帰国した翌朝、陽太は取引所の会議室にいた。
机の上に、規約改定の議決書が置かれている。委員会が陽太の不在中に議決したものだった。
「二件とも可決しました」
藤岡が淡々と報告した。
「一つ。一定量を超える取引には、現物の受け渡しを義務づける。二つ。同一参加者による短時間の売買の繰り返しには、変動幅とは別の停止基準を当てる。……周知期間を経て、二十日後に施行します」
陽太は議決書に目を通した。
条文は、陽太が出した案から少し変わっていた。受け渡し義務の対象となる数量の基準が下げられ、代わりに小口の取引には例外規定が設けられている。地方市場の小さな出品者が巻き込まれないための配慮だった。
「基準を下げたのは」
「本田さんのご意見です。加工屋の立場から、大口だけ縛っても抜け道が残ると。……例外規定は羽山さんです。小口の探索者に受け渡しの手間を負わせるのは酷だと」
「……いい直しです」
陽太は正直に言った。自分の案より、確実に良くなっている。
「二十日後ですか」
「はい。それから、もう一件ご報告が」
藤岡は資料をめくった。
「例の参加者ですが。……取引が、完全に止まったままです。二週間、一件も出ていません」
陽太は顔を上げた。
◇ ◇ ◇
その日の午後、笹本と二人で数字を洗った。
「撤退でしょうか」
笹本が問うた。
「それなら楽ですが」
陽太は台帳の写しを繰った。
「笹本さん。あの参加者が抱えている玉は、まだ市場にありますか」
「あります。売った記録がありませんから」
笹本は数字を示した。
「先月の買い上げで積み上がった分が、そのまま残っています。……概算で、かなりの量です」
「その玉、いくらで買ったものですか」
「高値です。自分で吊り上げた値段で買っていますから」
「今の値段は」
「元の水準まで戻っています。……つまり」
笹本の顔が変わった。
「含み損を、抱えたままです」
陽太は椅子の背にもたれた。
絵が見えた。
相手は先月、こちらの実需買いに弾を使わせた後、一気に買い上げた。だが、誰も慌てなかった。異常な値段での売買がなければ、高値で買った玉を捌く機会がない。値は元に戻り、抱えた分だけが残った。
「出口を探してますね」
「探している、と」
「二週間動かなかったのは、静かにしていれば値が上がると期待したからでしょう。だが上がらなかった。……ここで問題になるのが、二十日後です」
陽太は議決書を指した。
「現物の受け渡しが義務になれば、あの玉を捌く道がさらに狭くなる。値段だけで転がして誰かに押し付ける、という手が使えなくなります」
「では、施行前に」
「動きます。必ず」
陽太は言い切った。
「施行日の前に、抱えた玉を全部処分しにくる。……今度は買い上げじゃない。投げ売りです」
笹本が息を呑んだ。
「値が、急落しますね」
「します。相当な量ですから」
「防げますか」
「防ぎません」
陽太は静かに言った。
「受けます」
「受ける」
「向こうが投げるなら、こっちは買う。うちが使う分を、下がった値段で買わせてもらう。……相手が損切りしたい玉を、こっちは実際に使うために引き取る。それだけの話です」
笹本はしばらく黙り、それから小さく笑った。
「湊社長。それは、相場の言葉で何と言うんですか」
「言葉はありません」
陽太も笑った。
「相場じゃないからです。ただの仕入れですよ」
◇ ◇ ◇
施行の三日前だった。
朝の開場から、上位魔石と甲殻に大量の売りが出た。刻みが荒く、値段を選ばずに投げてくる。値が真下に落ちた。
「来ました。……売り、大量です」
笹本が読み上げる。運営室の空気が張り詰めた。
「掲示を」
委員会の名で、場内に判定が掲示された。回転が異常、他市場は動いていない、現物が動いていない。三つの基準に該当。市場外の要因と判定する。
だが今日は、掲示だけでは終わらなかった。
「湊さん」
羽山が運営室に上がってきた。
「うちの連中から伝言です。……今日はどうすりゃいいのか、って聞いてます」
「好きにしていい」
「へ?」
