戦略機構の設計を詰める会議は、霞が関の一室で開かれた。
委員の構成、権限の範囲、予算の三本足。特措法の改正案に盛り込む条文は、大枠が固まりつつあった。
残っていたのは、一つだけだった。
「実務をどこが担うか」
議長役の局長が論点を読み上げた。
「国際会議で、等級規格による現物追跡の技術的基盤が認められました。これを国内で運用するには、全国の素材の流れを日々把握する実務が要ります。……この実務を、誰がやるのか」
円卓に、鬼頭が座っていた。
陽太は参考人席にいる。今日は発言が認められていた。
「機構の考えを申し上げます」
鬼頭が口を開いた。
「現物追跡の実務とは、要するにこういうことでございます。誰がどのダンジョンでいつ何を獲ったか。どの窓口を経てどの市場に出て、どこへ運ばれたか。……これを一件ずつ記録し続ける作業です」
鬼頭は資料を示さなかった。数字が全部頭に入っている。
「全国のダンジョンは千を超えると言われています。登録探索者は四十万人と少し。日々発生する取引は、数十万件にも上ります。……これを漏らさず記録するには、全国に人を置くしかありません」
「機構は、それを持っていると」
「持っております。支部は全国百二十ヶ所。窓口の職員は、およそ三千人。……四年以上、毎日この記録を取り続けてまいりました」
委員たちが頷いた。
「湊参考人の御提案は、中立の器に実務を持たせるというものと承知しております。理念は立派です。ですが、失礼を承知で申し上げれば」
鬼頭は陽太の方を見た。穏やかな目だった。
「三千人をどこから連れてくるのですか」
場が静まった。
陽太は答えられなかった。それが、こちらの最大の穴だった。
◇ ◇ ◇
その夜、尾道に戻った陽太は、笹本と藤岡を交えて数字を洗った。
「三千人は無理です」
笹本が最初に結論を言った。
「仮に今から採用を始めたとして、募集から選考、研修となると……。全国百二十ヶ所に配置するまで、どんなに急いでも三年はかかります。予算も、初年度だけで数十億」
「二十市場の連携では」
「賄えません」
藤岡が首を振った。
「うちの取引所の事務局は、全部で四十人です。二十市場を合わせても、五百人に届かない。しかも、皆それぞれの市場の運営で手一杯です」
陽太はホワイトボードを睨んだ。
設計は正しい。中立の器に実務を持たせ、誰か一人が握れない形にする。国際会議で認められた技術も、こちらの規格が基盤だ。
だが、動かす人がいない。
(また同じか)
藤岡に言われた言葉を思い出す。実物には勝てない。あのときは、二十市場を繋ぐ仕組みを動かして見せることで越えた。
今度の壁は、その何十倍も高かった。
「湊さん。一つだけ、確認させてください」
藤岡が慎重に口を開いた。
「機構が実務を担うことは、そんなに悪いことでしょうか」
陽太は顔を上げた。
「あの組織は、確かに四年間、記録を取り続けてきました。窓口の職員は、実際に探索者の顔を見て、素材を受け取ってきた。……実務の能力という点では、日本で最も優れています」
「そのとおりです」
「では、何が問題なのですか」
藤岡の目は、試すものではなかった。純粋な問いだった。
「記録を握る者が、判断も握ることです」
陽太は答えた。
「現物追跡の記録は、どの取引が正当でどれが怪しいかを決める材料になります。その記録を作る組織が、同時に見張り役も務めれば、記録の作り方一つで結論を動かせる。……秤を作る人間と秤で測る人間、測った結果を判定する人間が、全部同じになります」
藤岡が、ゆっくりと頷いた。
「四年前の査定場と同じ構図ですね」
「同じです。あのときは値段でした。今度は記録です」
陽太はマーカーを置いた。
「実務の能力は要ります。それは認めます。……ですが、能力があるから全部任せるという話にはならない」
「ですが、三千人は」
「そこです」
陽太はホワイトボードを見つめた。
三千人。全国百二十ヶ所。四年分の実務経験。
その全部が、機構という組織の中にある。
(組織の中にある)
