特措法の改正案が成立したのは、秋の初めだった。
日本ダンジョン戦略機構の設置。委員の構成、権限の範囲、予算の三本足。そして、実務を担う職員の確保に関する規定。
出向と移籍の制度は、条文にそのまま入った。公募による募集、機構在籍時の勤続の通算、期間満了後の復帰の道。凪が書いた条文は、一字も削られなかった。
「公募、明日からです」
笹本が資料を置いた。
「戦略機構の名で、全国に告知が出ます。応募期間は一ヶ月」
「こちらからは、何もしません」
陽太は確認した。
「特定の職員に声をかけない。支部を回って説明もしない。……条件として自分で置いたものです」
「分かっております。……ですが湊社長、正直に申し上げてよろしいですか」
笹本は資料をめくった。
「実務を回すには、初年度で最低二百人が必要です。この人数が集まらなければ、記録の入口を押さえられません。……その場合、実務は機構に委託せざるを得なくなります」
「そうなりますね」
「二百人。……三千人のうちの二百人です。数字だけ見れば、七%にも届かない」
笹本の声には、珍しく不安があった。
「ですが、あの組織で働いている方々にとって、公募に応じるのは簡単な話ではないかと」
陽太は窓の外を見た。
そのとおりだった。手を挙げるというのは、この場合、上司の前で自分の意思を示すことになる。四年間、上が決めて下に降りてくる世界で働いてきた人々にとって、それがどれほどのことか。
「待ちます」
陽太は言った。
「こちらにできるのは、それだけです」
◇ ◇ ◇
公募が始まって十日、応募はゼロだった。
その頃、栗山の耳には全国の支部の話が入ってきていた。
どの支部でも、告知は掲示板に貼られていた。誰もが読んでいた。休憩室では話題にもなっていた。
だが、誰も手を挙げなかった。
「怖いんでございます」
栗山は社長室でそう言った。
「条文には不利益はないと書いてある。処遇も通算されると。……ですが、書いてあることと実際に起きることが違うのを、あの者たちは四年間見てきております」
「上に睨まれる、と」
「そう思っております。手を挙げた者が、後でどう扱われるか。誰も見たことがない。……最初の一人になるというのは、そういうことです」
栗山は湯呑みを両手で包んだ。
「それに、家族がおります。子供の学校もある。今の給料で回っている暮らしを、賭けの対象にはできません」
「そうでしょうね」
陽太は静かに答えた。
「ですが、湊さん」
栗山は顔を上げた。
「怖がっているのと、諦めているのとは、違います」
「といいますと」
「あの者たちは、この四年で、ずいぶん物を考えるようになりました」
栗山は言葉を選ぶように続けた。
「私が査定場におりました頃、周りの誰もが、自分たちは正しいことをしていると思っておりました。あの混乱の中で素材を集め、配分し、秩序を保っている。……誰かがやらねばならん仕事を、我々がやっているのだと」
「四年前は」
「はい。皆、胸を張っておりました。私も含めて」
栗山は目を伏せた。
「それが、少しずつ崩れました。あなたが窓口の値段を暴き、査定場の秤の歪みを世間に晒した。市場を作って、腕が値になることを証明なさった。……あのとき、多くの者が思ったはずです」
「……」
「では、我々が四年間やってきたことは、何だったのか」
社長室が、静かになった。
「答えは、上から降りてまいりませんでした。あれは必要な措置だった、時代が変わっただけだ、我々に落ち度はない。……そういう説明ばかりで」
「納得できなかった」
「できるはずがございません。自分の手で判を押した人間には、あの判の重さが分かりますから」
栗山の声は、静かだった。
「不満は、言えませんでした。言えば潰されます。……ですが、言えなかっただけで、消えたわけではございません。四年分、腹の底に溜まったままです」
陽太は栗山の顔を見た。
「そこへ、国際窓口業務の話が来ました」
栗山は続けた。
「探索者の顔を見て判を押す。あれだけが、あの者たちの最後の拠り所でした。歪んだ秤でも、目の前の人間は本物だったからです。……その仕事まで取り上げられて、海の向こうの買い手の世話をしろと言われた」
「説明は」
「ございません。国際化だと言われるだけです。……四年前と、同じでございます」
栗山は湯呑みを置いた。
「湊さん。あの者たちは、怖がっております。ですが同時に、もう限界でもあります。……どちらが先に動くかは、私にも分かりません」
◇ ◇ ◇
最初の一人が手を挙げたのは、公募の十四日目だった。
その報せは、戦略機構の事務局から陽太に伝えられた。
「北海道の支部です。四十二歳、勤続四年。……窓口の受付を担当していた職員です」
「名前に心当たりは」
「ありません。うちの誰とも面識がないはずです」
陽太は報告書を見つめた。
名前だけが記されている。会ったこともない、顔も知らない人だった。
後で聞いた話では、その人は特別な事情があったわけではないという。妻子があり、家のローンもあった。上司との関係も悪くなかった。
ただ、告知の紙を十四日間見続けて、ある朝に書類を出した。
理由を問われて、こう答えたという。
窓口で探索者の顔を見る仕事を、続けたかったから。
それだけだった。
その日の午後、二人目が出た。翌日、五人。三日目には二十人を超えた。
堰が切れていた。
「湊社長。数字が動いています」
笹本が興奮を抑えた声で報告に来た。
「今日だけで四十七人。全国二十三の支部から。……昨日の倍です」
「二十三」
「一つの支部に固まっていません。北海道から九州まで、ばらばらに出ています」
陽太はその数字を見つめた。
