IR情報で読み解くダンジョン経済学   作:カトーユキヒロ

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第18話:手を挙げる

 特措法の改正案が成立したのは、秋の初めだった。

 

 日本ダンジョン戦略機構の設置。委員の構成、権限の範囲、予算の三本足。そして、実務を担う職員の確保に関する規定。

 

 出向と移籍の制度は、条文にそのまま入った。公募による募集、機構在籍時の勤続の通算、期間満了後の復帰の道。凪が書いた条文は、一字も削られなかった。

 

「公募、明日からです」

 

 笹本が資料を置いた。

 

「戦略機構の名で、全国に告知が出ます。応募期間は一ヶ月」

 

「こちらからは、何もしません」

 

 陽太は確認した。

 

「特定の職員に声をかけない。支部を回って説明もしない。……条件として自分で置いたものです」

 

「分かっております。……ですが湊社長、正直に申し上げてよろしいですか」

 

 笹本は資料をめくった。

 

「実務を回すには、初年度で最低二百人が必要です。この人数が集まらなければ、記録の入口を押さえられません。……その場合、実務は機構に委託せざるを得なくなります」

 

「そうなりますね」

 

「二百人。……三千人のうちの二百人です。数字だけ見れば、七%にも届かない」

 

 笹本の声には、珍しく不安があった。

 

「ですが、あの組織で働いている方々にとって、公募に応じるのは簡単な話ではないかと」

 

 陽太は窓の外を見た。

 

 そのとおりだった。手を挙げるというのは、この場合、上司の前で自分の意思を示すことになる。四年間、上が決めて下に降りてくる世界で働いてきた人々にとって、それがどれほどのことか。

 

「待ちます」

 

 陽太は言った。

 

「こちらにできるのは、それだけです」

 

 ◇ ◇ ◇

 

 公募が始まって十日、応募はゼロだった。

 

 その頃、栗山の耳には全国の支部の話が入ってきていた。

 

 どの支部でも、告知は掲示板に貼られていた。誰もが読んでいた。休憩室では話題にもなっていた。

 

 だが、誰も手を挙げなかった。

 

「怖いんでございます」

 

 栗山は社長室でそう言った。

 

「条文には不利益はないと書いてある。処遇も通算されると。……ですが、書いてあることと実際に起きることが違うのを、あの者たちは四年間見てきております」

 

「上に睨まれる、と」

 

「そう思っております。手を挙げた者が、後でどう扱われるか。誰も見たことがない。……最初の一人になるというのは、そういうことです」

 

 栗山は湯呑みを両手で包んだ。

 

「それに、家族がおります。子供の学校もある。今の給料で回っている暮らしを、賭けの対象にはできません」

 

「そうでしょうね」

 

 陽太は静かに答えた。

 

「ですが、湊さん」

 

 栗山は顔を上げた。

 

「怖がっているのと、諦めているのとは、違います」

 

「といいますと」

 

「あの者たちは、この四年で、ずいぶん物を考えるようになりました」

 

 栗山は言葉を選ぶように続けた。

 

「私が査定場におりました頃、周りの誰もが、自分たちは正しいことをしていると思っておりました。あの混乱の中で素材を集め、配分し、秩序を保っている。……誰かがやらねばならん仕事を、我々がやっているのだと」

 

「四年前は」

 

「はい。皆、胸を張っておりました。私も含めて」

 

 栗山は目を伏せた。

 

「それが、少しずつ崩れました。あなたが窓口の値段を暴き、査定場の秤の歪みを世間に晒した。市場を作って、腕が値になることを証明なさった。……あのとき、多くの者が思ったはずです」

 

「……」

 

「では、我々が四年間やってきたことは、何だったのか」

 

 社長室が、静かになった。

 

「答えは、上から降りてまいりませんでした。あれは必要な措置だった、時代が変わっただけだ、我々に落ち度はない。……そういう説明ばかりで」

 

「納得できなかった」

 

「できるはずがございません。自分の手で判を押した人間には、あの判の重さが分かりますから」

 

 栗山の声は、静かだった。

 

「不満は、言えませんでした。言えば潰されます。……ですが、言えなかっただけで、消えたわけではございません。四年分、腹の底に溜まったままです」

 

