選考が始まって二週間目のことだった。
「湊社長。出向の同意が、下りません」
笹本が青い顔で報告に来た。
「出向を希望した職員は、機構との協議と同意が前提です。条文にそう書いてあります。……その同意が、出ないんです」
「何件ですか」
「採用内定を出した二百五十人のうち、出向希望は百八十人。そのうち同意が下りたのは、二十二人です」
陽太は数字を見つめた。
「理由は」
「全部違います」
笹本は資料をめくった。
「業務が繁忙のため時期を延期したい。後任の手当てがつかない。支部の人員配置上、当面は困難である。本人の担当業務に代替者がいない。……一件ずつ、全部もっともな理由です」
「違法な点は」
「ありません。条文は協議と同意を前提にしております。同意しない自由も、条文の中にあります」
陽太は目を閉じた。
自分で書いた条件だった。引き抜きにならないよう、機構との協議と同意を前提にする。敵対しないための配慮だった。
その配慮が、そのまま関門になっている。
「専務理事からの指示があった形跡は」
「探しました。ありません」
笹本は首を振った。
「本部から支部への通達も、内部文書も、それらしいものは一つも出ておりません。……支部長がそれぞれ判断して、それぞれの理由で同意を見送っている形です」
「……なるほど」
陽太は椅子の背にもたれた。
指示は出ていない。出す必要がない。
四年間、上の顔色を読んで動く組織を作ってきた男だ。何を望んでいるかは、言わなくても伝わる。支部長たちは自分の判断として、自分の理由で、同意を見送っている。
誰も命令されていない。だから誰も責任を負わない。
「湊社長。どうしますか」
「……もう少し、悪い話が来る気がします」
陽太は言った。その予感は、三日後に的中した。
◇ ◇ ◇
栗山が社長室に来たとき、その顔色は初めて見るものだった。
「湊さん。……残った者たちに、動きがございます」
「配置転換ですか」
「はい。この二週間で、応募して採用に至らなかった者のうち、百人以上に異動の内示が出ております」
栗山は資料を広げた。手書きの一覧だった。全国の知人から集めたものらしい。
「北海道の者が九州へ。四国の者が東北へ。……単身赴任になる者がほとんどです」
「表向きの理由は」
「業務上の必要でございます。人員配置の適正化、経験の横展開、支部間の交流促進。……どれも、真っ当な人事の言葉です」
「評価は」
「今期の考課が、下がった者がおります。理由は、業務への集中力を欠いたと」
陽太は一覧を見つめた。
名前が並んでいる。どれも知らない名前だった。北海道から九州まで、全国の支部で、手を挙げた人たちが動かされている。
「栗山さん。査定場の七人は」
「四人が、異動の内示を受けております」
栗山の声が、微かに震えた。
「一人は、来月から東北です。母親の介護をしておる男でして。……先週、私のところに電話がございました。手を挙げなければよかったと」
陽太は言葉を失った。
制度上は不利益を作らないと書いた。処遇を通算し、戻る道も残した。凪が一字一句詰めて、条文にも入った。
だが、人事権の行使に違法はない。
異動を命じるのは組織の自由であり、考課を付けるのも組織の自由である。手を挙げたことと異動の因果関係は、どこにも書かれていない。書かれていないから、争えない。
「……申し訳ありません」
陽太は頭を下げた。
「湊さん。おやめください」
栗山は静かに言った。
「あの者たちは、自分で決めて手を挙げました。誰かに言われたのではありません。……結果がどうあれ、それは自分たちで選んだものです」
「ですが」
「ただ」
栗山は顔を上げた。
「一つだけ、お願いがございます。……この状況を、どうか記録に残してくださいませ」
陽太は栗山の目を見た。
「記録」
「四年間、私は台帳の隅に根拠の数字を書き続けてまいりました。誰も見ないと分かっていて、それでも書いた。……いつか誰かが見る日のために」
栗山の声は、静かだった。
「今、起きていることも、同じでございます。証明はできません。誰も違法なことはしておりません。……ですが、記録があれば、いつか数字が語ります」
◇ ◇ ◇
その夜、陽太は凪と笹本を呼んだ。
「法で争えるか?」
「難しいわ」
凪は即答した。
「人事権の濫用を立証するには、不当な目的があったことを示さなきゃいけない。でも、一件ずつ見れば全部正当な理由がついてる。……百件並べても、それぞれ別の理由だから、一つの意図として立証できない」
「世論は」
「個別の人事は表に出ないわ。出しても、あの組織が構成員をどう配置するかの話でしょう、で終わる」
陽太はホワイトボードの前に立った。
法では届かない。世論も届かない。
ここまでの四年間、何度も同じ壁に当たってきた。そのたびに、同じ場所に戻ってきた。
「なら、いつもどおりにやります」
陽太はマーカーを取った。
「記録して、公開する」
「具体的には」
「戦略機構の事務局が、申請から処遇までの全過程を記録します。誰が申請して、同意が下りたか下りなかったか。下りなかった理由は何か。採用されなかった人が、その後どう扱われたか」
陽太は書きながら続けた。
「個人が特定されない形で集計して、定期的に公表する。……取引所の台帳と同じです。判断の根拠を全部見えるようにする」
「それで、何が変わるの」
「一件なら、誰も気づきません」
陽太は振り返った。
「百八十件のうち二十二件しか同意が下りていない。この数字が公表されたら、どう見えますか」
笹本が息を呑んだ。
「……異常です。どんな理由をつけても、この比率は説明がつきません」
