IR情報で読み解くダンジョン経済学   作:カトーユキヒロ

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第20話:次の鉢

 封筒に宛名を書くのに、黒崎は十分かかった。

 

 書き上げた報告書は三日前から抽斗にあった。中身は変えていない。同意率の推移、異動の内示の偏り、支部ごとの傾向。数字と分析だけの、感情を一切乗せない文書である。

 

 変わったのは、宛名だけだった。

 

 日本探索者支援機構専務理事、と書きかけて、黒崎は便箋を一枚無駄にした。二枚目も同じところで止まった。

 

 三枚目に、別の名前を書いた。

 

 ウォーター・ベイン株式会社代表取締役、湊陽太様。

 

 インクが乾くのを待ちながら、黒崎はこの数ヶ月のことを考えていた。

 

 よく見て、よく報せてください。あの穏やかな声はそう言った。見たいものではなく、あるものを見られる人は少ないのだと。

 

 黒崎は見た。数字を追い、傾向を読み、何が起きているかを正確に把握した。仕事は果たしている。

 

 残っていたのは、誰に報せるかだけだった。

 

(報告書というものは)

 

 黒崎は封をした。

 

 読んで何かが変わる相手に出すものである。東京へ出せば、あの人は読むだろう。丁寧に読み、数字を頭に入れ、そして何も変えない。変える必要を感じないからだ。

 

 ならば、この報告書の宛先は東京ではない。

 

 黒崎は封筒を鞄に入れ、机の抽斗を閉めた。

 

 抽斗の奥には、まだ白紙の便箋が一枚残っている。辞表の下書きに使うつもりだった。まだ書いてはいない。だが、いずれ書くことになるのは分かっていた。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 封筒が尾道に届いたのは、三日後だった。

 

 差出人の名前を見て、陽太はしばらく封を切らなかった。

 

 中身は報告書だった。表紙に「広島都市圏における出向同意状況の分析」とある。日付は二週間前。宛名の欄は空白のまま、封筒にだけ陽太の名が書かれていた。

 

 内容は、感情のない数字の羅列だった。

 

 同意率が全国平均を下回った時期。その時期に本部から支部へ出された文書の一覧。そこに妨害の指示が一通もないという事実。にもかかわらず同意率が一斉に下がった事実。そして、それが何を意味するかについての、ごく短い分析。

 

 最後の一行だけが、数字ではなかった。

 

 命令のない組織では、忖度は命令より強く働く。

 

「……この人は」

 

 凪が横から報告書を読んで、息を吐いた。

 

「自分の組織を、外から分析してるわね。これ、告発じゃないわ。ただの分析」

 

「告発にする気がないんだろう」

 

 陽太は報告書を閉じた。

 

「あの人は、見て報せるのが仕事だと言われた。それを、そのままやってる。……宛先を変えただけだ」

 

 報告書は、戦略機構の事務局へ正式に提出された。差出人を伏せることもできたが、陽太はしなかった。黒崎自身が名前を消していなかったからだ。

 

 波紋は、思ったより早く広がった。

 

 文書そのものは告発ではない。だが、内容は事実の積み上げである。国会でこれが取り上げられたとき、問われたのは鬼頭個人の責任ではなかった。

 

 指示を出さずに組織を動かせる構造。責任を負う者がどこにもいない仕組み。

 

 機構の内部統制そのものが、議論の俎上に載せられた。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 鬼頭から連絡が来たのは、その二週間後である。

 

 東京の機構本部ではなく、指定されたのは日本橋の小さな料亭だった。座敷に通されると、老人は先に座って茶を飲んでいた。

 

「湊さん。今日は、仕事の話ではございません」

 

 鬼頭は穏やかに言った。

 

「私の話を、少しばかり聞いていただきたい」

 

 陽太は座った。膳が運ばれてきたが、鬼頭は箸を取らなかった。

 

「黒崎さんの報告書、拝見いたしました」

 

「……」

 

「よく書けております。彼は数字を読む目がある。……あれを東京へ出さなかったのは、正しい判断でした」

 