「売りたい奴は売っていい。待ちたい奴は待てばいい。今日は縛りません」
羽山が目を丸くした。
「前は売るなって言ったじゃないっすか」
「あのときは、慌てて売ると向こうの得になった。今日は違います」
陽太は画面を指した。
「この売りは、向こうが手を引くための投げです。こっちが売っても待っても、あいつらの儲けにはならない。……戦いは終わりました」
「じゃあ、本当に自由に」
「そうです。判断の材料は全部掲示に出てます。この値が需給じゃないことも、なぜ下がっているかも」
陽太は羽山を見た。
「あとは、それぞれが決めることです。俺が指図する話じゃない」
羽山はしばらく陽太を見て、それから頷いた。
「……そう伝えます。腹立つくらい、らしい答えっすね」
羽山が階段を駆け降りていく。
同時に、ウォーター・ベインの購買部が動いた。実需の買い付けである。塗料の原料になる甲殻。工場で使う魔石。使う予定のある分を、下がった値段で拾っていく。
値の下落が、鈍り始めた。
「他市場からも買いが入っています」
笹本が報告した。
「仙台に札幌、名古屋と福岡。……四市場の加工業者が、相対でこちらの出品を拾いにきています」
陽太は画面を見つめた。
二十市場を繋いだ仕組み。中心も事務局も置かなかったあの設計を通じて、値と在庫は全ての市場に見えている。この値段が不当に安いことは、掲示を見れば誰にでも分かる。
安く買える。しかも、買えば市場が助かる。
その二つが重なったとき、人は動く。
値は下げ止まり、じりじりと戻り始めた。
「戻っています。……向こう、まだ投げていますが」
「投げるでしょう。全部処分するまでは」
陽太は言った。
「だが、投げれば投げるだけ、こっちが安く仕入れられる。……向こうにとっては、最悪の出口です」
午後の遅い時間まで、売りは続いた。
そして、止まった。
その日の終値は、朝の水準をわずかに下回る程度で落ち着いた。急落は、一日で吸収された。
◇ ◇ ◇
翌週、一人の男が尾道を訪ねてきた。
受付から連絡を受けた笹本が、応接室の名刺を見て、珍しく声を上げた。
「……この人、私の後輩です」
「後輩」
「証券会社時代の。十年ほど下の男です。……まさか」
応接室に入ってきたのは、四十前後の男だった。仕立ての良い背広を着て、革の鞄を提げている。笹本の顔を見ると、少しばつが悪そうに頭を下げた。
「笹本さん。ご無沙汰しております」
「……お前、今どこにいるんだ」
「独立して、法務と財務の代理業をやっております。海外の顧客が多いもので」
男は陽太に名刺を差し出した。個人事務所の名前だけが刷られている。
「湊社長。本日は、当方の顧客の代理として参りました。取引参加者の登録抹消の手続きです」
陽太は名刺を受け取った。
「顧客の名前を、伺っても」
「申し上げられません。契約上の守秘義務です」
男は淀みなく答えた。
「ただ、手続きに必要な範囲では開示いたします。参加者番号、登録名義、決済口座。……全て書類に記載してあります」
男は鞄から書類を出し、机に並べた。整然としていた。不備は一つもない。
「顧客からの伝言は」
「ありません」
「一言も」
「一言もです」
男は正直に言った。
「湊社長。誤解のないよう申し上げます。私は、顧客の担当者と一度も会っておりません。連絡は文書と回線のみです。……先方の担当者が何人いるのか、どこにいるのか、私も知りません」
「あなたも、知らない」
「知りません。指示は届きます。手続きの内容と、期限と報酬。それだけです」
陽太は書類に目を落とした。
顔がない。代理人にすら、顔が見えていない。
「一つ、伺わせてください」
陽太は言った。
「顧客が、この市場から撤退する理由を、あなたはご存じですか」
「推測でよろしければ」
「どうぞ」
「割に合わなくなったからでしょう」
男はあっさりと言った。
「私の仕事は、この手の顧客の手続きを何件も扱ってきました。どの顧客も、撤退の理由は同じです。恨みも執着もありません。……計算が合わなくなったら、その日のうちに手を引く。それだけです」