「そうです。一件ずつは正当でも、集計すると別のものが見える。……相場の値動きと同じです。一つの取引は普通でも、並べると形が出る」
凪がペンを取った。
「公表の根拠は、条文にあるわね。戦略機構の運営の透明性として。……事務局の判断で公表できる」
「それと、もう一つ」
陽太は言った。
「異動になった人、考課が下がった人。本人が望めば、その事実も記録に残せるようにしてください。強制はしません。……言いたい人が、言える場所を作る」
笹本が頷いた。
「湊社長。これ、機構に喧嘩を売ることになりますが」
「売っていません」
陽太は答えた。
「数字を出すだけです。喧嘩になるとしたら、それは数字が語ったからです」
◇ ◇ ◇
最初の集計が公表されたのは、その二週間後だった。
出向申請百八十件に対し、同意二十二件。不同意の理由の内訳。採用に至らなかった応募者のうち、三ヶ月以内に異動の内示を受けた者の比率。全国平均との比較。
個人名は一つも出ていない。ただ数字だけが並んでいた。
反応は、機構の内側から来た。
最初は一人の支部長だった。
北陸のある支部で、出向を申請していた職員に、同意の判が押された。
その支部長は取材にも応じず、理由も語らなかった。ただ、同意書に判を押し、本部へ送った。それだけだった。
翌週、同じことが三つの支部で起きた。
そのまた翌週には、十二支部。
「湊社長。同意が、出始めています」
笹本の声が上ずっていた。
「今週だけで四十一件。……先週の三倍です」
陽太は報告を受けながら、机の上の集計表を見ていた。
支部長たちは、何も言っていない。声明も、抗議も、記者会見もない。ただ、それぞれの机で、同意書に判を押している。
後になって、いくつかの支部の事情が伝わってきた。
北陸の支部長は、部下の職員とは12.11以前からの旧知の仲であったという。介護を抱えた部下の異動を、以前に一度止めたこともあった。
九州のある支部長は、公表された数字を見て、自分の支部の不同意率が全国平均より高いことを知った。そんなつもりはなかった、と周囲に漏らしたという。
東北の支部長は、何も語らなかった。ただ、その週のうちに七件の同意書に判を押した。
誰も、誰かに命じられていない。
指示が出ていなかったのと、同じように。
陽太は集計表を置いた。
(そうか)
命令のない組織では、忖度も自由も、同じ仕組みで動く。
上の顔色を読んで同意を見送るのも、自分の判断だった。数字を見て同意の判を押すのも、自分の判断だった。
四年かけて、上を見て動く組織が作られた。その組織の中で、初めて別の方を見た人たちがいた。
庭師が枝を落とそうとしたとき、他の枝が動いた。
剪定の鋏は、木の側が拒めば入らない。
三週間後、出向の同意は百五十件を超えていた。
異動の内示も、いくつかが撤回された。理由は明示されなかった。撤回もまた、支部の判断だった。
◇ ◇ ◇
黒崎が広島の執務室で集計表を見ていたのは、その頃である。
中央本部参与の机には、相変わらず回覧しか回ってこない。だが、公表された数字は誰でも読めた。
黒崎は三冊目の切り抜きの綴りを閉じ、四冊目を開いていた。今度は取引所の記事ではない。出向と移籍に関する集計表の写しだった。
参与の仕事は、よく見て、よく報せることである。
黒崎は数字を追った。同意率の推移。支部ごとの傾向。異動の内示の比率。
そして、先週から今週にかけての急激な変化。
(……枝が、動いている)
黒崎はペンを置いた。
この数ヶ月、黒崎の手元には何の指示も来ていなかった。妨害の指示も、同意を見送れという通達も、一枚もない。当然である。そんなものを文書にする人ではない。
だが、何が望まれているかは分かっていた。分かった上で、黒崎は何もしなかった。
権限がないからではない。
報せる仕事だからでもない。
(私は、どちらを見ている)
黒崎は窓の外を見た。広島の街に、夕方の光が差している。
四年前、この街に送り込まれたとき、黒崎が信じていたのは秩序だった。飢えた人間が列を乱す。乱れた列は暴力になる。だから恐怖で縛る。あれは必要な仕事だったと、今でも思っている。
その後、尾道の若造が市場を作った。恐怖のいらない場所で、人が列を作った。黒崎は敗れ、任務を失い、この街に置かれたまま数字を眺めてきた。
そして今、あの組織の中の人間が、自分の意思で場所を選んでいる。
千三百四十七人が手を挙げた。四割である。
黒崎は、その数字の意味を正確に理解していた。
あれは、この組織が四年間、内側からどう見られていたかの評決だ。そして専務理事は、その評決に対して、剪定で応じようとした。
(腐った枝は切る。木は残る)
あの日の廊下の言葉が、また蘇る。
だが今回、切られようとしているのは腐った枝ではなかった。四年間、毎日窓口に立ち、探索者の顔を見て判を押してきた者たちである。腐ってなどいない。ただ、別の場所を選んだだけだ。
選んだだけで切られるなら。
(枝は、いつでも切られる)
黒崎は机の抽斗を開けた。
中には、この半年で書き溜めた報告書の控えが入っている。専務理事に宛てた、見たままの報告。数字だけの、感情のない文書だった。
その一番上に、まだ出していない一通があった。
書き上げたのは三日前である。内容は、この集計表の分析だった。同意率の異常な低さ。異動の内示の偏り。そしてそれが、組織の内部からどう見えているか。
見たいものではなく、あるものを見る。そう言われた。
この報告書は、あるものを書いてある。出せば、専務理事は読むだろう。読んだ上で、おそらく何も変わらない。
黒崎は封筒を手に取り、しばらく見ていた。
それから、机に戻した。
この報告書の宛先は、本当に東京でいいのか。
その問いが、初めて頭に浮かんでいた。