 責める調子ではなかった。人事評価を述べるような口ぶりだった。

 

「専務理事」

 

「私は、来月付けで辞任いたします」

 

 あっさりと告げられた。

 

 陽太は箸を置いた。

 

「……理由を、伺っても」

 

「職員の四割が別の場所を選び、組織の統制のあり方が問われた。責任を取る者が要ります。私が座っていた椅子は、そのための椅子でもございます」

 

 鬼頭は茶碗を置いた。

 

「それだけの話です」

 

「それだけ、ですか」

 

「ええ」

 

 鬼頭は微笑んだ。

 

「湊さん。あなたに一つ、申し上げておきたいことがございます。……私は、あなたに負けたとは思っておりません」

 

「そうでしょうね」

 

「ですが、あなたがいなければ、私はあの椅子に座り続けていたでしょう。……これは、認めます」

 

 鬼頭の声は、いつもより少しだけ柔らかかった。

 

「四年間、私は良い仕事をしてまいりました。混乱の中で秩序を作り、飢えを減らし、暴力を抑えた。……あの頃、この国で最も難しい仕事でした。そして私は、それをやり遂げた」

 

「はい」

 

「湊さん。私が何を喜びとしてきたか、お分かりになりますか」

 

 陽太は答えなかった。

 

「金ではございません。名誉でもない。……崩れかけたものを整え、形を保っているのを見ることです」

 

 鬼頭は座敷の障子を見ていた。

 

「列が乱れずに並んでいる。倉庫の数が朝と同じである。誰も死んでいない。……そういう朝を迎えるたびに、私は満たされました。あれは、他では得られない喜びでしてな」

 

 陽太は、その言葉を静かに聞いていた。

 

 嘘ではない。この老人は、本当にそれで満たされている。

 

「ですが、正直に申し上げますとな」

 

 鬼頭は陽太の方を向いた。

 

「平穏が続くと、味が薄くなるのです」

 

「……味」

 

「形を保つのが易しくなると、保っていることに気づかなくなる。庭が荒れない年は、庭師の仕事は退屈でございます」

 

 老人の目に、初めて見る色があった。

 

「あなたが現れてから、私の仕事は面白くなりました」

 

 陽太の背筋が、静かに冷えた。

 

「固定価格を壊された。窓口の値を暴かれた。会議を取られ、共同提案を出され、国際の場で先を越された。……そのたびに、私は考えました。この形をどう保つか。どの枝を落とし、どこに支柱を入れるか」

 

 鬼頭は茶碗を持ち上げ、また置いた。

 

「四年間で、あの数ヶ月が一番、面白うございました」

 

「……面白い」

 

「ええ。庭に虫が入ると、庭師は本気になりますのでな」

 

 陽太は言葉を失った。

 

 この老人は、自分を敵だと思っていない。

 

 障害だとも、脅威だとも思っていない。

 

 剪定を面白くしてくれる何かとして見ている。四年間の仕事に味を足した要素として、感謝すらしている。

 

「専務理事。……あなたは、職員の四割が去ったことを、どう思っているんですか」

 

「残念です」

 

 鬼頭は即答した。

 

「あの者たちは良い手でした。惜しいことをしました。……ですが、木は残っております。三千人のうち千三百が出て、それでも組織は回っている。形は保たれました」

 

「保たれていません」

 

 陽太は言った。

 

「あなたが辞めるんですから」

 

「私は木ではございません。庭師です」

 

 鬼頭は穏やかに言った。

 

「庭師が変わっても、庭は残ります。……そういうふうに作ってまいりましたので」

 

 ◇ ◇ ◇

 

 辞任の発表は、翌月の頭だった。

 

 新聞は引責辞任と書いた。職員の大量流出、組織統制への疑義、その責任を取っての退任。世間はそう受け取った。四年間この国の秩序を支えた人物の、幕引きとして報じられた。

 

 その記事を読んだ三日後、陽太のもとに鷹司から電話が入った。

 

「湊さん。……少し、嫌な話が入りました」

 

「どうしました」

 

「国土再生に関する新しい組織の話、ご存じですか」

 

