分科会で、規律の対象をどう線引きするかが最大の争点になりました。……線が引けないという理由で、議論が止まっていた」

 

「線が引ける可能性があると」

 

「技術的には、そう聞こえます」

 

 クローネが、議長席から円卓を見渡した。

 

 銀縁の眼鏡の奥の目が、一瞬だけ陽太を見た。それは、この老紳士が二年前に見せたのと同じ、規格屋の目だった。

 

「議長として判断します」

 

 クローネは告げた。

 

「本件の技術的な論点を、共通原則の分科会へ送付します。規格による現物追跡の可能性について、技術資料を添えて提出させます」

 

 議事録に、その決定が記録された。

 

 陽太は椅子に座ったまま、静かに息を吐いた。

 

 発言権のない部屋に、論点だけを届けた。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 翌日の共通原則の分科会で、その資料が配られた。

 

 陽太は傍聴席にいた。円卓では、日本代表団の席に鬼頭が座っている。

 

 議長が、資料に言及した。

 

「規格分科会から、技術的な論点の送付がありました。等級規格の相互承認網により、現物の裏付けの有無を区別できる可能性があるとのことです」

 

 旧大陸の代表が手を挙げた。

 

「これが可能なら、規律の設計は大きく変わります。市場の流動性を損なわずに、現物のない投機的取引だけを規律できる」

 

「日本の見解を伺いたい」

 

 議長が日本代表団を指した。

 

「この技術は、日本の規格に基づくものです。日本は、この方向を支持しますか」

 

 円卓の視線が、日本の席に集まった。

 

 陽太は傍聴席で身を固くした。昨日、鬼頭は規律に慎重な立場を表明している。この技術を支持すれば、その立場と矛盾する。

 

 鬼頭が、静かに立ち上がった。

 

「日本は、この方向を支持いたします」

 

 陽太は目を見開いた。

 

「昨日、私どもは規律に慎重な立場を申し上げました。理由は、大雑把な網では良い資本まで逃がしてしまうからです。……ですが、精密な線引きが技術的に可能であるなら、話は別でございます」

 

 鬼頭は円卓を見渡した。

 

「悪い魚だけを獲れる網があるなら、我々は喜んで賛成いたします。日本は、この技術的基盤の整備に全面的に協力する所存です」

 

 円卓に、賛意の空気が広がった。

 

 陽太は傍聴席で拳を握っていた。悔しさではなかった。ただ、来ると分かっていたものが来た、という感覚だった。

 

「そして、一点だけ申し添えます」

 

 鬼頭が続けた。

 

「この技術を実際に運用するには、現物の流れを国境を越えて記録し続ける実務が必要です。日本国内においては、全国のダンジョンと素材の流れを把握している組織が、その実務を担うことになります」

 

 議長が問うた。

 

「具体的には」

 

「日本探索者支援機構でございます」

 

 陽太は目を閉じた。

 

 自分が架けた橋の上を、この老人が先に渡っていく。

 

 規格が線を引く。その線を実際に運用するのは誰か。国際の場で技術が認められれば認められるほど、その運用主体の椅子は重くなる。

 

 賛成で場を支配する男。陽太にとっては四度目だった。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 会議は三日目で暫定的な結論を出した。

 

 共通原則に、資源取引における金融取引の規律を盛り込む方向が固まった。現物の裏付けの有無による線引きを、技術的基盤として検討する。等級規格の相互承認網については、瀬戸内等級規格を基軸候補の一つとして継続協議とする。

 

 日本にとっては前進だった。規律の方向が固まり、こちらの規格が国際の議題に残った。

 

 だが、その運用を誰が担うかは、国内へ持ち帰られることになった。

 

 閉会後、廊下でクローネに呼び止められた。

 

「湊さん。良い仕事でした」

 

 硬質な日本語だった。

 

「あなたの規格は、まだ基軸ではありません。北米の懸念は残っております。基準器の件は、次までに宿題です」

 

「承知しています」

 

「ですが」

 

 クローネは眼鏡を押し上げた。

 

「弱点を隠さない団体が、線引きの技術を持ち込んだ。この順序を、私は評価します。……隠す者の技術は、信用されませんのでな」

 

 老紳士は一礼して去っていった。

 

 陽太は窓の外を見た。異国の空が夕方の色になり始めている。

 

 帰国すれば、規約改定の議決が待っている。戦略機構の中身の議論も、運用主体の争いも。基準器の宿題も。

 

 そして、あの顔のない巨人が、まだ日本の市場にいる。

 

 携帯が震えた。笹本からだった。

 

「湊社長。……妙な動きがあります」

 

「また仕掛けですか」

 

「いえ。逆です」

 

 笹本の声には、困惑があった。

 

「今週に入ってから、あの参加者の取引が、ぱたりと止まりました。……一件も出ていません」

 

 陽太は窓の外の空を見つめた。

 

 撤退か。それとも、次の一手の準備か。

 

 顔のない相手の沈黙が、何を意味するのか。それを読むには、まだ材料が足りなかった。

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