朝の打ち合わせは、宿の小会議室で行われた。
陽太が入ると、円卓の奥に見慣れた背中があった。
振り返ったその顔は、穏やかに笑っていた。
「湊さん。おはようございます」
鬼頭だった。
「……専務理事。こちらにいらしていたんですか」
「昨夜、着きました。共通原則の交渉が大詰めですのでな。副団長一人に背負わせるわけにもいきません」
鬼頭は椅子を勧める仕草をした。自分の部屋のような自然さだった。
「昨日の規格の分科会、伺いましたよ。基準器の話を、ご自分から先に出されたそうですな」
「隠しても、どうせ突かれますから」
「いや、見事です。あれで日本代表団の信用が上がりました。……弱点を先に出す度胸のある人は、そう多くありません」
褒め言葉に嘘の匂いはなかった。心からそう思っているのが分かる。だからこそ、陽太は身構えた。
打ち合わせが始まり、各分科会の状況が共有されていく。共通原則の議題に入ったところで、陽太は口を開いた。
「専務理事。昨日の分科会での日本の見解について、伺わせてください」
「金融取引の規律の件ですな」
「過度な規律は市場の活力を損なう、と副団長が仰いました。……あの立場は、機構の見解ですか」
場の空気が、少し張り詰めた。政府代表が視線を上げる。
「機構の見解です」
鬼頭は淀みなく答えた。
「理由を申し上げましょう。……湊さん。この国は、まだ縮んだままだということを、お考えになったことはございますか」
思いがけない切り口だった。
「縮んだまま」
「あの災害で、我が国は世界で最も多くのダンジョンを抱えることになりました。国土の大半を捨て、人を九つの都市圏に押し込めて、辛うじて国家の形を保っている。……あれから五年、我々はまだ、一度も外へ出ておりません」
鬼頭は円卓の全員に向けて話しているようでいて、目は陽太を見ていた。
「バリケードの外には、手つかずのダンジョンが数え切れぬほど残っております。誰も潜っていない。誰も測っていない。……そこにある資源は、今この国が扱っている量の、何倍になりますか」
陽太は答えられなかった。考えたこともない数字だった。
「都市圏や特区の内側には、もう工場を建てる土地がありません。今治も尾道も同じです。加工能力を増やしたくとも、置く場所がない。……土地を得る方法は、一つしかございません」
「魔物を掃討して、都市圏を押し広げる」
「そのとおりです」
場が静まった。政府代表が資料から顔を上げている。
陽太は、この老人が何を語っているのかを理解した。復興の話ではない。国土を取り戻す話だった。
「湊さん。あなたが値段を直したおかげで、探索者は食えるようになりました。市場ができ、素材が流れ、加工が育った。……ですが、それは全部、バリケードの内側の話です」
鬼頭の声は穏やかなままだった。
「外へ出るには、装備が要ります。人が要ります。掃討した土地を保つ拠点が要ります。道を通し、電気を引き、水を引く。……この国の銀行と企業の体力で始めれば、十年かけても最初の一区画に届きません」
「海外資本があれば、それが縮むと」
「数年に縮みます。実際、そういう話が既に来ております」
陽太は目を細めた。
「ここで日本が厳しい規律を打ち出せば、その金は他の国へ流れます。……この国は、縮んだまま次の五年を過ごす」
「規律の対象は、現物を持たない取引です。土地を広げる投資とは別です」
「切り分けられればよろしい。ですが国際的な規律は、往々にして大雑把に作られます」
鬼頭は静かに続けた。
「一つの網で、悪い魚と良い魚の両方が獲れてしまう。ご懸念は重々承知しております。……私は、良い魚まで逃したくないだけです」
筋は通っていた。反論の言葉が、すぐには出てこなかった。
この老人は、市場の話をしていなかった。国土の話をしていた。
◇ ◇ ◇
打ち合わせが終わり、廊下に出たところで声をかけられた。
「湊さん。少しよろしいですかな」
鬼頭だった。窓辺の休憩用の椅子を示している。
二人だけになった。廊下の窓からは、石畳の広場が見下ろせた。
陽太の頭には、まださっきの話が残っていた。
都市圏を押し広げる。バリケードの外の土地を、魔物から取り返す。
考えたことがなかった。
四年間、陽太が見てきたのは自分の手の届く範囲だけだった。最初は自分と妹。次は凪と一鉄、ウォーター・ベインに関わる人々。
シーライオンを買収して手の届く範囲が伸びた。鷹司と盟友となり、歪んだ秤を直した。そして、市場を開き、探索者の腕が値になる仕組みを作った。
それで手一杯だった。
その間、この老人は、国の形そのものを見ていたのだろう。
「先ほどのお話ですが」
陽太は先に切り出した。
「都市圏の拡張。……あれは、機構の中で具体化しているんですか」
「案の段階です。ですが、遠からず表に出ます」
鬼頭はあっさりと答えた。