 陽太は栗山の顔を見た。

 

「そこへ、国際窓口業務の話が来ました」

 

 栗山は続けた。

 

「探索者の顔を見て判を押す。あれだけが、あの者たちの最後の拠り所でした。歪んだ秤でも、目の前の人間は本物だったからです。……その仕事まで取り上げられて、海の向こうの買い手の世話をしろと言われた」

 

「説明は」

 

「ございません。国際化だと言われるだけです。……四年前と、同じでございます」

 

 栗山は湯呑みを置いた。

 

「湊さん。あの者たちは、怖がっております。ですが同時に、もう限界でもあります。……どちらが先に動くかは、私にも分かりません」

 

 ◇ ◇ ◇

 

 最初の一人が手を挙げたのは、公募の十四日目だった。

 

 その報せは、戦略機構の事務局から陽太に伝えられた。

 

「北海道の支部です。四十二歳、勤続四年。……窓口の受付を担当していた職員です」

 

「名前に心当たりは」

 

「ありません。うちの誰とも面識がないはずです」

 

 陽太は報告書を見つめた。

 

 名前だけが記されている。会ったこともない、顔も知らない人だった。

 

 後で聞いた話では、その人は特別な事情があったわけではないという。妻子があり、家のローンもあった。上司との関係も悪くなかった。

 

 ただ、告知の紙を十四日間見続けて、ある朝に書類を出した。

 

 理由を問われて、こう答えたという。

 

 窓口で探索者の顔を見る仕事を、続けたかったから。

 

 それだけだった。

 

 その日の午後、二人目が出た。翌日、五人。三日目には二十人を超えた。

 

 堰が切れていた。

 

「湊社長。数字が動いています」

 

 笹本が興奮を抑えた声で報告に来た。

 

「今日だけで四十七人。全国二十三の支部から。……昨日の倍です」

 

「二十三」

 

「一つの支部に固まっていません。北海道から九州まで、ばらばらに出ています」

 

 陽太はその数字を見つめた。

 

 誰かが声をかけて回ったのではない。特定の支部で運動が起きたのでもない。全国でそれぞれの人が、それぞれの理由で、同じ月に手を挙げていた。

 

 最初の一人が出るまで十四日かかり、その後の三日で二十人が続いた。

 

 待っていたのだ。

 

 誰かが最初に手を挙げるのを、全国で待っていた。

 

 栗山から連絡が入ったのは、その週の終わりだった。

 

「査定場の七人、全員が出しました」

 

「七人とも」

 

「はい。相談したわけではないそうです。それぞれが、それぞれに決めて、気づいたら全員だったと」

 

 栗山の声は、少し湿っていた。

 

「あの者たちが申しておりました。……最初の一人が北海道の見も知らぬ男だったと聞いて、それなら自分も出せると思った、と」

 

 ◇ ◇ ◇

 

 応募が締め切られたのは、一ヶ月後だった。

 

 集計結果が出た日、陽太は戦略機構の事務局から数字を受け取った。

 

 紙を開いて、しばらく言葉が出なかった。

 

「……笹本さん」

 

「はい」

 

「これ、桁は合っていますか」

 

「合っております。三度確認しました」

 

 応募者数、千三百四十七名。

 

 必要とされた二百人の、六倍を超えていた。

 

「全国百二十支部のうち、百十四支部から応募が出ています」

 

 笹本が資料をめくった。

 

「職員三千人のうち、四割強です。……勤続四年以上の中堅が中心。窓口業務の経験者が最も多い」

 

 陽太は数字を見つめたまま動かなかった。

 

 千三百四十七人。四割。

 

 これは人材の移動ではなかった。

 

 四年間、上が決めて下に降りてくる世界で働いた人々。不満を言えないまま抱え込み、最後の拠り所まで取り上げられかけていた人々。その四割が、初めて開いた穴に向かって、一斉に手を挙げた。

 

(……評決だ)

 

 陽太は思った。

 

 誰も演説をしていない。誰も扇動していない。ただ、選べる状態を作っただけだった。

 

 選べるようになった瞬間に、四割が別の場所を選んだ。

 

