封筒に宛名を書くのに、黒崎は十分かかった。
書き上げた報告書は三日前から抽斗にあった。中身は変えていない。同意率の推移、異動の内示の偏り、支部ごとの傾向。数字と分析だけの、感情を一切乗せない文書である。
変わったのは、宛名だけだった。
日本探索者支援機構専務理事、と書きかけて、黒崎は便箋を一枚無駄にした。二枚目も同じところで止まった。
三枚目に、別の名前を書いた。
ウォーター・ベイン株式会社代表取締役、湊陽太様。
インクが乾くのを待ちながら、黒崎はこの数ヶ月のことを考えていた。
よく見て、よく報せてください。あの穏やかな声はそう言った。見たいものではなく、あるものを見られる人は少ないのだと。
黒崎は見た。数字を追い、傾向を読み、何が起きているかを正確に把握した。仕事は果たしている。
残っていたのは、誰に報せるかだけだった。
(報告書というものは)
黒崎は封をした。
読んで何かが変わる相手に出すものである。東京へ出せば、あの人は読むだろう。丁寧に読み、数字を頭に入れ、そして何も変えない。変える必要を感じないからだ。
ならば、この報告書の宛先は東京ではない。
黒崎は封筒を鞄に入れ、机の抽斗を閉めた。
抽斗の奥には、まだ白紙の便箋が一枚残っている。辞表の下書きに使うつもりだった。まだ書いてはいない。だが、いずれ書くことになるのは分かっていた。
◇ ◇ ◇
封筒が尾道に届いたのは、三日後だった。
差出人の名前を見て、陽太はしばらく封を切らなかった。
中身は報告書だった。表紙に「広島都市圏における出向同意状況の分析」とある。日付は二週間前。宛名の欄は空白のまま、封筒にだけ陽太の名が書かれていた。
内容は、感情のない数字の羅列だった。
同意率が全国平均を下回った時期。その時期に本部から支部へ出された文書の一覧。そこに妨害の指示が一通もないという事実。にもかかわらず同意率が一斉に下がった事実。そして、それが何を意味するかについての、ごく短い分析。
最後の一行だけが、数字ではなかった。
命令のない組織では、忖度は命令より強く働く。
「……この人は」
凪が横から報告書を読んで、息を吐いた。
「自分の組織を、外から分析してるわね。これ、告発じゃないわ。ただの分析」
「告発にする気がないんだろう」
陽太は報告書を閉じた。
「あの人は、見て報せるのが仕事だと言われた。それを、そのままやってる。……宛先を変えただけだ」
報告書は、戦略機構の事務局へ正式に提出された。差出人を伏せることもできたが、陽太はしなかった。黒崎自身が名前を消していなかったからだ。
波紋は、思ったより早く広がった。
文書そのものは告発ではない。だが、内容は事実の積み上げである。国会でこれが取り上げられたとき、問われたのは鬼頭個人の責任ではなかった。
指示を出さずに組織を動かせる構造。責任を負う者がどこにもいない仕組み。
機構の内部統制そのものが、議論の俎上に載せられた。
◇ ◇ ◇
鬼頭から連絡が来たのは、その二週間後である。
東京の機構本部ではなく、指定されたのは日本橋の小さな料亭だった。座敷に通されると、老人は先に座って茶を飲んでいた。
「湊さん。今日は、仕事の話ではございません」
鬼頭は穏やかに言った。
「私の話を、少しばかり聞いていただきたい」
陽太は座った。膳が運ばれてきたが、鬼頭は箸を取らなかった。
「黒崎さんの報告書、拝見いたしました」
「……」
「よく書けております。彼は数字を読む目がある。……あれを東京へ出さなかったのは、正しい判断でした」
責める調子ではなかった。人事評価を述べるような口ぶりだった。
「専務理事」
「私は、来月付けで辞任いたします」
あっさりと告げられた。
陽太は箸を置いた。
「……理由を、伺っても」
「職員の四割が別の場所を選び、組織の統制のあり方が問われた。責任を取る者が要ります。私が座っていた椅子は、そのための椅子でもございます」
鬼頭は茶碗を置いた。
「それだけの話です」
「それだけ、ですか」
「ええ」
鬼頭は微笑んだ。
「湊さん。あなたに一つ、申し上げておきたいことがございます。……私は、あなたに負けたとは思っておりません」
「そうでしょうね」
「ですが、あなたがいなければ、私はあの椅子に座り続けていたでしょう。……これは、認めます」
鬼頭の声は、いつもより少しだけ柔らかかった。
「四年間、私は良い仕事をしてまいりました。混乱の中で秩序を作り、飢えを減らし、暴力を抑えた。……あの頃、この国で最も難しい仕事でした。そして私は、それをやり遂げた」
「はい」
「湊さん。私が何を喜びとしてきたか、お分かりになりますか」
陽太は答えなかった。
「金ではございません。名誉でもない。……崩れかけたものを整え、形を保っているのを見ることです」
鬼頭は座敷の障子を見ていた。
「列が乱れずに並んでいる。倉庫の数が朝と同じである。誰も死んでいない。……そういう朝を迎えるたびに、私は満たされました。あれは、他では得られない喜びでしてな」
陽太は、その言葉を静かに聞いていた。
嘘ではない。この老人は、本当にそれで満たされている。
「ですが、正直に申し上げますとな」
鬼頭は陽太の方を向いた。
「平穏が続くと、味が薄くなるのです」
「……味」
「形を保つのが易しくなると、保っていることに気づかなくなる。庭が荒れない年は、庭師の仕事は退屈でございます」