「湊さん。あなたは値段を直した。私は、その先を考えるのも仕事でしてな。……値段が直ったのなら、次は場所です。人が住み、工場が建ち、子供が育つ場所。それをこの国は取り返さねばなりません」
反論する材料が、陽太にはなかった。
「日本の市場のこと、聞き及んでおります」
鬼頭が話題を変えた。
「先月、一度止まったとか」
「……ご存じでしたか」
「機構は全国の取引を見ておりますからな。尾道だけでなく、地方の市場の様子も入ってまいります」
鬼頭は湯呑みではなく、備え付けの水のグラスを手にしていた。
「値を揺らして稼ぐ者がいる。現物には一切触れず、値動きだけを商売にする連中が。……欧州でも北米でも、この数年で似たことが起きております」
「専務理事は、その連中をご存じですか」
「名前は聞いております」
あっさりとした答えだった。
「登記もない、本社もない。誰が呼び始めたか分からない通称だけがある。……値段が壊れる場所には、必ずその名前が囁かれるそうですな」
陽太は表情を変えなかった。だが、内心では警戒が跳ね上がっていた。
この老人は、アトラスを知っている。
「機構は、あの連中と接触されていますか」
単刀直入に聞いた。
鬼頭は、驚いた顔をした。それから、少しだけ笑った。
「湊さん。私を買いかぶりすぎです」
「と、いいますと」
「あの手の連中と、誰が接触できます。名乗りもしない、姿も見せない。連絡を取ろうにも、取る先がない。……仮に取れたとして、あれと組む理由が私にありますか」
「ないと仰る」
「ありません。私が守りたいのは、この国の秩序です。値段を壊して回る連中は、秩序の敵だ。……組む道理がない」
嘘の匂いはなかった。この老人は、本当に組んでいない。
陽太はそう判断した。判断した上で、次の言葉に打ちのめされた。
「ですがね、湊さん」
鬼頭は、グラスの水を静かに見つめた。
「あの連中がこの国の市場を揺らしてくださったおかげで、はっきりしたことがあります」
「……はっきりした」
「開かれた市場は、あのように壊されるということです」
鬼頭は顔を上げた。穏やかな目だった。
「あなたが作った市場は、実に美しい設計でした。台帳は公開され、基準も公開され、誰でも参加できる。……ですが、その開かれた設計が、そのまま弱点になった。安全装置の作動条件まで公開していたそうですな。狙い撃ちにされて当然でしょう」
「……」
「私は、あなたを責めておるのではありません。むしろ逆です。あなたの設計は正しかった。正しかったからこそ、正しいだけでは市場は守れないと、この国の全員が学んだのです」
陽太は、この老人の話がどこへ向かうのかを、既に理解していた。
「だから、強い管理者が要ると」
「そのとおりです」
鬼頭は頷いた。
「開かれた市場には、開かれているがゆえの脆さがある。その脆さを埋めるのは、市場自身ではない。外から守る者が要る。全国の網を持ち、いざというとき一日で動ける組織が。……先月の一件は、それを証明してくれました」
陽太は言葉を失った。
市場が壊されたという事実そのものが、この老人にとっては材料だった。攻撃されたことが、門番が必要だという論拠になる。
組んでいないのに、噛み合っている。
あの顔のない巨人が値を揺らせば揺らすほど、この老人の椅子は正当化されていく。連携ではない。だが、結果は連携と変わらない。
「専務理事。一つ伺わせてください」
陽太は静かに言った。
「あの連中が値を揺らすのを、機構は止めたいですか」
鬼頭は、少し考えるような間を置いた。
「止めたいですな。秩序の敵ですから」
「今すぐにでも」
「……そこは、順序の話でしょう」
初めて、答えに一拍の遅れがあった。
「守る仕組みを先に整えねばなりません。仕組みのないまま止めようとしても、止まりませんからな。……まずは器を作る。話はそれからです」
器を作るまでは、揺らされたままでいい。
その言葉の意味を、陽太は噛みしめた。この老人は、揺らす者を止めたいと言いながら、止める順序を後回しにしている。悪意ではない。段取りの話として、心からそう言っている。
その温度のなさに、陽太は微かな違和感を覚えた。だがその違和感の正体を、まだ言葉にできなかった。
◇ ◇ ◇
午後、規格の分科会が始まった。
陽太は用意した説明を、淡々と述べた。
「昨日の説明に、一点だけ補足させてください。瀬戸内等級規格の用途について、技術的な事実を申し上げます」
円卓が、資料をめくる音で満ちた。
「等級規格は、現物に等級を付ける仕組みです。判定の基準が公開され、判定の記録が残り、誰が測っても同じ結果が出る。……この仕組みが相互承認網として繋がれば、ある技術的な効果が生まれます」
陽太は資料の図を示した。
「等級印のある現物がいつどこで、誰から誰へ動いたか。その記録が国境を越えて追える。……つまり、現物の裏付けがある取引とない取引を、技術的に区別できるようになります」
円卓が、静かになった。
旧大陸の代表が、資料から顔を上げた。