 あの組織がこの四年間、内側の人間からどう見られていたか。その最も正確な数字だった。

 

「湊社長。全員は採れません」

 

 笹本が現実的な話をした。

 

「初年度の定数は二百五十です。選考が必要になります」

 

「選考の基準は、事務局が決めます。俺は関与しません」

 

 陽太は即答した。

 

「それと、採らなかった人のことを考えてください」

 

「と、いいますと」

 

「千三百人が手を挙げて、二百五十人しか採らなければ、千人以上が機構に残ります。……手を挙げたことは、記録に残る」

 

 笹本の顔が硬くなった。

 

「残った方々が、どう扱われるか」

 

「そこです。……凪と相談します。何か手当てが要る」

 

 ◇ ◇ ◇

 

 その数字が公表された日の午後、鬼頭から連絡が入った。

 

 東京へ来られる予定はあるか、という短い問い合わせだった。陽太は翌日の便を取った。

 

 機構の応接室で向き合った鬼頭は、いつもと変わらなかった。

 

 茶を勧め、天候の話をし、それから本題に入った。

 

「見事な数字でございましたな」

 

 穏やかな声だった。

 

「千三百四十七名。……正直に申し上げて、私の想定を大きく超えました」

 

「俺も超えました」

 

「でしょうな。あなたは、一人も来ないかもしれないと仰っていた」

 

 鬼頭は茶碗を置いた。

 

「湊さん。あなたは何をなさったのですか」

 

「何もしていません」

 

「そうでしょう。それは調べました」

 

 鬼頭はあっさりと言った。

 

「あなたの側から支部に接触した形跡は、一つもございません。説明会も、勧誘も、口利きもない。……何もせずに、これだけの数が動いた」

 

 陽太は黙っていた。

 

「私は四年間、あの三千人を見てまいりました」

 

 鬼頭は静かに続けた。

 

「毎日真面目に窓口に立ち、記録を取り、判を押してくれた者たちです。混乱の時代に、この国の秩序を支えたのは、あの者たちの手でございます。……私は、あの者たちを誇りに思っております」

 

 嘘の匂いはなかった。この老人は、本気でそう思っている。

 

「その者たちの四割が、別の場所を選んだ」

 

 鬼頭の指が、茶碗の縁を一度だけなぞった。

 

「……不思議なものですな」

 

 声の調子は、変わっていなかった。穏やかで、丁寧で、温かい。

 

 だが陽太は、その言葉の下に何かがあることを感じ取った。

 

 怒りではない。落胆でもない。もっと質の違う何かだった。

 

「専務理事」

 

 陽太は言った。

 

「この結果を、どうお考えですか」

 

 鬼頭は、しばらく答えなかった。

 

 やがて、顔を上げた。

 

「湊さん。木というものは、鉢の中で育ちます」

 

 脈絡のない言葉だった。

 

「土を入れて水をやり、日に当て、余計な枝を落とす。そうやって形を保つ。……鉢がなければ、木は倒れます。倒れた木は、もう木の形をしておりません」

 

「……」

 

「あの者たちは、鉢の中で四年育ちました。今、自分の足で歩けると思っている。……歩けるかもしれません。ですが、歩いた先で倒れたとき、誰が責任を負うのですか」

 

 陽太は答えた。

 

「本人です」

 

「本人に負わせるのですか」

 

「選んだのは本人ですから」

 

 鬼頭の目が、初めて陽太を正面から捉えた。

 

 その目に、陽太は違和感の正体を見たような気がした。

 

 この老人は、傷ついていない。裏切られたとも思っていない。

 

 ただ、理解できないものを見る目をしていた。

 

 鉢を出た木が、なぜ歩こうとするのか。本当に分からないという顔だった。

 

「……そうですか」

 

 鬼頭は微笑んだ。

 

「よく分かりました。本日は、ありがとうございました」

 

 応接室を辞して廊下に出たとき、陽太の背中には冷たいものが残っていた。

 

 あの人は、まだ何も終わっていないと思っている。

 

 その確信だけが、はっきりとあった。




更新が滞り申し訳ございません。
メンタル的に落ち込んでいたため、このような状況になりました。
最後まで更新いたしますので、最後までお付き合いいただければと存じます。
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