IR情報で読み解くダンジョン経済学   作:カトーユキヒロ

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第16話:損切り

 帰国した翌朝、陽太は取引所の会議室にいた。

 

 机の上に、規約改定の議決書が置かれている。委員会が陽太の不在中に議決したものだった。

 

「二件とも可決しました」

 

 藤岡が淡々と報告した。

 

「一つ。一定量を超える取引には、現物の受け渡しを義務づける。二つ。同一参加者による短時間の売買の繰り返しには、変動幅とは別の停止基準を当てる。……周知期間を経て、二十日後に施行します」

 

 陽太は議決書に目を通した。

 

 条文は、陽太が出した案から少し変わっていた。受け渡し義務の対象となる数量の基準が下げられ、代わりに小口の取引には例外規定が設けられている。地方市場の小さな出品者が巻き込まれないための配慮だった。

 

「基準を下げたのは」

 

「本田さんのご意見です。加工屋の立場から、大口だけ縛っても抜け道が残ると。……例外規定は羽山さんです。小口の探索者に受け渡しの手間を負わせるのは酷だと」

 

「……いい直しです」

 

 陽太は正直に言った。自分の案より、確実に良くなっている。

 

「二十日後ですか」

 

「はい。それから、もう一件ご報告が」

 

 藤岡は資料をめくった。

 

「例の参加者ですが。……取引が、完全に止まったままです。二週間、一件も出ていません」

 

 陽太は顔を上げた。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 その日の午後、笹本と二人で数字を洗った。

 

「撤退でしょうか」

 

 笹本が問うた。

 

「それなら楽ですが」

 

 陽太は台帳の写しを繰った。

 

「笹本さん。あの参加者が抱えている玉は、まだ市場にありますか」

 

「あります。売った記録がありませんから」

 

 笹本は数字を示した。

 

「先月の買い上げで積み上がった分が、そのまま残っています。……概算で、かなりの量です」

 

「その玉、いくらで買ったものですか」

 

「高値です。自分で吊り上げた値段で買っていますから」

 

「今の値段は」

 

「元の水準まで戻っています。……つまり」

 

 笹本の顔が変わった。

 

「含み損を、抱えたままです」

 

 陽太は椅子の背にもたれた。

 

 絵が見えた。

 

 相手は先月、こちらの実需買いに弾を使わせた後、一気に買い上げた。だが、誰も慌てなかった。異常な値段での売買がなければ、高値で買った玉を捌く機会がない。値は元に戻り、抱えた分だけが残った。

 

「出口を探してますね」

 

「探している、と」

 

「二週間動かなかったのは、静かにしていれば値が上がると期待したからでしょう。だが上がらなかった。……ここで問題になるのが、二十日後です」

 

 陽太は議決書を指した。

 

「現物の受け渡しが義務になれば、あの玉を捌く道がさらに狭くなる。値段だけで転がして誰かに押し付ける、という手が使えなくなります」

 

「では、施行前に」

 

「動きます。必ず」

 

 陽太は言い切った。

 

「施行日の前に、抱えた玉を全部処分しにくる。……今度は買い上げじゃない。投げ売りです」

 

 笹本が息を呑んだ。

 

「値が、急落しますね」

 

「します。相当な量ですから」

 

「防げますか」

 

「防ぎません」

 

 陽太は静かに言った。

 

「受けます」

 

「受ける」

 

「向こうが投げるなら、こっちは買う。うちが使う分を、下がった値段で買わせてもらう。……相手が損切りしたい玉を、こっちは実際に使うために引き取る。それだけの話です」

 

 笹本はしばらく黙り、それから小さく笑った。

 

「湊社長。それは、相場の言葉で何と言うんですか」

 

「言葉はありません」

 

 陽太も笑った。

 

「相場じゃないからです。ただの仕入れですよ」

 

 ◇ ◇ ◇

 

 施行の三日前だった。

 

 朝の開場から、上位魔石と甲殻に大量の売りが出た。刻みが荒く、値段を選ばずに投げてくる。値が真下に落ちた。

 

「来ました。……売り、大量です」

 

 笹本が読み上げる。運営室の空気が張り詰めた。

 

「掲示を」

 

 委員会の名で、場内に判定が掲示された。回転が異常、他市場は動いていない、現物が動いていない。三つの基準に該当。市場外の要因と判定する。

 

 だが今日は、掲示だけでは終わらなかった。

 

「湊さん」

 

 羽山が運営室に上がってきた。

 

「うちの連中から伝言です。……今日はどうすりゃいいのか、って聞いてます」

 