その言い方が、陽太の中で引っかかった。
◇ ◇ ◇
三日後、栗山が社長室を訪ねてきた。
いつもより表情が硬い。差し出された封筒は、前より厚かった。
「査定場の者からです。……今度は、七人全員の名前が入っております」
陽太は封を切った。
便箋が何枚も入っていた。文字はそれぞれ違う。七人が順に書き継いだものだった。
内容は、国際窓口業務への組み替えの現状だった。
研修が始まった。英語の書類の書き方、通関の手続き、海外の買い手との応対。慣れない業務に手間取り、残業が増えている。一方で、これまでの窓口業務は縮小されつつある。探索者からの素材の受け取りは、簡素な受付だけになった。
最後の一枚に、こう書かれていた。
俺たちは、探索者の顔を見て判を押す仕事がしたい。海の向こうの買い手の世話をしたいわけじゃない。だが、上に言っても、これが国際化だと言われるだけだ。
「……全国で、同じことが起きているんでしょうか」
陽太は問うた。
「起きております」
栗山は静かに答えた。
「私のところにも、他の支部の者から話が入ってまいります。皆、同じことを言っております。……自分たちがやってきた仕事が、何か別のものに変えられていくと」
「辞める人は」
「出ております。この半年で、私の知る範囲だけでも十数人」
栗山は少し声を落とした。
「あの者たちは、決して清廉潔白で優秀な役人というわけではありません。私も含め、歪んだ秤に判を押し続けた人間です。……ですが、探索者の顔だけは、四年間ずっと見てきました。誰がどんな素材を持ち込むか、この人は今月苦しいのか、この品は無理をして獲ってきたのか。……それが分かる目を、持っております」
陽太は便箋を見つめた。
七人の字。全国三千人のうちの、たった七人。
だがその七人が、記録を取り続けてきた人間だった。国際会議で技術的基盤として認められたあの追跡を、実際に担える手だった。
そして、その手は今、別の仕事へ回されようとしている。
(人は組織のものじゃない)
陽太の中で、何かが繋がった。
三千人は、機構という組織の中にある。だが、その三千人は機構の持ち物ではない。一人ひとりに名前があり、選ぶ権利がある。
実務部隊をゼロから作る必要は、なかった。
◇ ◇ ◇
その夜、陽太は凪を呼んだ。
「設計を変える」
ホワイトボードに、新しい図を描く。
「戦略機構の実務を担う人を、ゼロから採用するんじゃない。……機構の職員が、本人の意思で戦略機構へ移れる道を作る」
凪の眉が動いた。
「出向と、移籍ね」
「そうだ。戦略機構の職員定数を確保した上で、機構からの出向と移籍の両方を制度として置く。出向なら籍を残したまま数年、移籍なら完全に移る。……本人が選ぶ」
「人数は」
「三千人は要らない。実務を回すのに必要な人数を精査すれば、初年度は数百人で足りるはずだ。全国百二十ヶ所を全部押さえる必要はない。記録の入口だけ押さえればいい」
「経験のある人が、数百人来てくれれば」
「実務は回る」
陽太は言い切った。
凪はしばらく図を見ていた。それから、静かに言った。
「陽太。これ、危ない一手よ」
「分かってる」
「機構から見れば、引き抜きに見える。あなたが機構の職員を引き剥がして、自分の側の組織を作ろうとしていると取られる。……第二のギルドどころか、今度は乗っ取りだと書かれるわ」
「そうならない設計にする」
陽太はホワイトボードに条件を書き足した。
「一つ。募集は戦略機構が公募の形で行う。特定の職員に声をかけない。二つ。出向の場合、機構との協議と同意を前提にする。三つ。移籍した職員の処遇は、機構在籍時の勤続を通算する。……不利益を作らない」
「三つ目は大きいわね。退職金も年金も繋がる」
「移ることが罰にならないようにする。それが要点だ」
凪はペンを取り、条文の形に落とし始めた。
「もう一つ、条件を足すべきね」
「なんだ」
「戻れるようにすること」
凪は書きながら言った。
「出向した人が、期間が終わったら機構に戻れる。移籍した人も、後で機構の採用に応募できる。……片道切符にしたら、誰も手を挙げないわ。家族がいる人ほど」
