IR情報で読み解くダンジョン経済学   作:カトーユキヒロ

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第19話:庭師の手

 選考が始まって二週間目のことだった。

 

「湊社長。出向の同意が、下りません」

 

 笹本が青い顔で報告に来た。

 

「出向を希望した職員は、機構との協議と同意が前提です。条文にそう書いてあります。……その同意が、出ないんです」

 

「何件ですか」

 

「採用内定を出した二百五十人のうち、出向希望は百八十人。そのうち同意が下りたのは、二十二人です」

 

 陽太は数字を見つめた。

 

「理由は」

 

「全部違います」

 

 笹本は資料をめくった。

 

「業務が繁忙のため時期を延期したい。後任の手当てがつかない。支部の人員配置上、当面は困難である。本人の担当業務に代替者がいない。……一件ずつ、全部もっともな理由です」

 

「違法な点は」

 

「ありません。条文は協議と同意を前提にしております。同意しない自由も、条文の中にあります」

 

 陽太は目を閉じた。

 

 自分で書いた条件だった。引き抜きにならないよう、機構との協議と同意を前提にする。敵対しないための配慮だった。

 

 その配慮が、そのまま関門になっている。

 

「専務理事からの指示があった形跡は」

 

「探しました。ありません」

 

 笹本は首を振った。

 

「本部から支部への通達も、内部文書も、それらしいものは一つも出ておりません。……支部長がそれぞれ判断して、それぞれの理由で同意を見送っている形です」

 

「……なるほど」

 

 陽太は椅子の背にもたれた。

 

 指示は出ていない。出す必要がない。

 

 四年間、上の顔色を読んで動く組織を作ってきた男だ。何を望んでいるかは、言わなくても伝わる。支部長たちは自分の判断として、自分の理由で、同意を見送っている。

 

 誰も命令されていない。だから誰も責任を負わない。

 

「湊社長。どうしますか」

 

「……もう少し、悪い話が来る気がします」

 

 陽太は言った。その予感は、三日後に的中した。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 栗山が社長室に来たとき、その顔色は初めて見るものだった。

 

「湊さん。……残った者たちに、動きがございます」

 

「配置転換ですか」

 

「はい。この二週間で、応募して採用に至らなかった者のうち、百人以上に異動の内示が出ております」

 

 栗山は資料を広げた。手書きの一覧だった。全国の知人から集めたものらしい。

 

「北海道の者が九州へ。四国の者が東北へ。……単身赴任になる者がほとんどです」

 

「表向きの理由は」

 

「業務上の必要でございます。人員配置の適正化、経験の横展開、支部間の交流促進。……どれも、真っ当な人事の言葉です」

 

「評価は」

 

「今期の考課が、下がった者がおります。理由は、業務への集中力を欠いたと」

 

 陽太は一覧を見つめた。

 

 名前が並んでいる。どれも知らない名前だった。北海道から九州まで、全国の支部で、手を挙げた人たちが動かされている。

 

「栗山さん。査定場の七人は」

 

「四人が、異動の内示を受けております」

 

 栗山の声が、微かに震えた。

 

「一人は、来月から東北です。母親の介護をしておる男でして。……先週、私のところに電話がございました。手を挙げなければよかったと」

 

 陽太は言葉を失った。

 

 制度上は不利益を作らないと書いた。処遇を通算し、戻る道も残した。凪が一字一句詰めて、条文にも入った。

 

 だが、人事権の行使に違法はない。

 

 異動を命じるのは組織の自由であり、考課を付けるのも組織の自由である。手を挙げたことと異動の因果関係は、どこにも書かれていない。書かれていないから、争えない。

 

「……申し訳ありません」

 

 陽太は頭を下げた。

 

「湊さん。おやめください」

 

 栗山は静かに言った。

 

「あの者たちは、自分で決めて手を挙げました。誰かに言われたのではありません。……結果がどうあれ、それは自分たちで選んだものです」

 

「ですが」

 

「ただ」

 

 栗山は顔を上げた。

 

「一つだけ、お願いがございます。……この状況を、どうか記録に残してくださいませ」

 

 陽太は栗山の目を見た。

 

「記録」

 