「湊参考人。それは、共通原則の議論に関わる話ではありませんか」
「私は規格の技術説明の担当です」
陽太は答えた。
「規律に賛成とも反対とも申し上げません。ただ、この規格にはこういう用途がある、という技術的な事実を説明しております」
北米の代表が、資料を指で叩いた。
「議長。この論点は重要です。昨日の共通原則の分科会で、規律の対象をどう線引きするかが最大の争点になりました。……線が引けないという理由で、議論が止まっていた」
「線が引ける可能性があると」
「技術的には、そう聞こえます」
クローネが、議長席から円卓を見渡した。
銀縁の眼鏡の奥の目が、一瞬だけ陽太を見た。それは、この老紳士が二年前に見せたのと同じ、規格屋の目だった。
「議長として判断します」
クローネは告げた。
「本件の技術的な論点を、共通原則の分科会へ送付します。規格による現物追跡の可能性について、技術資料を添えて提出させます」
議事録に、その決定が記録された。
陽太は椅子に座ったまま、静かに息を吐いた。
発言権のない部屋に、論点だけを届けた。
◇ ◇ ◇
翌日の共通原則の分科会で、その資料が配られた。
陽太は傍聴席にいた。円卓では、日本代表団の席に鬼頭が座っている。
議長が、資料に言及した。
「規格分科会から、技術的な論点の送付がありました。等級規格の相互承認網により、現物の裏付けの有無を区別できる可能性があるとのことです」
旧大陸の代表が手を挙げた。
「これが可能なら、規律の設計は大きく変わります。市場の流動性を損なわずに、現物のない投機的取引だけを規律できる」
「日本の見解を伺いたい」
議長が日本代表団を指した。
「この技術は、日本の規格に基づくものです。日本は、この方向を支持しますか」
円卓の視線が、日本の席に集まった。
陽太は傍聴席で身を固くした。昨日、鬼頭は規律に慎重な立場を表明している。この技術を支持すれば、その立場と矛盾する。
鬼頭が、静かに立ち上がった。
「日本は、この方向を支持いたします」
陽太は目を見開いた。
「昨日、私どもは規律に慎重な立場を申し上げました。理由は、大雑把な網では良い資本まで逃がしてしまうからです。……ですが、精密な線引きが技術的に可能であるなら、話は別でございます」
鬼頭は円卓を見渡した。
「悪い魚だけを獲れる網があるなら、我々は喜んで賛成いたします。日本は、この技術的基盤の整備に全面的に協力する所存です」
円卓に、賛意の空気が広がった。
陽太は傍聴席で拳を握っていた。悔しさではなかった。ただ、来ると分かっていたものが来た、という感覚だった。
「そして、一点だけ申し添えます」
鬼頭が続けた。
「この技術を実際に運用するには、現物の流れを国境を越えて記録し続ける実務が必要です。日本国内においては、全国のダンジョンと素材の流れを把握している組織が、その実務を担うことになります」
議長が問うた。
「具体的には」
「日本探索者支援機構でございます」
陽太は目を閉じた。
自分が架けた橋の上を、この老人が先に渡っていく。
規格が線を引く。その線を実際に運用するのは誰か。国際の場で技術が認められれば認められるほど、その運用主体の椅子は重くなる。
賛成で場を支配する男。陽太にとっては四度目だった。
◇ ◇ ◇
会議は三日目で暫定的な結論を出した。
共通原則に、資源取引における金融取引の規律を盛り込む方向が固まった。現物の裏付けの有無による線引きを、技術的基盤として検討する。等級規格の相互承認網については、瀬戸内等級規格を基軸候補の一つとして継続協議とする。
日本にとっては前進だった。規律の方向が固まり、こちらの規格が国際の議題に残った。
だが、その運用を誰が担うかは、国内へ持ち帰られることになった。
閉会後、廊下でクローネに呼び止められた。
「湊さん。良い仕事でした」
硬質な日本語だった。
「あなたの規格は、まだ基軸ではありません。北米の懸念は残っております。基準器の件は、次までに宿題です」
「承知しています」
「ですが」
クローネは眼鏡を押し上げた。
「弱点を隠さない団体が、線引きの技術を持ち込んだ。この順序を、私は評価します。……隠す者の技術は、信用されませんのでな」
老紳士は一礼して去っていった。
陽太は窓の外を見た。異国の空が夕方の色になり始めている。
帰国すれば、規約改定の議決が待っている。戦略機構の中身の議論も、運用主体の争いも。基準器の宿題も。
そして、あの顔のない巨人が、まだ日本の市場にいる。
携帯が震えた。笹本からだった。
「湊社長。……妙な動きがあります」
「また仕掛けですか」
「いえ。逆です」
笹本の声には、困惑があった。
「今週に入ってから、あの参加者の取引が、ぱたりと止まりました。……一件も出ていません」
陽太は窓の外の空を見つめた。
撤退か。それとも、次の一手の準備か。
顔のない相手の沈黙が、何を意味するのか。それを読むには、まだ材料が足りなかった。