「好きにしていい」

 

「へ?」

 

「売りたい奴は売っていい。待ちたい奴は待てばいい。今日は縛りません」

 

 羽山が目を丸くした。

 

「前は売るなって言ったじゃないっすか」

 

「あのときは、慌てて売ると向こうの得になった。今日は違います」

 

 陽太は画面を指した。

 

「この売りは、向こうが手を引くための投げです。こっちが売っても待っても、あいつらの儲けにはならない。……戦いは終わりました」

 

「じゃあ、本当に自由に」

 

「そうです。判断の材料は全部掲示に出てます。この値が需給じゃないことも、なぜ下がっているかも」

 

 陽太は羽山を見た。

 

「あとは、それぞれが決めることです。俺が指図する話じゃない」

 

 羽山はしばらく陽太を見て、それから頷いた。

 

「……そう伝えます。腹立つくらい、らしい答えっすね」

 

 羽山が階段を駆け降りていく。

 

 同時に、ウォーター・ベインの購買部が動いた。実需の買い付けである。塗料の原料になる甲殻。工場で使う魔石。使う予定のある分を、下がった値段で拾っていく。

 

 値の下落が、鈍り始めた。

 

「他市場からも買いが入っています」

 

 笹本が報告した。

 

「仙台に札幌、名古屋と福岡。……四市場の加工業者が、相対でこちらの出品を拾いにきています」

 

 陽太は画面を見つめた。

 

 二十市場を繋いだ仕組み。中心も事務局も置かなかったあの設計を通じて、値と在庫は全ての市場に見えている。この値段が不当に安いことは、掲示を見れば誰にでも分かる。

 

 安く買える。しかも、買えば市場が助かる。

 

 その二つが重なったとき、人は動く。

 

 値は下げ止まり、じりじりと戻り始めた。

 

「戻っています。……向こう、まだ投げていますが」

 

「投げるでしょう。全部処分するまでは」

 

 陽太は言った。

 

「だが、投げれば投げるだけ、こっちが安く仕入れられる。……向こうにとっては、最悪の出口です」

 

 午後の遅い時間まで、売りは続いた。

 

 そして、止まった。

 

 その日の終値は、朝の水準をわずかに下回る程度で落ち着いた。急落は、一日で吸収された。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 翌週、一人の男が尾道を訪ねてきた。

 

 受付から連絡を受けた笹本が、応接室の名刺を見て、珍しく声を上げた。

 

「……この人、私の後輩です」

 

「後輩」

 

「証券会社時代の。十年ほど下の男です。……まさか」

 

 応接室に入ってきたのは、四十前後の男だった。仕立ての良い背広を着て、革の鞄を提げている。笹本の顔を見ると、少しばつが悪そうに頭を下げた。

 

「笹本さん。ご無沙汰しております」

 

「……お前、今どこにいるんだ」

 

「独立して、法務と財務の代理業をやっております。海外の顧客が多いもので」

 

 男は陽太に名刺を差し出した。個人事務所の名前だけが刷られている。

 

「湊社長。本日は、当方の顧客の代理として参りました。取引参加者の登録抹消の手続きです」

 

 陽太は名刺を受け取った。

 

「顧客の名前を、伺っても」

 

「申し上げられません。契約上の守秘義務です」

 

 男は淀みなく答えた。

 

「ただ、手続きに必要な範囲では開示いたします。参加者番号、登録名義、決済口座。……全て書類に記載してあります」

 

 男は鞄から書類を出し、机に並べた。整然としていた。不備は一つもない。

 

「顧客からの伝言は」

 

「ありません」

 

「一言も」

 

「一言もです」

 

 男は正直に言った。

 

「湊社長。誤解のないよう申し上げます。私は、顧客の担当者と一度も会っておりません。連絡は文書と回線のみです。……先方の担当者が何人いるのか、どこにいるのか、私も知りません」

 

「あなたも、知らない」

 

「知りません。指示は届きます。手続きの内容と、期限と報酬。それだけです」

 

 陽太は書類に目を落とした。

 

 顔がない。代理人にすら、顔が見えていない。

 

「一つ、伺わせてください」

 

 陽太は言った。

 

「顧客が、この市場から撤退する理由を、あなたはご存じですか」

 

「推測でよろしければ」

 

「どうぞ」

 

「割に合わなくなったからでしょう」

 

 男はあっさりと言った。

 

「私の仕事は、この手の顧客の手続きを何件も扱ってきました。どの顧客も、撤退の理由は同じです。恨みも執着もありません。……計算が合わなくなったら、その日のうちに手を引く。それだけです」