誰かが声をかけて回ったのではない。特定の支部で運動が起きたのでもない。全国でそれぞれの人が、それぞれの理由で、同じ月に手を挙げていた。
最初の一人が出るまで十四日かかり、その後の三日で二十人が続いた。
待っていたのだ。
誰かが最初に手を挙げるのを、全国で待っていた。
栗山から連絡が入ったのは、その週の終わりだった。
「査定場の七人、全員が出しました」
「七人とも」
「はい。相談したわけではないそうです。それぞれが、それぞれに決めて、気づいたら全員だったと」
栗山の声は、少し湿っていた。
「あの者たちが申しておりました。……最初の一人が北海道の見も知らぬ男だったと聞いて、それなら自分も出せると思った、と」
◇ ◇ ◇
応募が締め切られたのは、一ヶ月後だった。
集計結果が出た日、陽太は戦略機構の事務局から数字を受け取った。
紙を開いて、しばらく言葉が出なかった。
「……笹本さん」
「はい」
「これ、桁は合っていますか」
「合っております。三度確認しました」
応募者数、千三百四十七名。
必要とされた二百人の、六倍を超えていた。
「全国百二十支部のうち、百十四支部から応募が出ています」
笹本が資料をめくった。
「職員三千人のうち、四割強です。……勤続四年以上の中堅が中心。窓口業務の経験者が最も多い」
陽太は数字を見つめたまま動かなかった。
千三百四十七人。四割。
これは人材の移動ではなかった。
四年間、上が決めて下に降りてくる世界で働いた人々。不満を言えないまま抱え込み、最後の拠り所まで取り上げられかけていた人々。その四割が、初めて開いた穴に向かって、一斉に手を挙げた。
(……評決だ)
陽太は思った。
誰も演説をしていない。誰も扇動していない。ただ、選べる状態を作っただけだった。
選べるようになった瞬間に、四割が別の場所を選んだ。
あの組織がこの四年間、内側の人間からどう見られていたか。その最も正確な数字だった。
「湊社長。全員は採れません」
笹本が現実的な話をした。
「初年度の定数は二百五十です。選考が必要になります」
「選考の基準は、事務局が決めます。俺は関与しません」
陽太は即答した。
「それと、採らなかった人のことを考えてください」
「と、いいますと」
「千三百人が手を挙げて、二百五十人しか採らなければ、千人以上が機構に残ります。……手を挙げたことは、記録に残る」
笹本の顔が硬くなった。
「残った方々が、どう扱われるか」
「そこです。……凪と相談します。何か手当てが要る」
◇ ◇ ◇
その数字が公表された日の午後、鬼頭から連絡が入った。
東京へ来られる予定はあるか、という短い問い合わせだった。陽太は翌日の便を取った。
機構の応接室で向き合った鬼頭は、いつもと変わらなかった。
茶を勧め、天候の話をし、それから本題に入った。
「見事な数字でございましたな」
穏やかな声だった。
「千三百四十七名。……正直に申し上げて、私の想定を大きく超えました」
「俺も超えました」
「でしょうな。あなたは、一人も来ないかもしれないと仰っていた」
鬼頭は茶碗を置いた。
「湊さん。あなたは何をなさったのですか」
「何もしていません」
「そうでしょう。それは調べました」
鬼頭はあっさりと言った。
「あなたの側から支部に接触した形跡は、一つもございません。説明会も、勧誘も、口利きもない。……何もせずに、これだけの数が動いた」
陽太は黙っていた。
「私は四年間、あの三千人を見てまいりました」
鬼頭は静かに続けた。
「毎日真面目に窓口に立ち、記録を取り、判を押してくれた者たちです。混乱の時代に、この国の秩序を支えたのは、あの者たちの手でございます。……私は、あの者たちを誇りに思っております」
嘘の匂いはなかった。この老人は、本気でそう思っている。
「その者たちの四割が、別の場所を選んだ」
鬼頭の指が、茶碗の縁を一度だけなぞった。
「……不思議なものですな」
声の調子は、変わっていなかった。穏やかで、丁寧で、温かい。
だが陽太は、その言葉の下に何かがあることを感じ取った。
怒りではない。落胆でもない。もっと質の違う何かだった。
「専務理事」
陽太は言った。
「この結果を、どうお考えですか」
鬼頭は、しばらく答えなかった。
やがて、顔を上げた。
「湊さん。木というものは、鉢の中で育ちます」
脈絡のない言葉だった。
「土を入れて水をやり、日に当て、余計な枝を落とす。そうやって形を保つ。……鉢がなければ、木は倒れます。倒れた木は、もう木の形をしておりません」
「……」
「あの者たちは、鉢の中で四年育ちました。今、自分の足で歩けると思っている。……歩けるかもしれません。ですが、歩いた先で倒れたとき、誰が責任を負うのですか」
陽太は答えた。
「本人です」
「本人に負わせるのですか」
「選んだのは本人ですから」
鬼頭の目が、初めて陽太を正面から捉えた。
その目に、陽太は違和感の正体を見たような気がした。
この老人は、傷ついていない。裏切られたとも思っていない。
ただ、理解できないものを見る目をしていた。
鉢を出た木が、なぜ歩こうとするのか。本当に分からないという顔だった。
「……そうですか」
鬼頭は微笑んだ。
「よく分かりました。本日は、ありがとうございました」
応接室を辞して廊下に出たとき、陽太の背中には冷たいものが残っていた。
あの人は、まだ何も終わっていないと思っている。
その確信だけが、はっきりとあった。
更新が滞り申し訳ございません。
メンタル的に落ち込んでいたため、このような状況になりました。
最後まで更新いたしますので、最後までお付き合いいただければと存じます。