「四年間、私は台帳の隅に根拠の数字を書き続けてまいりました。誰も見ないと分かっていて、それでも書いた。……いつか誰かが見る日のために」

 

 栗山の声は、静かだった。

 

「今、起きていることも、同じでございます。証明はできません。誰も違法なことはしておりません。……ですが、記録があれば、いつか数字が語ります」

 

 ◇ ◇ ◇

 

 その夜、陽太は凪と笹本を呼んだ。

 

「法で争えるか?」

 

「難しいわ」

 

 凪は即答した。

 

「人事権の濫用を立証するには、不当な目的があったことを示さなきゃいけない。でも、一件ずつ見れば全部正当な理由がついてる。……百件並べても、それぞれ別の理由だから、一つの意図として立証できない」

 

「世論は」

 

「個別の人事は表に出ないわ。出しても、あの組織が構成員をどう配置するかの話でしょう、で終わる」

 

 陽太はホワイトボードの前に立った。

 

 法では届かない。世論も届かない。

 

 ここまでの四年間、何度も同じ壁に当たってきた。そのたびに、同じ場所に戻ってきた。

 

「なら、いつもどおりにやります」

 

 陽太はマーカーを取った。

 

「記録して、公開する」

 

「具体的には」

 

「戦略機構の事務局が、申請から処遇までの全過程を記録します。誰が申請して、同意が下りたか下りなかったか。下りなかった理由は何か。採用されなかった人が、その後どう扱われたか」

 

 陽太は書きながら続けた。

 

「個人が特定されない形で集計して、定期的に公表する。……取引所の台帳と同じです。判断の根拠を全部見えるようにする」

 

「それで、何が変わるの」

 

「一件なら、誰も気づきません」

 

 陽太は振り返った。

 

「百八十件のうち二十二件しか同意が下りていない。この数字が公表されたら、どう見えますか」

 

 笹本が息を呑んだ。

 

「……異常です。どんな理由をつけても、この比率は説明がつきません」

 

「そうです。一件ずつは正当でも、集計すると別のものが見える。……相場の値動きと同じです。一つの取引は普通でも、並べると形が出る」

 

 凪がペンを取った。

 

「公表の根拠は、条文にあるわね。戦略機構の運営の透明性として。……事務局の判断で公表できる」

 

「それと、もう一つ」

 

 陽太は言った。

 

「異動になった人、考課が下がった人。本人が望めば、その事実も記録に残せるようにしてください。強制はしません。……言いたい人が、言える場所を作る」

 

 笹本が頷いた。

 

「湊社長。これ、機構に喧嘩を売ることになりますが」

 

「売っていません」

 

 陽太は答えた。

 

「数字を出すだけです。喧嘩になるとしたら、それは数字が語ったからです」

 

 ◇ ◇ ◇

 

 最初の集計が公表されたのは、その二週間後だった。

 

 出向申請百八十件に対し、同意二十二件。不同意の理由の内訳。採用に至らなかった応募者のうち、三ヶ月以内に異動の内示を受けた者の比率。全国平均との比較。

 

 個人名は一つも出ていない。ただ数字だけが並んでいた。

 

 反応は、機構の内側から来た。

 

 最初は一人の支部長だった。

 

 北陸のある支部で、出向を申請していた職員に、同意の判が押された。

 

 その支部長は取材にも応じず、理由も語らなかった。ただ、同意書に判を押し、本部へ送った。それだけだった。

 

 翌週、同じことが三つの支部で起きた。

 

 そのまた翌週には、十二支部。

 

「湊社長。同意が、出始めています」

 

 笹本の声が上ずっていた。

 

「今週だけで四十一件。……先週の三倍です」

 

 陽太は報告を受けながら、机の上の集計表を見ていた。

 

 支部長たちは、何も言っていない。声明も、抗議も、記者会見もない。ただ、それぞれの机で、同意書に判を押している。

 

 後になって、いくつかの支部の事情が伝わってきた。

 

 北陸の支部長は、部下の職員とは12.11以前からの旧知の仲であったという。介護を抱えた部下の異動を、以前に一度止めたこともあった。

 