老人の目に、初めて見る色があった。
「あなたが現れてから、私の仕事は面白くなりました」
陽太の背筋が、静かに冷えた。
「固定価格を壊された。窓口の値を暴かれた。会議を取られ、共同提案を出され、国際の場で先を越された。……そのたびに、私は考えました。この形をどう保つか。どの枝を落とし、どこに支柱を入れるか」
鬼頭は茶碗を持ち上げ、また置いた。
「四年間で、あの数ヶ月が一番、面白うございました」
「……面白い」
「ええ。庭に虫が入ると、庭師は本気になりますのでな」
陽太は言葉を失った。
この老人は、自分を敵だと思っていない。
障害だとも、脅威だとも思っていない。
剪定を面白くしてくれる何かとして見ている。四年間の仕事に味を足した要素として、感謝すらしている。
「専務理事。……あなたは、職員の四割が去ったことを、どう思っているんですか」
「残念です」
鬼頭は即答した。
「あの者たちは良い手でした。惜しいことをしました。……ですが、木は残っております。三千人のうち千三百が出て、それでも組織は回っている。形は保たれました」
「保たれていません」
陽太は言った。
「あなたが辞めるんですから」
「私は木ではございません。庭師です」
鬼頭は穏やかに言った。
「庭師が変わっても、庭は残ります。……そういうふうに作ってまいりましたので」
◇ ◇ ◇
辞任の発表は、翌月の頭だった。
新聞は引責辞任と書いた。職員の大量流出、組織統制への疑義、その責任を取っての退任。世間はそう受け取った。四年間この国の秩序を支えた人物の、幕引きとして報じられた。
その記事を読んだ三日後、陽太のもとに鷹司から電話が入った。
「湊さん。……少し、嫌な話が入りました」
「どうしました」
「国土再生に関する新しい組織の話、ご存じですか」
陽太は受話器を握り直した。
「都市圏の拡張ですね」
「そうです。政府が本格的に動き始めました。バリケードの外の掃討と、都市圏の再拡大。……予算の規模が、これまでとは桁が違います」
「その組織に」
「入っております」
鷹司の声は硬かった。
「肩書きは、専門委員です。理事でも参与でもない。……名簿の真ん中あたりに、名前が一つ載っているだけです」
陽太は目を閉じた。
「実権は」
「ありません。会議で意見を述べる立場です。……ですが湊さん、あの人が一番得意なのは、何でしたかな」
「設計です」
「ええ。組織が立ち上がる前の、図面を引く段階です。……あの人は、実権のない場所で図面に手を入れる」
通話を切って、陽太はしばらく動かなかった。
引責辞任ではなかった。
いや、引責辞任ではある。責任は取った。椅子も降りた。世間はそう理解している。
だが、次の椅子は、辞める前から用意されていた。
ギルドという鉢で枝が動いたなら、鉢を替えればいい。国土を取り戻す事業なら、鉢は比べものにならないほど大きい。予算も、権限も、必要とされる秩序も。
(庭師が変わっても、庭は残ります)
あの言葉の意味が、今になって分かった。
あの老人にとって、機構は庭ですらなかった。四年間手入れをした鉢の一つにすぎない。
◇ ◇ ◇
黒崎が機構を去ったのは、鬼頭の辞任の翌月だった。
辞表は簡潔なものだったという。理由は一身上の都合。送別の会もなく、挨拶回りもせず、静かに広島の本部を出ていった。
その報せを陽太に伝えたのは、栗山だった。
「参与殿は、どこへ行かれたんでしょうな」
「聞いていないんですか」
「誰も存じません。ただ、噂だけは流れております」
栗山は少し笑った。
「どこかの街で、店を出す準備をしておられるとか」
「店」
「酒場だそうでございます。……本当かどうかは分かりませんが」
陽太は想像しようとした。恐怖で都市圏を縛った男が、カウンターの向こうでグラスを磨いている姿を。
うまく像を結ばなかった。だが、なぜか、あり得ない話とも思えなかった。
あの男は四年間、組織の秩序のために働いた。そして最後に、自分の判断で報告書の宛先を変えた。一度でも自分で決めた人間が、次にどこへ行くかは、もう誰にも決められない。
その夜、陽太は一人で競り場を見下ろしていた。
閉場後の場内は静かだった。明日も鐘が鳴り、値が付き、素材が動く。
勝ったのか、と自問した。
答えは、いつもと同じだった。
守れたものはある。市場は生きている。二十の市場は繋がったままだ。千三百人が手を挙げ、そのうち二百五十人が別の場所で働き始めた。戦略機構は動き出す。
守れなかったものもある。異動になった人たちは戻っていない。考課が下がった人の記録は消えない。介護を抱えた男は、来月から東北にいる。
そして、倒せなかったものがある。
あの老人は、悪事を一つも働いていない。四年間、誰よりも真面目に秩序を守った。そして誰よりも深く、秩序を保つことそのものを喜んでいた。その喜びは法に触れない。止める手立てがない。
次の鉢で、あの人はまた図面を引く。より大きな事業の、より根の深いところで。
(終わってない)
陽太は思った。
だが、それも当たり前のことだった。
市場は誰かを倒して勝つ場所ではない。毎日鐘を鳴らして値を付け、記録を残し、それを続ける場所だ。窓口の秤を直したときも、同じだった。直して終わりではない。歪まないように見張り続ける。
秤は歪む。見張りを絶やすな。
あの言葉は、勝利の条件ではない。続けることの条件なのだ。
陽太は暗い競り場に背を向けた。
明日も鐘が鳴る。