 陽太は受話器を握り直した。

 

「都市圏の拡張ですね」

 

「そうです。政府が本格的に動き始めました。バリケードの外の掃討と、都市圏の再拡大。……予算の規模が、これまでとは桁が違います」

 

「その組織に」

 

「入っております」

 

 鷹司の声は硬かった。

 

「肩書きは、専門委員です。理事でも参与でもない。……名簿の真ん中あたりに、名前が一つ載っているだけです」

 

 陽太は目を閉じた。

 

「実権は」

 

「ありません。会議で意見を述べる立場です。……ですが湊さん、あの人が一番得意なのは、何でしたかな」

 

「設計です」

 

「ええ。組織が立ち上がる前の、図面を引く段階です。……あの人は、実権のない場所で図面に手を入れる」

 

 通話を切って、陽太はしばらく動かなかった。

 

 引責辞任ではなかった。

 

 いや、引責辞任ではある。責任は取った。椅子も降りた。世間はそう理解している。

 

 だが、次の椅子は、辞める前から用意されていた。

 

 ギルドという鉢で枝が動いたなら、鉢を替えればいい。国土を取り戻す事業なら、鉢は比べものにならないほど大きい。予算も、権限も、必要とされる秩序も。

 

(庭師が変わっても、庭は残ります)

 

 あの言葉の意味が、今になって分かった。

 

 あの老人にとって、機構は庭ですらなかった。四年間手入れをした鉢の一つにすぎない。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 黒崎が機構を去ったのは、鬼頭の辞任の翌月だった。

 

 辞表は簡潔なものだったという。理由は一身上の都合。送別の会もなく、挨拶回りもせず、静かに広島の本部を出ていった。

 

 その報せを陽太に伝えたのは、栗山だった。

 

「参与殿は、どこへ行かれたんでしょうな」

 

「聞いていないんですか」

 

「誰も存じません。ただ、噂だけは流れております」

 

 栗山は少し笑った。

 

「どこかの街で、店を出す準備をしておられるとか」

 

「店」

 

「酒場だそうでございます。……本当かどうかは分かりませんが」

 

 陽太は想像しようとした。恐怖で都市圏を縛った男が、カウンターの向こうでグラスを磨いている姿を。

 

 うまく像を結ばなかった。だが、なぜか、あり得ない話とも思えなかった。

 

 あの男は四年間、組織の秩序のために働いた。そして最後に、自分の判断で報告書の宛先を変えた。一度でも自分で決めた人間が、次にどこへ行くかは、もう誰にも決められない。

 

 その夜、陽太は一人で競り場を見下ろしていた。

 

 閉場後の場内は静かだった。明日も鐘が鳴り、値が付き、素材が動く。

 

 勝ったのか、と自問した。

 

 答えは、いつもと同じだった。

 

 守れたものはある。市場は生きている。二十の市場は繋がったままだ。千三百人が手を挙げ、そのうち二百五十人が別の場所で働き始めた。戦略機構は動き出す。

 

 守れなかったものもある。異動になった人たちは戻っていない。考課が下がった人の記録は消えない。介護を抱えた男は、来月から東北にいる。

 

 そして、倒せなかったものがある。

 

 あの老人は、悪事を一つも働いていない。四年間、誰よりも真面目に秩序を守った。そして誰よりも深く、秩序を保つことそのものを喜んでいた。その喜びは法に触れない。止める手立てがない。

 

 次の鉢で、あの人はまた図面を引く。より大きな事業の、より根の深いところで。

 

(終わってない)

 

 陽太は思った。

 

 だが、それも当たり前のことだった。

 

 市場は誰かを倒して勝つ場所ではない。毎日鐘を鳴らして値を付け、記録を残し、それを続ける場所だ。窓口の秤を直したときも、同じだった。直して終わりではない。歪まないように見張り続ける。

 

 秤は歪む。見張りを絶やすな。

 

 あの言葉は、勝利の条件ではない。続けることの条件なのだ。

 

 陽太は暗い競り場に背を向けた。

 

 明日も鐘が鳴る。

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