 

「怒ってはいませんか」

 

「怒る主体がありません」

 

 男は言った。

 

「あれは人ではありませんから。……いや、正確には、始まりは人が作った仕組みです。ですが、既に人の手を離れていると言っていいでしょう」

 

 笹本が、口を挟んだ。

 

「お前、それでいいのか」

 

 男は少し困った顔をした。

 

「笹本さん。私にも家族がおります」

 

「……そうか」

 

「それに、私がやっているのは合法な手続きの代理です。書類を作り、期限を守り、報酬を受け取る。……悪いことはしておりません」

 

 誰も反論しなかった。事実、この男は何も悪いことをしていない。

 

 書類の確認が終わり、男は立ち上がった。

 

「本日はありがとうございました。……笹本さん、お元気そうで何よりです」

 

「お前も、体は大事にしろよ」

 

 男は一礼して出ていった。

 

 応接室に、書類だけが残った。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 その夜、陽太は一人で競り場を見下ろしていた。

 

 閉場後の場内は静まり返っている。今日も一日、値が付き、素材が動いた。何事もなかったかのように。

 

 勝った実感がなかった。

 

 相手は敗北していない。損切りをして、次の獲物へ移っただけだ。恨みもなければ、悔しさもない。あの顔のない何かにとって、この市場は数ある狩り場の一つでしかなかった。

 

 こちらが失ったものは、確かにある。市場は一度止まり、地方の市場は出品が落ち、加工屋は高値を掴んだ。誰かの一ヶ月の実入りが削られた。

 

 それでも、この市場は生きている。

 

(何が勝たせたのか)

 

 陽太は考えた。

 

 資金ではない。相手の桁には遠く及ばなかった。在庫でもない。二度目の高騰では弾が尽きた。仕組みでもない。規約改定は、まだ施行前だった。

 

 答えは、はっきりしていた。

 

 人だった。

 

 高く売れる日に、掲示を見て売るのをやめた探索者。焦る気持ちを掲示を見て買いを止めた加工屋。頼まれもしないのに在庫を回してきた四つの市場。手順を渡しただけで持ちこたえた笹本。基準を実務に合わせて直した本田と羽山。

 

 そして今日、縛りのない日に、それぞれが自分で決めた探索者たち。売った者もいれば、待った者もいた。どちらも自分の判断だった。

 

 全員に顔があった。

 

 名前があり、暮らしがあり、それぞれの事情があった。だから、それぞれの判断で動いた。

 

 顔のない相手には、それができない。

 

 あの仕組みは、市場を数字としか見ていない。数字が動けば人が慌てると計算する。その計算は、たいてい正しい。だが計算が外れたとき、あれには打つ手がない。仕組みには、頼れる知り合いがいないからだ。

 

(信用ってのは、こういうことか)

 

 陽太は暗い競り場を見下ろした。

 

 台帳を公開し、基準を公開し、誤りまで記録に残す。あれは信用を作るための手順だと思っていた。だが違った。手順は入口にすぎない。

 

 公開された情報を見て、それぞれが自分で判断する。判断した結果、誰かのために動くこともある。その積み重ねが、人と人の間に残る。

 

 残ったものが信用だった。

 

 顔のない資本は、信用を買えない。作ることもできない。だから、信用のある市場では割に合わなくなる。

 

 開いていたから狙われた。それは事実だ。

 

 だが、開いていたから、助けてもらえた。

 

 同じ一つのことだった。

 

「陽太」

 

 背後から声がした。凪が階段を上がってきていた。

 

「藤岡先生から連絡。施行日、予定どおりだって」

 

「そうか」

 

「……何見てるの」

 

「明日の競り台」

 

 陽太は答えた。

 

「明日も、ちゃんと鐘が鳴る」

 

 凪は隣に立って、しばらく同じ方を見ていた。

 

「終わったのね。あの相手とは」

 

「ああ」

 

「じゃあ、次ね」

 

 凪の声が、少しだけ硬くなった。

 

「戦略機構の中身の議論、来週から本格化するって鷹司さんから。……運用主体をどうするかで、揉めるわ」

 

 陽太は暗い競り場から目を上げた。

 

 顔のない相手は去った。だが、まだ一人残っている。

 

 全国の網を持ち、四年以上の実績を持ち、この国の秩序を守ると心から信じている老人。国土を取り戻す構想を語り、その大事業を統べる椅子に座ろうとしている男。

 

 あの相手には、顔がある。

 

 顔があるからこそ、始末が悪かった。

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