「怒ってはいませんか」
「怒る主体がありません」
男は言った。
「あれは人ではありませんから。……いや、正確には、始まりは人が作った仕組みです。ですが、既に人の手を離れていると言っていいでしょう」
笹本が、口を挟んだ。
「お前、それでいいのか」
男は少し困った顔をした。
「笹本さん。私にも家族がおります」
「……そうか」
「それに、私がやっているのは合法な手続きの代理です。書類を作り、期限を守り、報酬を受け取る。……悪いことはしておりません」
誰も反論しなかった。事実、この男は何も悪いことをしていない。
書類の確認が終わり、男は立ち上がった。
「本日はありがとうございました。……笹本さん、お元気そうで何よりです」
「お前も、体は大事にしろよ」
男は一礼して出ていった。
応接室に、書類だけが残った。
◇ ◇ ◇
その夜、陽太は一人で競り場を見下ろしていた。
閉場後の場内は静まり返っている。今日も一日、値が付き、素材が動いた。何事もなかったかのように。
勝った実感がなかった。
相手は敗北していない。損切りをして、次の獲物へ移っただけだ。恨みもなければ、悔しさもない。あの顔のない何かにとって、この市場は数ある狩り場の一つでしかなかった。
こちらが失ったものは、確かにある。市場は一度止まり、地方の市場は出品が落ち、加工屋は高値を掴んだ。誰かの一ヶ月の実入りが削られた。
それでも、この市場は生きている。
(何が勝たせたのか)
陽太は考えた。
資金ではない。相手の桁には遠く及ばなかった。在庫でもない。二度目の高騰では弾が尽きた。仕組みでもない。規約改定は、まだ施行前だった。
答えは、はっきりしていた。
人だった。
高く売れる日に、掲示を見て売るのをやめた探索者。焦る気持ちを掲示を見て買いを止めた加工屋。頼まれもしないのに在庫を回してきた四つの市場。手順を渡しただけで持ちこたえた笹本。基準を実務に合わせて直した本田と羽山。
そして今日、縛りのない日に、それぞれが自分で決めた探索者たち。売った者もいれば、待った者もいた。どちらも自分の判断だった。
全員に顔があった。
名前があり、暮らしがあり、それぞれの事情があった。だから、それぞれの判断で動いた。
顔のない相手には、それができない。
あの仕組みは、市場を数字としか見ていない。数字が動けば人が慌てると計算する。その計算は、たいてい正しい。だが計算が外れたとき、あれには打つ手がない。仕組みには、頼れる知り合いがいないからだ。
(信用ってのは、こういうことか)
陽太は暗い競り場を見下ろした。
台帳を公開し、基準を公開し、誤りまで記録に残す。あれは信用を作るための手順だと思っていた。だが違った。手順は入口にすぎない。
公開された情報を見て、それぞれが自分で判断する。判断した結果、誰かのために動くこともある。その積み重ねが、人と人の間に残る。
残ったものが信用だった。
顔のない資本は、信用を買えない。作ることもできない。だから、信用のある市場では割に合わなくなる。
開いていたから狙われた。それは事実だ。
だが、開いていたから、助けてもらえた。
同じ一つのことだった。
「陽太」
背後から声がした。凪が階段を上がってきていた。
「藤岡先生から連絡。施行日、予定どおりだって」
「そうか」
「……何見てるの」
「明日の競り台」
陽太は答えた。
「明日も、ちゃんと鐘が鳴る」
凪は隣に立って、しばらく同じ方を見ていた。
「終わったのね。あの相手とは」
「ああ」
「じゃあ、次ね」
凪の声が、少しだけ硬くなった。
「戦略機構の中身の議論、来週から本格化するって鷹司さんから。……運用主体をどうするかで、揉めるわ」
陽太は暗い競り場から目を上げた。
顔のない相手は去った。だが、まだ一人残っている。
全国の網を持ち、四年以上の実績を持ち、この国の秩序を守ると心から信じている老人。国土を取り戻す構想を語り、その大事業を統べる椅子に座ろうとしている男。
あの相手には、顔がある。
顔があるからこそ、始末が悪かった。