陽太は頷いた。
「入れよう。……戻る道があるなら、出る決心もつく」
二人はしばらく黙って図を見ていた。
「ねえ、陽太」
凪が口を開いた。
「これ、うまくいったらどうなると思う」
「実務が回る」
「それだけじゃないでしょう」
凪は陽太を見た。
「機構の職員が、自分の意思で移る先を選べるようになる。……あの組織の中の人たちが、初めて、上から降ってきた指示以外の選択肢を持つのよ」
陽太は図を見つめた。
そのとおりだった。四年間、あの窓口の人々は、上が決めて下に降りてくる世界で生きてきた。歪んだ秤に判を押せと言われれば押し、国際窓口をやれと言われればやる。
その人たちが、初めて選べるようになる。
「……そうだな」
「気づいてなかったの」
「いや」
陽太は正直に言った。
「気づいてはいた。だが、そっちを目的にするのは違う気がしてる」
「どうして」
「人を動かすための道具として、選択肢を配るのは、結局あの人たちを駒扱いすることだ」
陽太はマーカーを置いた。
「必要な実務のために、経験のある人に来てもらう。来るかどうかは本人が決める。……それ以上のことを、こっちが期待しちゃいけない」
◇ ◇ ◇
一週間後、陽太は東京へ発った。
機構の本部に、面会を申し込んでいた。相手は専務理事である。
通された応接室は、広島の本部より広く、そして静かだった。
鬼頭は、いつもの穏やかさで迎えた。
「湊さん。わざわざお越しいただくとは」
「先に、お伝えしておくべきだと思いまして」
陽太は資料を差し出した。
戦略機構の実務体制に関する提案。出向と移籍の制度設計。公募の方式。処遇の通算。復帰の道。
鬼頭は、ゆっくりと目を通した。
読み終えるまで、何も言わなかった。
「……なるほど」
顔を上げた鬼頭の表情は、変わっていなかった。
「これを、私に先に見せられる理由を、伺ってもよろしいですか」
「四度、後から取られましたので」
陽太は正直に言った。
「国の委員会でも共同提案でも、代表団でも国際会議でも。俺が何かを出すと、専務理事は必ず賛成された上で、こちらの旗を持って行かれた」
「……人聞きの悪い」
鬼頭は困ったように笑った。
「良いものには賛成する。それだけのことでございますよ」
「そうでしょうね。だから先に出します」
陽太は資料を指した。
「この案を、隠して進めることもできました。公募が始まってから機構が気づく、という形にすることもできた。……ですが、それをやると、これは引き抜きになります」
「引き抜きではないと」
「制度です。人が、自分の意思で働く場所を選べる制度。……機構と対立するつもりはありません。処遇も通算しますし、戻る道も残します。ご意見があれば、条文に反映します」
鬼頭はしばらく資料を見ていた。
その沈黙が、いつもより長かった。
「湊さん。一つだけ、確認させてください」
「どうぞ」
「この制度で、機構の職員のうち何人が手を挙げると、お考えですか」
「分かりません」
陽太は即答した。
「一人も来ないかもしれない。それは、本人たちが決めることです」
鬼頭の指が、資料の上で止まった。
ほんの一瞬だった。だが、確かに止まった。
「……本人たちが、決める」
「はい」
「なるほど」
鬼頭は資料を閉じた。
「よく分かりました。この案には、私は反対いたしません」
「……そうですか」
「良いものには賛成すると、申し上げたばかりです」
鬼頭は微笑んだ。いつもの穏やかな笑みだった。
だが陽太は、その笑みに初めて、わずかな遅れを感じた。差し出すべき条件が、すぐには出てこなかった顔だった。
「湊さん。一つ、お伺いしてもよろしいですか」
立ち上がりかけた陽太に、鬼頭が言った。
「あなたは、木というものは誰のものだとお考えですか」
陽太は動きを止めた。
同じ問いを、以前どこかで聞いた気がした。
「木は」
陽太は答えた。
「誰のものでもありません。土から生えて、勝手に伸びるだけです」
鬼頭は、何も言わなかった。
ただ、静かに頷いた。