 九州のある支部長は、公表された数字を見て、自分の支部の不同意率が全国平均より高いことを知った。そんなつもりはなかった、と周囲に漏らしたという。

 

 東北の支部長は、何も語らなかった。ただ、その週のうちに七件の同意書に判を押した。

 

 誰も、誰かに命じられていない。

 

 指示が出ていなかったのと、同じように。

 

 陽太は集計表を置いた。

 

(そうか)

 

 命令のない組織では、忖度も自由も、同じ仕組みで動く。

 

 上の顔色を読んで同意を見送るのも、自分の判断だった。数字を見て同意の判を押すのも、自分の判断だった。

 

 四年かけて、上を見て動く組織が作られた。その組織の中で、初めて別の方を見た人たちがいた。

 

 庭師が枝を落とそうとしたとき、他の枝が動いた。

 

 剪定の鋏は、木の側が拒めば入らない。

 

 三週間後、出向の同意は百五十件を超えていた。

 

 異動の内示も、いくつかが撤回された。理由は明示されなかった。撤回もまた、支部の判断だった。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 黒崎が広島の執務室で集計表を見ていたのは、その頃である。

 

 中央本部参与の机には、相変わらず回覧しか回ってこない。だが、公表された数字は誰でも読めた。

 

 黒崎は三冊目の切り抜きの綴りを閉じ、四冊目を開いていた。今度は取引所の記事ではない。出向と移籍に関する集計表の写しだった。

 

 参与の仕事は、よく見て、よく報せることである。

 

 黒崎は数字を追った。同意率の推移。支部ごとの傾向。異動の内示の比率。

 

 そして、先週から今週にかけての急激な変化。

 

(……枝が、動いている)

 

 黒崎はペンを置いた。

 

 この数ヶ月、黒崎の手元には何の指示も来ていなかった。妨害の指示も、同意を見送れという通達も、一枚もない。当然である。そんなものを文書にする人ではない。

 

 だが、何が望まれているかは分かっていた。分かった上で、黒崎は何もしなかった。

 

 権限がないからではない。

 

 報せる仕事だからでもない。

 

(私は、どちらを見ている)

 

 黒崎は窓の外を見た。広島の街に、夕方の光が差している。

 

 四年前、この街に送り込まれたとき、黒崎が信じていたのは秩序だった。飢えた人間が列を乱す。乱れた列は暴力になる。だから恐怖で縛る。あれは必要な仕事だったと、今でも思っている。

 

 その後、尾道の若造が市場を作った。恐怖のいらない場所で、人が列を作った。黒崎は敗れ、任務を失い、この街に置かれたまま数字を眺めてきた。

 

 そして今、あの組織の中の人間が、自分の意思で場所を選んでいる。

 

 千三百四十七人が手を挙げた。四割である。

 

 黒崎は、その数字の意味を正確に理解していた。

 

 あれは、この組織が四年間、内側からどう見られていたかの評決だ。そして専務理事は、その評決に対して、剪定で応じようとした。

 

(腐った枝は切る。木は残る)

 

 あの日の廊下の言葉が、また蘇る。

 

 だが今回、切られようとしているのは腐った枝ではなかった。四年間、毎日窓口に立ち、探索者の顔を見て判を押してきた者たちである。腐ってなどいない。ただ、別の場所を選んだだけだ。

 

 選んだだけで切られるなら。

 

(枝は、いつでも切られる)

 

 黒崎は机の抽斗を開けた。

 

 中には、この半年で書き溜めた報告書の控えが入っている。専務理事に宛てた、見たままの報告。数字だけの、感情のない文書だった。

 

 その一番上に、まだ出していない一通があった。

 

 書き上げたのは三日前である。内容は、この集計表の分析だった。同意率の異常な低さ。異動の内示の偏り。そしてそれが、組織の内部からどう見えているか。

 

 見たいものではなく、あるものを見る。そう言われた。

 

 この報告書は、あるものを書いてある。出せば、専務理事は読むだろう。読んだ上で、おそらく何も変わらない。

 

 黒崎は封筒を手に取り、しばらく見ていた。

 

 それから、机に戻した。

 

 この報告書の宛先は、本当に東京でいいのか。

 

 その問いが、初めて頭に浮かんでいた。

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